【2038年1月19日】 第5章
全身から血の気が引き、脳裏に浮かぶはずの言葉がすべて霧散した。
何をどうすればいいのか、その回路すら吹き飛んで、ただ立ち尽くすしかなかった。
「ちょっ、ちょっと待て、説明させてくれ……!」
俺が慌てて口を開いた瞬間、目の前の"俺"も同じように喉を鳴らす。
「な、なに……?へっ……?なにこれ……?」
声がぶつかり、互いに引っかかり合う。
説明をしようとする俺と、言葉を失ってあわあわとするもう一人の自分。
ただ侵入者に怯えているわけじゃなかった。
そこに立っているのは、見間違いようもなく自分自身。まるで鏡の中から抜け出してきたようで、意味がわからなくなるのも当然だ。
恐怖よりも先に、理解不能の衝撃が頭を支配しているのが、表情からありありと伝わってきた。
「……落ち着け。俺を見ろ」
「や、やだ、やだ……」
目の前の俺は一歩、二歩と後ずさり、背中をドアにぶつけた。肩が小刻みに震えている。俺は両手をわずかに上げ、敵意のない仕草を示した。
「信じられないだろうけど……俺は未来のお前だ」
「……はっ……?」
「タイムスリップしてきたんだ。二〇三八年から」
もう一人の自分は瞳が大きく揺れ、次の瞬間、両手で頭を抱え込んでいた。
「タイムスリップ……?」
その言葉だけが耳に突き刺さったらしく、反射的に繰り返している。
その混乱をどうにか鎮めようと、俺は必死に次の言葉を探す。
「……お前、横浜ベイスターズの鈴木尚典が好きだろ?」
ぽかん、とした顔が返ってきた。
「……だれ?」
心臓がズルリと沈む。そうか、まだ野球に夢中になる前の年齢か。焦りがこみ上げ、舌の上で言葉が絡まる。
どうする。何を言えば伝わる?
俺にしか分からないこと、いまの“俺”に突き刺さるもの――
焦りで頭の中がぐるぐる回り、言葉が次々と浮かんでは消えていった。
そうだ――もっと直球で。
「……お前、“小林 愛”さんのこと、好きだろ?」
その瞬間、目の前の俺の肩がピクリと跳ねた。
瞳が泳ぎ、口元が引きつる。
「こばやしあい?……誰?」
白を切るようだが、声は裏返って言葉は途切れ途切れ。その姿を見て「ああ、昔から変わらず誤魔化してるなぁ」と同時に、自分がこんな顔で取り繕っていたのかと思うと、急に恥ずかしさが込み上げてきた。
「……お前バレバレだよ……てかお前は俺なんだもん」
すると、目の前の自分の口元から小さな笑いが漏れた。張り詰めていた空気が、ほんのわずかにほぐれていく。
一拍の沈黙のあと、俺は深呼吸し、真っすぐに言葉を投げた。
「驚かせて悪いけど、納得させるためにも、しっかり説明させてくれ」
目の前の俺は、まだ体をこわばらせたまま立っている。
「俺は見た目はこんなんだけど、四十九歳の“俺”なんだ」
「……よ、四十九?」
「そう、二〇三八年からタイムスリップしてきた……”してきた”というか、なぜか過去にいるんだよ。松代の方にある皆神山神社で初詣に行ってたんだ。それでまぁ……色々あって、気づいたらここに。気づいたら、この身体になってたんだ」
ぽかんと口を開けたまま、目の前の俺は瞬きを繰り返すだけだった。
「うーん……まぁ信じろとってのが無理があるよな。 じゃあ……」
俺は息を整え、目の前の自分を分からせる証拠を突きつけた。
「俺の父ちゃんは清、母ちゃんは京子、姉ちゃんは恵。それに従兄弟のいる田中家は松本に住んでる」
目の前の俺は眉間に皺を寄せ、言葉を確かめるように頷いた。
そして俺は最後の決め手を突きつけるように言った。
「……それから、俺は、カエルが大嫌いだ!」
「……っ!」
目の前の俺の肩が震え、喉がひくついた。目が泳ぎ、声にならない。
その反応だけで十分だった。
「どう? 俺にしか分からないことでしょ。だから俺はお前なんだ」
しばしの沈黙。
やがて目の前の俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……すげぇ……じゃあ、本当に……未来から?」
「そう、俺もよく分からんけど、今朝目が覚めたら体が小さくなってたんだ。だからもう一度、どうしてここに来たのか、最初から全部話すよ」
「う、うん」
「俺と一緒に暮らしてる彼女が言ったことなんだけど、2038年の1月19日……3時14分だったかな、世界の複数の観測機器が終わりを迎えるらしいんだ
で、さっき言った松代にある皆神山って場所の“特定地点”で、その時刻の直前にあることをすると何かが起きるかもしれない……いや、おそらく俺が何かしたからタイムスリップしたんだ。そう、とりあえず彼女は、そこへ行ってみたいって言い出したのが発端」
目の前の俺はまばたきを増やしながら、黙って聞いている。
「その時刻に向けて昨日の朝、俺と彼女が暮らしている埼玉の所沢から長野観光に来て、深夜に皆神山神社へ出発した。一応、初詣も兼ねてな
それで、参拝を済ませてから神社の奥のほうへ進んで、目印を頼りに“特定の地点”に向かったんだ
で、午前3時14分くらいに、視界の輪郭がぐにゃりと撚れて、耳鳴りが一気に膨らんで――目を覚ましたらこの身体に。2038年から1999年だろ、いま? 39年も遡って、つまりそれがタイムスリップってやつなんだと思う」
俺はできるだけ簡単に説明したつもりだったが、目の前の俺は口を半開きにしてポカンとしたままだった。
「……ちょっと、よく分かんない」
その顔に苦笑しかけたとき、不意に素朴な質問が飛んできた。
「そんなことより……未来の俺って、どんな感じなの?」
間を置かず、自然と言葉がこぼれた。
「普通だよ」
その瞬間、表情がしぼんだ。
ほんの一瞬前までの好奇心がしゅるしゅると抜け落ち、肩透かしを食らったみたいに目の光が沈んでいく。
――ん? いや待てよ。
普通? 逆にそれを変えたら、おもしろいことになるんじゃないか?
自分の口から出たその一言が、思いもよらぬ発想を芽生えさせていた。




