【2038年1月19日】 第4章
ロータリーの排気ガスと人のざわめきを背に、俺は駅舎のガラス扉を抜けて中へ足を踏み入れた。
「昔は……こんな感じだったか」
思わず呟く。いまの巨大な駅を知っている身には、このこぢんまりとした佇まいが妙に違和感を誘う。
正面に広がるのは、当時の長野駅の構内。自動改札はまだ導入されておらず、改札口には制服姿の駅員が立ち、切符を鋏で切っている。
耳を澄ませば、駅構内に響くアナウンスが「妙高号」「長野新幹線」という言葉を繰り返していた。まだ北陸新幹線ではない、“長野止まり”の新幹線。
「……完全に、99年に来てしまったんだな」
胸の奥にひやりとした実感が広がる。
切符売り場へ足を向ける。ガラス越しの窓口と、横には古びた自動券売機。液晶パネルではなく、オレンジ色のランプが光るだけの小さなボタンが縦横に並んでいる。
目的地は――牟礼駅。
「大人 230円 小児 120円」
迷った。
俺は四十九歳の意識を持っているのに、体はどう見ても九歳のガキ。
窓口で「大人です」と言えば一笑に付されるだろう。
後ろから咳払いが聞こえた。誰かが並んでいる。
早くしろと言わんばかりの気配に、心臓が跳ねる。
仕方なくポケットの小銭を取り出し、120円を投入した。
ガチャンという音とともに小さな切符が吐き出される。
手に乗ったその紙切れは驚くほど頼りなく、印字された「長野→牟礼 小」の文字がやけに目に刺さった。
「……120円、か」
その数字を見つめるうちに、心のどこかがざわめいた。
子供扱いされる後ろめたさと同時に、妙な安心感。
この切符一枚が、確かに“1999年のルール”を俺に強いてきている。
改札を抜けると、ガチャンと鋏を入れる乾いた音が耳に残った。
その先のホームに足を踏み入れた瞬間、ふわりと鼻を撫でる匂いがあった。
――出汁のいい匂い。
かつおと醤油が混ざった湯気が冬の空気に漂い、立ち食いそばの小さなスタンドから流れてきている。
「そっかー、いまはもうないんだったな」
湯気の向こうで、サラリーマンたちが密になりながら、眉間に皺を寄せ立ち食う姿が見える。朝から何も食べてないのでこの香りは危険だ。
「腹減ったー」
後ろ髪を引かれるが、いまは家に行くまで我慢するしかない。
ふと、奥のホームを見ると、ずんぐりした古い顔の車両が並んでいた。
白地に太い緑の帯を巻いた200系。
角ばった額と小さなライト。東北から転属してきたその古めかしい「あさま」は、最新型と比べると一世代前のにおいを纏っている。
「……まだ走ってたのか」
思わずつぶやいてしまう。足を止めかけたが、俺が乗るのは新幹線ではない。
在来線ホームで待っていると、低いモーター音とともに冷たい風が押し寄せた。
アイボリー地に水色と青緑のツートンカラーを巻いた115系が、ブレーキを軋ませながらゆっくりと滑り込んでくる。
窓枠は煤け、車体の金属はどこか鈍く光っている。
ドアの取っ手に手をかけてガタンと引くと、冷たい鉄の感触が掌に残った。
車内は蛍光灯の灯りがやや黄ばんでいて、ロングシートのビニール張りが擦れたように光っている。
足元からはストーブのような暖気がわずかに立ち上り、外の冷え込みが一気に和らいだ。
「……うわ、あったなぁ、こんなの」
思わず呟く。社会人になってからはもう消えてしまった光景。
ホームに立っていたはずなのに、気づけば子供時代の夢の中にそのまま入り込んだような錯覚に包まれていた。
* * *
発車のベルが鳴り、低いモーター音が響き始める。
窓の外で駅そばの湯気が流れて遠ざかり、やがて長野の町並みが動き出した。
市内は思ったほど街並みが変わっていないところに意外だなと思った。まぁ、こういうところが地方らしさといえばそうだなと。
しばらくして、古びた跨線橋が見えてきて、その先には昔からある東急ライフが見えてきた。電車が止まったのは小さな駅舎。最初の停車駅、北長野だ。
ホームには制服姿の高校生が数人立っていて、肩を寄せ合って吐く息が白い。
再び電車は車輪を響かせつつ、ゆっくりと次の停車駅、三才駅へと歩みを進めた。
やがて町の建物が少しずつ低くなり、畑や林が車窓に混じり始める。
小さなホームが見えてくると、看板の「三才」の文字に思わず目を奪われる――この駅名、子供の頃からどこか不思議で好きだった。
駅舎はまるでバス停の待合所のように簡素だ。
次の豊野駅から先は、いよいよ緑の色が濃くなる。住宅が途切れ、田んぼと林、そしてリンゴ畑が目立つようになり、山裾の小さな集落がぽつりぽつりと続いていく。
視線の奥には田畑が広がり、その先に雪をいただいた山並みが横たわる。新しい看板や舗装の匂いが混じる一方で、景色の大半は昔と変わらない。
豊野駅に着くと、畑の向こうに郵便局の赤いポストがちらりと見え、住宅街の隙間からは商店の古い看板が顔を出す。微妙に手直しされているものもあるが、全体の空気は当時のまま、凍った朝の冷気に包まれている。
「そういえば、高三の頃、豊野のマツヤでバイトしてたな。
豊野駅で降りて、チャリで店まで通ったっけ……」
車内に流れ込む朝の冷気を感じながらも、脳裏に蘇ったのは夏の夕暮れだった。
下校後に牟礼から電車に揺られ、豊野で降り、西日に照らされながらチャリでバイト先まで行った思い出が鮮やかに胸の奥に沁み込んでくる。
通学の学生や、買い物袋を提げたおばあさんが乗り込んでくる。
車内に人の気配が増え、冬の朝の生活の匂いだけじゃなく、妙に、九〇年代の日常のように見えた。
電車は再び動き出し、千曲川を渡ると景色は一気に開けた。
雪をいただいた山並みが、朝の光に白く染まっている。思わず窓を少し開けてみた。吹き込む空気も澄んでいて、あの頃の匂いがして嬉しくなった。
そして――牟礼駅。
駅に近づくと、ホームの脇に大きな天狗像が目に飛び込んできた。
赤い鼻に団扇を持ち、こちらを睨むように立っている。向かいのホームにも同じ天狗がいて、互いに睨み合うような格好だ。
「……あぁ、これだ」
子供の頃から見慣れた光景。
思わず口にしたあと、「あれ? 今はもう片方はなくなってたよな」と記憶がよみがえる。
プシューッと空気が抜ける音、ガシャンと金属が噛み合う音を立てて扉が開いた。足を踏み出すと、冷たい空気が頬を打つ。
駅舎はいまと変わらないこぢんまりとした平屋だ。改札口では駅員さんが「おはようございます」と学生たちを出迎えるように切符を受け取っているその光景は2038年の今も変わらずあったからこそ、安堵を覚えたと同時に、本当に1999年だよなと混乱する。
駅を出ると、ロータリーにはタクシーが数台、通学途中の学生が歩き出し、ブレザーの北部高校生、学ランの飯綱中学の生徒たちが朝のざわめきを作っていた。
「……さてと」
俺は駅前のロータリーを背に、左の坂道を登りはじめた。
足を進めるごとに、町のざわめきが背後に遠ざかり、耳に残るのは靴音と自分の息づかいだけになった。
やがて、道の向こうにニチアス工場の大きな建屋が見えてくる。灰色の壁の上に細長い煙突が突き出て、そこから白い蒸気がもくもくと空に昇っていた。子どものころから当たり前に見てきた風景で、牟礼の象徴的な景色だなと思わされる。
さらに坂を登ると、団地の入口の先にフォレストヒルズと呼ばれるちょっとした高級住宅地が見えてくる。ここは北米風の家屋で、すべての家には煙突があり、ガレージもでかい。どこか余裕を感じさせる家並みが、団地の素朴さと対照的だった。
そこを過ぎると、とうとう自分の家が見えてきた。
「あぁ……外壁、まだ紫のままか」
いまの黄色い外壁になる前の、元の色だ。そのまま残っているのが、胸に不意打ちを食らわせてきた。
「……帰ってきたんだ」
見上げながらも、足は玄関先まで踏み込めない。
「車は停まっているが……」
中に人の気配は感じられない。
胸の奥で、四十九歳の鼓動と九歳の体の小さな震えが混じり合っていた。
まるで、自分の家なのに“他人の家”を覗いているような――そんな背徳感に囚われ、影に身を潜めたまま、動けなくなった。
すると「おはよう」という声がして、心臓が跳ねた。
ビクッと振り向くと、斜向かいに住む村越さんが庭掃除をしているところだった。村越さんとは子どものころ、団地のコミュニティセンターへ遊びに行く時によく世話になったおばさんだ。
「おはようございます……」
思わず頭を下げる。
村越さんは笑顔を見せながら、軽く首をかしげて聞いてきた。
「学校はどうしたの?」
困った。ここで立ち話なんかしてる場合じゃない。
もし玄関から誰かが出てきたら――収集がつかないことになる。
「えっと……ちょっと先に行かなきゃならないとこがあって……」
自分でも何を言っているのかわからないが、とにかく適当に返すしかここは無理だと思った。
村越さんは少し怪訝そうに眉をひそめたが、「そうなの」と軽く笑ってそれ以上は追及しなかった。
「じゃあ気をつけてね」
そう言って去っていく背中を見送ると、俺はようやく息を吐いた。
「はぁ……危なかった」
足早に団地の道を歩きながら、とにかく家から距離をとった。
さっきの村越さんの顔が頭に残っていて、背中を見られているような気がしてならなかった。
歩きながら考える。
二つ上の姉と、もう一人の“九歳の自分”はきっと学校に行っているはずだ。
だから家にいるとしたら、両親。もし鉢合わせたら――説明のしようがない。
「……どうするか」
考え込んだ瞬間、腹の底から鈍い音が鳴った。
タイムスリップしてから、何ひとつ口にしていなかったのを思い出す。
「……セブンに行ってみるか」
団地を上がった先に長野市方面、牟礼、福井団地の分かれ道に三本松というT字路の交差点がある。その角に、セブンイレブンがあるので俺はそこでひと息つくことにした。
ポケットから財布を取り出し、中を確認する。
大人料金で切符を買わなかった分、小銭はまだ残っていた。
「これなら、おにぎりとお茶くらいは買えるな」
張りつめていた肩の力が少し抜けた。
セブンに入ると、皆神山でのデジャブように店員から怪訝そうな視線を浴びた。
やっぱりこの時間に子ども一人で来るのが不思議なのだろう。
俺は気づかないふりをして、ツナマヨのおにぎりと緑茶のペットボトルをレジに置いた。
硬貨を手渡すと、店員は特に何も言わずに袋に詰めてくれた。
――そうか、袋は無料か
外に出て、お茶を一口。少しは落ち着きを取り戻した感じがした。少しの間店の前で朝食タイムだ
「……生き延びられる」
小さな一食で、そんな言葉が頭に浮かんだ。
いつの間にか遠のいている。
こめかみを締めつけていた重さが薄れ、視界もはっきりしてきた。
それに、体が妙に軽い。
九歳の肉体は思っていた以上に疲れを引きずらない。
「……こんなに違うのか」
四十年分の重みを抱えてきた体とはまるで別物で、呼吸ひとつでも弾むように軽やかだった。
おにぎりを食べ終えると、すぐに実家へ戻る勇気は出ず、気持ちを落ち着けるために団地の別の道を歩いてみることにした。
さっきの道を下り、分かれ道を家から遠ざかる方へ右に折れる。
「……どうやって暇を潰すか、というより、この一日をどう乗り越えるかだよな。あずみちゃんとも会えないし……どうすりゃいいんだか」
ため息をついたそのとき、懐かしい看板が目に飛び込んできた。
「……くろさき?」
くろさきは所謂、地域密着型スーパー。2000年に撤退する前だから、まだ現役だ。
店内は暗く、開店前の静けさが漂っている。
中には入れないが、ガラス越しに見える棚やレジなどを、ただ立って眺めているだけで、ノスタルジーが一気に押し寄せてきた。
さらに歩くと、コミュニティセンターが現れ、その隣には南部保育園の園舎も見えて、当時の遊具の色まで脳裏に蘇る。
「……全部、変わらないな」
そうつぶやきながらも、足は自然と実家の方へ向かっていた。
道は一直線。遠くに、見慣れた家の屋根が小さくのぞいている。
その姿が大きくなるにつれて、心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響く。
一歩ごとに呼吸が浅くなり、足取りが重くなる。
そして、ついに玄関前まで近づいたとき――
「……車が、ない」
さっきまで確かに停まっていたはずの車が、影も形もなく消えていた。
おそらく、父は仕事で母は市内へ買い物に行ったか――
家の中は今なら誰もいないはず。
恐る恐る玄関に近づき、取っ手に手をかけて引いてみた。
カチリ、と乾いた音がして、やはり施錠されていた。
「……そうだ、傘立ての後ろ」
記憶が閃光のようによみがえる。
両親が留守のとき、決まってそこに鍵が置かれていた。
震える手で傘立てをそっと動かすと、冷たい金属が指先に触れた。
「……あった」
鍵を差し込み、ゆっくり回す。
カチャという小さな音が、やけに大きく響いた。
「……入るしかない」
片開きのドアを引くと、家の匂いが一気に押し寄せた。
畳の香り、木材の匂い、カラッとした実家の独特の空気。
足を忍ばせて二階へ上がってみる。
きしむ階段を一段上るたび、心臓が跳ねた。
そして、自分の部屋に足を踏み入れる。
ラジカセに漫画、プラモデル、九歳の頃のままの風景が広がっていた。全部が懐かしく、同時に異様に胸を締め付けてくる。
「……疲れた」
部屋まで入ってホッとしたのか、布団に腰を下ろすと、張りつめていた緊張がほどけていく。
少しだけ仮眠のつもりだった。
しかし瞼はすぐに重くなり、深い眠りに落ちた。
――ガチャッ。
玄関のドアの音で目が覚めた。
耳の奥で血がざわめき、全身に冷たい汗がにじむ。
階段を上る足音。
ギシッ、ギシッと板が鳴るたびに、心臓が軋むように痛む。
やばい。
とっさにベランダへ出て身を隠した。
そっと影から部屋をのぞくと――そこにいたのは“九歳の俺”だった。
頭では理解しても、心が追いつかない。
自分のはずなのに、自分じゃない。
目の前にあるのは間違いなく過去の姿なのに、今の俺から見れば「他人」としか思えない。
胸の奥がひっくり返るような感覚に襲われた。
恐怖とも安堵とも違う。
夢の底に沈んでいるみたいな、現実が足元から溶け出していくような――
そんな言葉にできない衝撃だった。
無言でランドセルを下ろし、机の横に置く。
そしてそのまま踵を返し、階段を下りていった。
「それよりも早すぎないか?」
時計を見なくても分かる。外はまだ昼の光。
息をつめたまま動けずにいると、ふいに朝の新聞の見出しが頭をよぎった。
――「市内小学校、今日から新学期スタート」。
「……そうか。今日は始業式だから授業はないのか」
思わず喉が鳴った。
もっと遅く帰ってくるはずだったが完全に想定外だ。
とにかくこのあとどうすればいいかだ。
きっと一階のリビングに行ってテレビをつけるか、台所でおやつを漁るか……しばらくはこの部屋に戻ってこない。
自分だからこそ、その行動パターンが読めた。
「……今のうちに」
ベランダからそっと部屋に戻り、再度身を隠せる場所を探そうとした――その瞬間、ドアが開いた
「……!」
少年の自分が、思いがけず部屋に戻ってきた。
目が合った瞬間、少年の瞳が大きく見開かれる。
頬がひきつり、声を失ったまま立ち尽くす。
凍りついた空気の中、俺の口から思わず言葉がこぼれた。
「……あっ」