【2038年1月19日】第3章
頬に触れる空気は、夜の刺すような冷気ではなく、妙に生ぬるい。
「……どうなって…? なっ……」
飛び起きて周囲を見渡す。
「なんだこれ?……なにが起きたんだ?」
声が震えた。
そして、さっきまで隣にいた彼女の姿が、どこにもない。
「おい……あずみちゃん?」
返事はなく、ただ自分の声だけが林に吸い込まれていく。
胸がざわつき、呼吸が浅くなる。
息が速い、やばい。吸っても吸っても足りない。
頭の奥が重く、ジンジンと脈打つように痛んだ。鼓動に合わせて波のように広がる痛みが、頭全体を締め付ける。
夢ならこんな生々しい感覚はないはずだ。それでも俺は、逆らうように首を振った。
「……夢だろ? 夢なら、さっさと終わらせろ……!」
必死に首を振るが、その度に激痛が走り、吐き気がこみ上げてくる。まるで「現実を受け入れろ」と訴えかけてくるかのようだった。
「……とんでもないことになった……」
それでも心のどこかで「まだ夢かもしれない」と縋ろうとしていた。
そのとき、ふと視界に入った岩へ、這うように近づいていく。
手のひらを押しつけると、冷たくざらついた感触が皮膚に食い込んだ。
そのまま額を寄せる。
呼吸が荒く、岩肌に白い息がかかる。
「……」
だが、力が抜けた。
突っ込む勇気は出ず、その場に崩れ落ちる。
四つん這いになり、項垂れたまま動けなくなる。
「……あずみちゃん、どこなんだよ…」
助けを求めるように叫ぶ。
「おーい!あずみー! おーい!」
必死の叫びは、山に反射して戻ってきた。
だが返ってきたのは、か細く高い、知らない子供の声だった。
胸が凍りつく。
思わず口を押さえながら、心の奥で叫ぶ。
――なんで俺だけなんだ?
息を荒げながらも、次第に頭の中が整理されていく。
あの瞬間、特定の地点に立っていたのは俺だけだった。
だから……あずみちゃんは現代に残っている。
一方その頃、現代に取り残された彼女は――
「さっくん?……どこ?」
――思い返せば、異変は03:14:07の直前から始まっていた。
時計の針が、03:14:04を示したとき、コンパスがぐらりと三十度ほど流れ、磁気ログのグラフが跳ね上がった。GPSの位置情報も数メートルぶれて、高度が一気に数メートル跳ねた。
その瞬間、耳の奥にかすかな高音が走って、ヘッドランプがチカッと瞬いたし。
そして、03:14:07。
画面の時刻表示が一瞬だけ「1970-01-01」になったのを見てわたしは息をのんだ。
隣を振り向いたとき、さっくんの姿は、もうなかった。
それまでオカルトの話半分で「タイムスリップなんてあるわけない」と思ってたけど――
「……やばっ」
あの場所に立っていたとはいえ、どうして俺だけが――。
全身を覆う異様な現実感は、ますます強まっていくばかりだった。
ここに突っ立っていても埒があかない。
足を引きずるようにして神社の鳥居まで戻ることにした。
胸の奥にはまだモヤモヤが残っている。
兎にも角にもタイムスリップした、ということなのか。
体はどう見ても子供に戻っているし、声も変わってしまっている。
なら、一体いつまで遡ったんだ?
焦りと疑念が渦巻く。
足を進めても、答えはどこにも転がっていなかった。
* * *
参道を下りていく。
石段は暗く、砂利を踏む音がやけに大きく響く。
そのざり、ざりという音が、自分ひとりしかいないことをいやでも実感させた。
街灯はなく、木々の間からのぞく空だけがわずかに白み始めている。
林道に出ると、道端には古びたガードレール。
ところどころ錆び、反射板は割れて黒ずんでいた。
だが――妙だ。
一月のはずなのに、骨まで刺すような寒さがない。
吐く息も、思ったほど白くならない。
まるで季節そのものがずれてしまったようだった。
山を下りると、田畑が広がっていた。闇の向こうにぼんやりと並んでいる軒先のポストや、集落の掲示板の貼り紙さえ、過去のものに見えた。
俺は家々の灯りに少し安堵しつつも、頭の痛みはしつこく残っていた。視界がじんわり滲んで、吐き気もかすかに残っている。
国道に出るまで歩き続けると、ようやく一角が明るく浮かんで見えた。
セブンイレブン。
闇の中で、あの四角い光は異様に目立っていた。
店のドアに手をかける。
自動かと思ったが、手動だった。
田舎とはいえ、意外な古さに胸の奥がざわつく。
一度深呼吸し、中に入ってみることにした。
暖かさと蛍光灯の独特な匂いが一斉に押し寄せ、一瞬で心の奥のどこかがきらりと光った。ここが――違う時代の場所だと、脳が理解した。
「いらっしゃい…ませぇ……」
「……あっ、どうも」
小声で挨拶しつつ、入口から立ちすくんだ。
この時間に子供ひとりで来るのが不自然なのだろう。
店員が怪訝そうにこちらを見ていた。
入口横の新聞コーナーに視線をやる。
手前に積まれた「信濃毎日新聞」。
日付を見て、目が見開いた。
1999年 4月1日 木曜日
「……1999年、4月1日?」
喉が勝手に震えた。
頭が真っ白になりそうだったが、思わず手が伸び、新聞を取ってしまう。
一面の見出しには「市内小学校、今日から新学期スタート」。
入学式を終えた親子の写真が載っている。
「てことは……俺、9歳……?」
他にも並ぶ新聞をめくる指が止まる。
サンスポ・日刊スポーツ「プロ野球開幕!松井、三冠の予感」
東スポ「怪物ルーキー松坂、プロ入り初登板へ」
読売「年度変わる 新元号も秒読みか?」
どれも未来の自分にとっては“知っている歴史”だが、この時代では今まさに起きている“現在”だった。
新聞をそっと戻し、気を取り直して店内を巡る。
雑誌コーナーには『週刊少年ジャンプ』、『週刊マガジン』、『コロコロコミック』。「ヒカルの碁」のカラー、「NARUTO」新連載の見出し、「ONE PIECE」はまだ影も形もない。ページを開かなくても、脳裏に当時の誌面が浮かんで胸が熱くなった。
冷蔵ケースに近づくと、俺は懐かしさで一気に爆発しそうになった。
Fantaのグレープとオレンジ、アクエリアス、クラシックなコーラ缶――どれも90年代特有のデザイン。ジョージアのブレンドのコーヒーのデザインも懐かしくて胸がぎゅっとなった。
「うわぁ…」
思わず声が漏れた。
パッケージが丸ごと、記憶の奥にしまい込まれていた時代の顔をしている。キラキラした気持ちがこみ上げてきて、夢中で棚を眺めていた。
その瞬間、レジの方から店員の視線を感じた。
やっぱり、不審がられている。
俺は慌てて財布のポケットに手を伸ばした。
中身は現代の一万円札、千円札。
「……これじゃレジ通せないな」
だが硬貨を確認すると、昭和の年号が刻まれた五百円玉や百円玉が数枚あった。
「……そうか、これなら使えるか」
あのとき、お賽銭用に自販機で買った飲み物のお釣り。
こんな場面で役に立つなんて。
まるで最初から、この瞬間のために用意されていたかのようだった。
だが、今ここで使うわけにはいかない。交通費やこれからのことを考えれば、一円たりとも無駄にできない。
「しょうがない、我慢するか」
俺は結局、何も買わずに店を出た。
外に出た瞬間、冷たい空気が頬を打った。
さっきまでの店内の温もりが、夢のように遠ざかっていった。
セブンを出て、国道沿いを歩き続ける。
ほどなくして、長野インターの標識が見えてきた。
道路は広くなり、車道の脇には駐車スペースらしき空き地や、古びたガソリンスタンドがぽつんと建っている。
「……おやきファームが、ない」
記憶の中にあるはずの大きな建物も観光バスの駐車場も、どこにも見当たらない。
代わりに目に入るのは、倉庫のようなプレハブと、丸大ハムの色あせた広告看板だけ。胸の奥にまたざわめきが広がる。
やっぱり、ここは――“あの頃”のままだ。
歩道を進むと、道路脇に小さなバス停が現れた。
白いポールに丸い看板、かすれた文字で「長野駅行」と書かれている。
過去の長野へ続く道が、ここから始まっているように思えた。
「何時があるんだ?…」
掲示板の時刻表を覗き込む。
始発は――六時五十六分。
「……え?」
目を疑った。
空はうっすら白み始めているが、どう見ても今はまだ五時前後。
あと二時間弱、この寒さの中で待てというのか。
こめかみの奥を、錆びた釘で締めつけられるような痛みがじりじりと広がる。タイムスリップ直後から続いている頭痛が、じわじわと意識を締め付けてくる。
胃の奥がざわつき、吐き気までぶり返しそうだった。
ヒッチハイクの二文字が頭をよぎる。
だが、勇気は出なかった。子供の姿でこの時間に手を上げても、誰も相手にしないだろう。
変に思われて通報されるのがオチだ。
「……我慢するしかないか」
深呼吸してポケットに手を突っ込んだ。
始発まで一時間以上。
その間にできることといえば、長野駅に着いたらどう動くかを考えるくらい――
長野駅に出て、電車に乗って――実家に行けばなんとかなるだろうか……
吐いた息が白く空に溶けていく。
頼れるものは何もなく、残されたのは俺ひとりだけだった。
* * *
遠くから大きなエンジン音が聞こえた。
最初はトラックかと思った。
だが、次第に近づいてくるライトの揺れ方で、すぐにバスだとわかった。
「……来た」
胸の奥がじんと熱くなった。
ただの路線バスなのに、涙が出そうなくらい感動した。
この寒さと孤独の中で、ようやく繋がる“文明”の手が差し伸べられた気がした。
白い車体が停留所に止まり、ドアがプシューと開く。
温かな車内の空気が外へ漏れ出してきた瞬間、体の芯まで緩んでいく。
「……助かったぁ」
後ろのドアから一歩踏み込む。
だが、床に埋め込まれた端末にICカードをかざす動作が、体からすっぽり抜け落ちた。
そこにあるはずの機械がない。代わりに「整理券をお取りください」と小さな箱が据えられている。
ためらいながら手を伸ばし、細長い紙片をつまみ取った。
数字の印字された薄い券。懐かしいような、でも扱い方を忘れてしまったような奇妙な感覚。
「この整理券どうするんだっけ……?」
心臓がやけに大きく鳴っていた。
一枚の整理券に、ここから過去のルールに縛られた気がして、無意識に緊張する。
車内はまだ誰も乗っていなかった。
後ろの席に腰を下ろすと、ようやく全身の力が抜けた。
握ったままの整理券を見下ろす。
小さな数字が印字されただけの薄い紙切れ。
「そうだ……これを降りるときに前で見せて、料金箱に入れるんだったな」
忘れかけていた手順が、じわじわと記憶の底から浮かんでくる。
ICカードを端末にかざす今の感覚とはまるで違う。
この頼りない紙切れ一枚が、乗った場所と運賃を示す――それが1999年のルールだった。
窓の外に目を向ける。
バスはエンジンを唸らせながら国道を進む。
街灯の少ない道を抜けると、田畑の黒い影が広がり、やがて住宅の数が増えていく。
古びた看板、まだ背の低い建物、白い軽自動車が並んだ駐車場――。
2038年に見慣れた再開発後の風景とはまるで違っていた。
ビルもマンションもほとんどなく、街全体が低く静かに横たわっている。
「……やっぱり、本当に戻ってきたんだな」
窓ガラスに映るのは、見慣れた顔のはずなのに声変わり前の少年の姿。
その違和感を抱えながらも、バスに揺られているうちに、少しずつ不安が薄らいでいった。
バスは住宅街を抜け、町並みが密になっていくと、次の停留所で、スーツ姿の男が一人乗り込んできた。
席に腰を下ろすと、胸ポケットから銀色の携帯電話を取り出す。
アンテナをカチリと伸ばし、親指で小さなボタンを忙しなく押し始めた。
どうやらメールを打っているらしい。
指先はまるで電卓を叩くように小さなキーを器用に操っている。
スマホに慣れた今の感覚からすれば、ぎこちなく見える操作が、逆に懐かしくて胸がざわつく。
気づけば、最初はまばらだった車内が、停留所に止まるたびに、ずいぶん賑やかになっていた。
黒い学ランの胸ポケットからイヤホンのコードを垂らし、膝の上に小さなMDプレーヤーを置いている子。
ブレザーの女子高生が四角いスクールバッグを抱え、友達と小声で笑いながら「プリクラ帳」をめくっているのも目に入った。
カラフルなシールがぎっしり貼られた分厚いノート。ページをめくるたび、キラキラした笑い声が弾けて、1999年という時代の匂いが車内に広がっていくようだった。
――全部、懐かしい。
俺が知っているはずなのに、遠く置き去りにしてきたものばかり。
胸の奥に沁み入り、窓の外の街並みまでも滲んで見える。
バスは人を乗せながら建物を増やし、街のざわめきに押されるように長野駅へと近づいていった。
「長野駅〜、長野駅……」
運転手のアナウンスが流れ、ブレーキの音とともに車体が揺れる。
前の扉へ向かい、握りしめていた整理券を料金箱の上に差し出す。
表示板には「大人300円・小児150円」とあった。
――俺は、どう数えられる?
一瞬ためらったが、手は勝手に小銭を探していた。
ポケットから取り出した百円玉と五十円玉を投入口に落とす。
チャリン、と響いた軽い音。
大人として生きてきた三十八年よりも、今のこの姿の方が優先される――ただそれだけのこと。
それでも妙に胸の奥がざわついた。
まるで自分まで“子供扱い”されたような感覚が、後ろめたさとともに残った。
降り口から一歩外に出た瞬間、肌を掠めた風が、景色そのものの匂いを纏って押し寄せてきた。
目の前にそびえるのは、灰色のコンクリートの駅舎。
正面のガラス扉の上には「長野駅」と書かれた古めかしい看板。
その脇には、今ではもう見かけない観光案内所の小さな建物が寄り添っている。
駅前のロータリーには、アイドリング音を立てるタクシーが列を作っていた。
白いクラウンセダン、日産セドリック。
角ばった車体に「個人タクシー」のステッカーが貼られている。
2038年のEVタクシーとはまるで違う、排気ガスの匂いがむっと漂っていた。
ロータリーの向こうには、丸善や西友の看板。
ファストフードのロッテリアが赤いネオンを光らせ、通勤客が足早に吸い込まれていく。
そして、まだ取り外されずに残った「NAGANO 1998 冬季オリンピック」の横断幕が風に揺れていた。
――1999年。
新聞で確かめた日付よりも、ここに吹く風の方がよほど雄弁にそれを告げていた。