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【2038年1月19日】第2章—長野にて(前)

車体が目白通りを滑り抜けると、街の雑踏は次第に背後へ遠ざかっていった。

真新しいビルの硝子が朝の光を反射し、一瞬だけ白く煌めいた後、郊外へと流れる風景に呑まれていく。


「やっと落ち着いたね」


彼女がシートを倒しながら、ひそやかにそう漏らす。


「うん。飯は高速に入ってからにしようか。その方が落ち着いて食えるし」


「そうね」


彼女は玄米茶を一口飲みながら答えた。

俺はポケットからナッツが入った小さなケースを取り出し、空腹を紛らわすように口に運びつつ、コーヒーを啜った。


1月も三週目に入ったせいか、帰省ラッシュもなく、車内は思いのほか空いていた。それでも、長野観光らしい外国人のカップルや家族連れがちらほらと座っている。


しばらくして座席モニターに表示が現れる。

「現在地:練馬インター通過。目的地・長野駅前まで残り約二時間五十分」


十数年たった今でも高速バスの仕組みは驚くほど変わっていない。ただ、道路情報や混雑予測はすべてAIがリアルタイムで修正し、到着予想はほとんど誤差なく示される。それが、かつてとの大きな違いだった。


「休憩ってどこだったっけ?」


「えーっと……高崎あたりで十五分くらい、かな」


するとAI音声が運転席横から柔らかく告げる。

『本日はご乗車ありがとうございます。このバスは終点・長野駅前まで運行いたします。途中、休憩は横川サービスエリアにて約十五分間停車致します』


「横川だ。休憩は一回だけだね」


「はいよー」


彼女は軽く返事をした。


* * *


バスは関越道を北上し、所沢を過ぎて秩父方面に差しかかる。

窓の外に広がるのは、冬枯れの畑と低い山並み。高速のガードレール越しに、白く霞む秩父山地の稜線が遠くに見え始めていた。


「うわぁ……すごいね」


パンを片手に、彼女は口をあんぐり開けたまま「ほー」と感嘆の声を漏らす。


「いまは秩父の辺りだね。自然って感じだよね」


俺はサンドイッチを頬張りながら答える。


「都会だと機械や広告に囲まれてばっかりだから、こういう景色って新鮮に見える」


「目が癒されるね。新幹線だとこの位置からは見えない景色だし。まぁ富士山は新幹線の方が見えるけど」


彼女はしばらく窓の外を眺めていた。

土に色を残す畑、小さく揺れる枯草、白い霜に覆われた野面。人の気配がほとんどない冬の風景は、不思議と飽きがこなかった。


やがてバスは減速し、緩やかに横川SAへと滑り込む。

停車すると、車内の乗客たちは一斉に立ち上がる。

伸びをする者、トイレへ急ぐ者、売店を目指す者。ドアが開くと同時に冷たい風が流れ込み、座席に溜まっていたぬくもりを一気に奪った。


俺と彼女もゆっくりと車内を降りる。

所沢で感じた朝の冷気とはまた違う、澄んだ空気が頬を鋭く刺した。


「さむ〜」


「ひえー……」


吐いた息が白く重なり、顔を見合わせて思わず笑った。


SAは、思ったほど人は多くない。

平日の午前、観光客らしい姿は少なく、駐車場もまばらだった。


俺はトイレへ向かう。個室のランプはほとんど空き表示で、列もなく、すぐに中へ入れた。

コーヒーとサンドイッチで落ち着いた腹の流れを済ませ、手を洗って出てくると、彼女もちょうど女性用トイレから出てきたところだった。


「寒ーい」


「でも、空気が全然違うからまだこっちの方がいいでしょ」


「確かに。都内と気温はそんな変わらないのに、向こうは嫌な寒さがある感じ?」


「そうそう。やっぱ空気が全然違うからいいよね」


「何回言うねん……」


そう笑った彼女の鼻先を、ふわりと揚げ物の匂いがかすめた。


「あー、なんかいいニホイがする」


売店の前では、自動フライヤーがコロッケを揚げる音が小さく響いていた。AIが油を最適に保っているせいか、酸化臭はなく、衣の香ばしさとじゃがいもの甘みだけが冷気の中に鮮やかに広がってくる。


俺も思わず腹のあたりが反応した。ついさっきバスの中で朝食を済ませたばかりなのに、不思議と食欲が掻き立てられる。揚げたての誘惑は強い。


けれど、俺たちは顔を見合わせ、小さく肩をすくめ合いながら、売店を横目にバスへと戻った。


やがて休憩終了のアナウンスが響き、バスがゆっくりと動き出すと、彼女はシートに身を沈めながら呟いた。


「帰りもまた、ここで休憩するのかな」


「うん、多分そうだよ」


俺は曖昧に返し、残ったコーヒーを飲み干した。

バスは静かに加速し、俺たちをさらに遠い長野へと運んでいった。


車窓の外は冬枯れの畑が遠ざかり、やがて山の稜線がじわりと近づいてくる。陽は高くなり、ガラス越しの光が白く座席を照らしていた。


俺はシートに身を預け、目を閉じてみる。仮眠を取ろうとするが、どうにも眠りに落ちきれない。背中に残るエンジンの震えや、遠くから聞こえる道路のざらついた音が、意識の表面をくすぐる。


まどろみそうで、落ちきれない。そんな感覚だけが、もやのように広がっていった。


彼女はスマホで漫画を読んでいる。

指先が静かに画面を払うたびに、表情がかすかに揺れた。眉が寄ったり、口元がわずかに緩んだり。その細やかな変化は、彼女が物語の中に深く沈んでいることを示していた。


同じ空間にいるのに、別々の時間を過ごしているような、不思議な隔たりを、俺は感じた。


* * *


一時間ほど経ち、バスは佐久平を過ぎていた。

窓の外には、低い住宅が連なる長野市の街並みが見えはじめる。

冬枯れの田畑は途切れ、灰色の建物が視界を埋めていく。


「はぁ……」

小さく吐息をもらす。結局ひと眠りもできなかった俺は、モヤモヤしたまま、時間だけが過ぎていった。


やがてバスが屋代に差しかかると、車窓の先にひときわ目立つ山が現れた。

山肌には白い霜がまだらに残り、台形の斜面は曇り空へ切り立つようにそびえている。

ただの山ではない。まるで人工的に積み上げられた巨大な石塚のような、異様な存在感を放っていた。

——皆神山だ。


古代から「日本のピラミッド」と呼ばれ、古墳群も残るという土地。


「ねぇ、あずみちゃん。あれが皆神山」


俺は窓の外を指差す。


「へー、すごい。なんか、不思議な形だね」


彼女はじっとその山を見つめていた。


その後、バスは屋代からすぐに松代を抜け、再び北へ進む。


『長らくのご乗車、ありがとうございました。まもなく長野インター前、長野インター前に停車いたします……』

車内アナウンスがそう告げた時、俺はいよいよ長野だと、妙なワクワク感が湧いてきた。


バスは料金所を抜け、一般道へと降りていくと、街並みも年々変わっているように見えた。

コンビニの看板は無人店舗のサインに置き換わり、道路脇の古びた商店の跡地には新しいドラッグストアが。道幅は広げられ、信号はほとんどがAI制御のスマート信号に更新されている。


すると、乗客の一人である欧米人が、窓の外を指差して『What's that?』と声を上げた。つられて視線を向けると、丸みを帯びた巨大な館の外周を、何十本もの木の柱が取り囲むように並んでいた。観光客が体験型の工房に出入りする姿がガラス越しに見える。古代の神殿を現代に蘇らせたかのような不思議な建物だ。


「あー、おやきファームか。……ねぇ、あの大きなのがおやきファーム」

漫画に夢中な彼女へ声をかける。


「なにそれ?」


「おやきを作っている工場でもあるし、実際作ったおやきをそこで陳列したり、おやき体験もできるの」


「へー、おやき作りも体験できるんだ」


「そうそう。……なんだかんだ建設から15年経つのか」


2022年、新たな取り組みとして、おやき工場と売り場を兼ねた施設。昔は国道沿いにぽつんと直売所があるだけだったが、今では観光バスも立ち寄る巨大な拠点に変わっている。


その向かいには、停留所である長野インター前があり、ゆっくりとバスは最初の降車をした。


何人かがここで降り、さらに数分後には『川中島古戦場』、続いて『下氷鉋』『丹波島橋南』と停まり、そのたびに数人が席を立った。

いずれも大きな団体ではなく、点々とした乗降だけ。

ドアが開くたびに冷気が流れ込み、ぬるい暖房の空気が一瞬かき消された。


「ちょっとずつ人が減っていくんだね」


彼女が小声でつぶやく。


「まぁ、市内に入るとこんな感じだね」


乗客はまばらになり、車内にはエンジン音と微かな振動だけが残った。

窓の外を流れる景色も、田畑から住宅街へと切り替わり、ビルの影がじわりと近づいてくる。


バスは丹波島橋を越え、県庁通りを走ると、ついに、車内表示に「長野駅前」の文字が点灯した。


『長らくのご乗車お疲れ様でした。まもなく終点、長野駅前。長野駅前に到着いたします』

抑揚のないAIの合成音声が、車内スピーカーから一様に響いた。


窓の外には、曇り空の下で広がる街並み。

山間の街にしては珍しく、道路は乾いていて雪の白さは見当たらない。

歩道の片隅に、かすかに残った氷のかけらが冬の名残を示しているだけだった。


彼女はスマホをしまい、軽く背伸びをする。


「もうすぐだね」


「うん」


バスは駅前の大通りを抜け、七番のりばへ静かに停車した。

止まった途端、それまで抑え込まれていたように車内がざわめき出す。シートベルトの金具が外れる乾いた音、分厚いコートが擦れる音、荷物を抱え直す気配――耳にいくつもの音が重なり、ようやく目的地に着いたことを実感した。



ドアが開き、冷えた空気が流れ込んだ。

一歩踏み出すと、目の前には、ガラス張りの壁と木組みの骨格が組み合わさった巨大な駅舎がそびえていた。


駅前の広場には、電動タクシーが静かに列を作り、路線バスもすべてEVに置き換わっている。

モーター音すら聞こえず、車の出入りは驚くほど滑らかだった。

今ではすっかり日常の光景だが、彼女はしばし見入っていた。


観光客がスーツケースを転がし、地元の人々が足早に駅へ吸い込まれていく。

耳に入る言葉の半分近くは英語や中国語、韓国語で、雑踏は国際色に染まっていた。

だが駅前は決してごみごみしていない。

都内の同じ規模の駅なら息苦しいほど人があふれるのに、ここ長野では不思議な余裕がある。


「駅でかいね」


彼女が駅舎を見上げてつぶやいた。

初めて降り立つ土地への戸惑いと、わずかな高揚が混じった声だった。


俺にとっては、この空気こそが「帰ってきた」という実感を与えてくれる。

外国人が増えたこと以外は、見慣れた長野駅のままだった。


俺たちはまずホテルへチェックインすることにし、駅前の大通りへと歩き出した。彼女は肩にかけたバッグを直しながら、きょろきょろと周囲を見回している。


駅からまっすぐ伸びる大通りには、土産物屋やカフェ、観光案内所が並んでいた。

外国人観光客の姿が目立ち、軒先の看板には英語や中国語の文字が当たり前のように書かれている。

その風景に彼女は小さく感嘆の声を漏らした。


「思ったより都会だね」


「うん、北陸新幹線が通ってから観光客も増えたし」


通り沿いには、電動タクシーが音もなく走り抜けていく。

静かな車列と、歩道を行き交う人のざわめきが奇妙に調和していた。


足を進めるたび、胸の奥に静かな安堵が広がっていった。やっぱり、ここが自分の街なのだと。


目的地のホテルは駅からほど近い。

ごく普通のビジネスホテルだが、今日だけは旅の拠点だった。


自動ドアを抜けると、暖房の効いたロビーに人の列ができていた。

フロント横には自動チェックイン機が並び、国内客の多くは顔認証やQRコードで手続きを済ませている。

外国人観光客はスタッフの前でパスポートを差し出し、従来どおりのやりとりをしていた。

俺たちは予約名を告げ、スマホ決済を済ませ、カードキーを受け取った。


エレベーターで客室階へ上がる。

ドアが開くと、同じ階に泊まる観光客らしき欧米人の二人がちょうど廊下を歩いていた。


男性は体格がとにかく大きく、肩幅も広い。背中には大きなリュックを背負い、手にはキャリーバッグを引いている。

隣を歩く女性は金髪のロングヘアーで、すらりと背が高い。こちらも同じように大きなキャリーバッグを転がし、これからチェックアウトに向かう様子だった。


すれ違いざま、男性がにこやかに「Hello」と声をかけてくる。

俺が反射的に「ハロー」と返す横で、彼女も恥じらうように、小さな声で「…ハロー」と続けた。


二人は軽く会釈し、そのままキャリーケースをゴロゴロと転がして廊下の奥へ消えていった。

規則正しく並んだドアが廊下の奥まで続き、俺たちは自分たちの部屋へと向かった。カードキーをかざすとランプが緑に変わり、ロックが外れる感触が手に伝わった。


部屋はシンプルな造りで、壁際にシングルベッドが二つ、窓際には小さな机と椅子。加湿器と空気清浄機が一体になった最新型の機械が低く唸りを上げている。


「思ったよりきれいだね」


彼女は靴を脱ぎ、ベッドにぽすんと腰を下ろした。

俺はリュックを机に置き、コートをハンガーに掛ける。


窓の外には長野駅前の広場が広がり、電動タクシーの列や人の流れを見下ろせた。眺めているうちに、なんとなく落ち着いた気分になる。


「少し休んでから散策しようか」


俺が言うと、彼女は小さく伸びをして頷いた。


部屋の空気は乾いていたが、シーツの匂いと機械の低い唸りが、旅の始まりを確かなものにしてくれた。


* * *


自動ドアを抜けると、冷たい空気が肌を刺した。

駅前は相変わらず人の流れが絶えず、観光客のグループがスマホを掲げて写真を撮っている。電動タクシーは列を作り、歩道には外国語が飛び交っていた。まるで国際都市の一角にいるようだ。


「どっちに行く?」

彼女が俺を見上げる。


「まずは駅前をぶらつこうか。腹ごなしも兼ねて」


大通りから一本外れると、雰囲気は一変する。

二線路通りと呼ばれるその辺りは、古いビルや細い路地が入り組み、駅前の整然とした空気とはまた違う顔を見せていた。


「昔、この辺に佇まいのいい喫茶店があってさ……」


俺は歩きながら、ふと口を開いた。


「昭和の匂いをそのまま残した店で、すごく居心地が良くてね。上りの高速バスに乗る前、母ちゃんとよくそこでコーヒーを飲んだんだよ。…でも十五年前に閉店して、今はBarになったのかな? 途中、派手なコスプレ喫茶なんかも入ってさ――残念だね、この辺喫茶店少ないから」


「へえ、なんか歴史を感じるね」

彼女は興味深そうに周囲を見回す。


善光寺の方へ行こうかと考えつつ、腹の虫に気づく。時計を見るとまだ昼前だが、胃は正直だった。


「あ、そうだ。あそこのラーメン屋に行こう!」

声が自然と弾む。


中学生の頃、塾の帰りに立ち寄った店。初めて食べたときの濃厚な味は衝撃で、記憶に刻まれた。

やがて上京してから横浜や都内で同じ味に出会い、ようやく気づいた。

「あの店は家系ラーメンだったんだ」と。


以来、帰省のたびに必ず立ち寄る思い出の店――「ラーメン よし家」。

駅から十分ほど歩いた大通り沿いに、吉野家を思わせるオレンジ色の看板が、昔のまま残っていた。


「だいたい、家系の具ってほうれん草だけど、あそこはキャベツなんだよ」


「えー、わたしキャベツだめじゃん」


「抜きもできるから大丈夫だよ」


「ラーメンよし家、今日はやってるかな」


そう言いながら、俺は少し足早になる。

だが店に着くと、シャッターは半分下り、入口には「本日臨時休業」の札がぶら下がっていた。


「あらまぁ、やってないね」

彼女が小さくつぶやく。


「うわぁー、ショック……じゃあ別のラーメン屋に行くか」


俺は肩をすくめ、スマホで「ラーメン」と検索した。すぐに駅前の人気店「らぁめん みそ家」を思い出す。信州味噌一筋を貫く店だ。


「ちょっと戻るけど、あそこも旨いから行こう」


「ほい」


駅前に戻り、俺たちは暖簾をくぐった。昼前だというのに店内は賑わい、カウンターには観光客の姿が並んでいる。

湯気と一緒に立ち上る味噌の香ばしさに、思わず腹が鳴った。


券売機で味噌チャーシューを二枚選び、席につく。

しばらくして運ばれてきた丼からは、濃厚な信州味噌の香りが立ちのぼった。


スープをすすると、こってりしながらも丸みのある味わいが広がる。

「……ああ、やっぱり旨い」思わず声が漏れた。


麺はもちっとした食感で、もやしと挽き肉の香ばしさがスープに重なる。

炙りチャーシューも味がしっかりしており、噛み締める楽しさがある。


「熱っ、でも美味しい」

彼女は夢中で箸を進めていた。


丼を空にし、外へ出ると、冷たい空気が頬を刺すが、体の芯は温かいままだった。

駅前の雑踏の中で、俺たちは顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれた。



駅前から中央通りへと足を向ける。

歩きながら街の空気を吸い込む。

古い商店と新しいビルが並ぶ通りには、観光客や地元の人が入り混じり、どこかゆったりとした空気が流れていた。


善光寺方面へ歩きながら、俺はふと足を止めた。


「そうだ、お賽銭の小銭を用意しておかないとな」


彼女が首をかしげる。


「キャッシュレスで済ませられるんじゃないの?」


「いや、皆神山は初めてだし、対応してるかどうかわからない。念のため崩しておこう」


駅前の新しい自販機はどれもキャッシュレス専用で、小銭を受け付けない。

少し奥へ歩いて、古びた筐体を見つける。投入口のある自販機はもう珍しくなっていた。


「何か飲む?」


「じゃあ、ほうじ茶」

と彼女が言う。


取り出し口から缶コーヒーとペットボトルのほうじ茶を一本取り上げ、彼女に渡した。すぐにお釣りがジャラリと落ちてくる。鈍い色味の硬貨を指先でつまみ、財布に滑り込ませた。

他の新しいものに比べ、妙に古びて、時間の層を纏っているように思えた。


散策を終えてホテルに戻ると、外気の冷たさから解放されてほっとした。

エレベーターに揺られ、カードキーで部屋に入る。

さっきまで冷えていた身体が、エアコンの温風に包まれてゆっくりと溶けていく。


彼女はコートを椅子に掛け、ベッドにごろりと横になる。


「ふう……やっぱり暖かいって幸せ」


缶コーヒーを飲みながら、ガラス越しの駅前をぼんやり眺める。昼のざわめきは少し落ち着きを取り戻していた。

行き交う電動タクシーの列や、人の流れをぼんやり眺めながら、旅の余韻に浸る。


「善光寺は明日でいいか」


「うん」


半分眠そうな声が返り、部屋の静けさに包まれる。


俺は、バスでろくに眠れなかった分、深い眠りに落ちた。


* * *


――目を開けると時計は16時を指していて、身体の重さがすっと抜けているのを感じた。


彼女はまだ寝息を立てている。俺は少し時間を持て余し、なんとなくロビーへ降りることにした。


ロビーは静かで、ソファに腰かけた外国人客がタブレットを操作している。

壁の大型ディスプレイからはニュースが流れ、AIアナウンサーの感情を排した声が響いていた。


「来月に迫る二〇三八年問題――各国の金融機関や交通システムで対策が急がれています」


聞き流すつもりだったが、耳に残る言葉に視線を上げる。

フロント脇のラックに置かれた新聞にも、同じ見出しが踊っていた。


ポケットからスマホを取り出すと、画面にはさらに扇情的な記事が並んでいた。

〈2038年1月に大災害が起きるのか?!〉


馬鹿げた見出しに苦笑しながらも、脳裏にはあの山が浮かんだ。

皆神山――そして深夜に向かう特定地点。


軽く息を吐き、スマホをしまう。

しっかり眠れたはずなのに、心の奥に微かなざらつきが残ったまま、俺は部屋へ戻った。


部屋に戻ると、ドアの音に反応したのか、彼女が目を覚ました。

カーテンの隙間から駅前の灯りが細くのび、静かな空気が部屋を満たしている。


「起きられる?」


「うん」

彼女は寝息を一つ吐きながら答えた。


「もう夜?」


「まだ16時だけど、もう暗いね」


俺がそう言うと、彼女はリュックから一枚の紙を取り出した。

手描きの地図には、細かな座標や線が書き込まれている。


「なにこれ?」


「例の特定地点までの行き方と、緯度経度を記したもの」


彼女は続けて数字を口にした。


「日付が変わって三時十四分〇七秒。UNIXタイムの限界、2147483647秒。世界標準では2038年1月19日の03:14:07」


「……ちょっと待て、何言ってるの? それってどういうこと?」


「つまり、古い機械の時計は時間を“秒の数”で数えてるの。そのカウンタがいっぱいになって、次の一秒を知らなくなる瞬間がある。だから一瞬だけ、世界の一部で時刻がよろける」


「なるほど、機械のくしゃみ、みたいなもんか」


「そう。たいていは対策済みだけど、ゼロにはならない。だから“揺らぎ”が大きくなりやすい時間に立ち会う」


「その“揺らぎ”と山は関係あるの?」


「直接じゃない。でも形には効能がある。尾根は風を集めて、谷は音を伸ばす。夜は風が落ちてノイズが減る。静かな場所と静かな時刻を重ねれば、微かな変化に気づきやすいの」


「見えないものを見るための舞台づくりってことか」


「そう。オカルトっぽいけど、やってることは観測の準備」


地図に薄い紙を重ねると、風向の矢印や地磁気の等値線が交差していた。


「出発は深夜で間に合うよ。1時半くらいに出れば余裕だと思う」


「わかった」


窓の外に広がる駅前の灯りは、昼間の賑わいを失いながらも規則正しく瞬いていた。

観光の一日が終わるはずだったのに、頭の中では彼女の言葉が反芻(はんすう)する。


「日付が変わって三時十四分〇七秒。UNIXタイムの限界」


ただの計算上の話、ただのシステムの問題――そう片付ければいい。

本来の目的は長野観光で、皆神山は初詣のついでに過ぎない。

それなのに——胸のざわめきを抑えきれず、気づけば、来るべき時刻を待っている自分がいた。

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