【2038年1月19日】 第13章
帰りの空気は、久しぶりに肺の奥まで入ってくる気がした。
長野駅前の喧騒を抜け、一本奥の通りへ入ると、街の音が一段階だけ下がる。さっきまで頭を占領していた佐山の言葉が、歩くたびに足元へ沈んでいくような感覚があった。
(戻れる。でも、戻れていないかもしれない)
何度も頭の中で反芻してしまう。
理解したつもりでも、納得とはまるで別物だった。
電車に揺られているあいだ、窓に映る自分の顔を見た。
九歳の輪郭。
でも、目だけがやけに疲れている。
牟礼駅で降りると、空はもう薄い群青に変わり始めていた。
駅前の静けさは相変わらずで、観光地でもなく、ベッドタウンとも言い切れない、この中途半端な空気が妙に落ち着く。
家までの道は覚えている。
舗装の割れ目。
用水路の蓋。
角を曲がった先に見える、少し傾いた電柱。
——全部、知っているはずの景色。
なのに。
(……これ、全部“失う可能性がある”んだよな)
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥がぎゅっと締まった。
ただ歩いているだけなのに、選択肢の重さがついてくる。
玄関の引き戸を開けると、家の中から油の音が聞こえた。
台所で、母が夕飯の支度をしている。
「おかえり、ミライ」
振り返った母の声は、いつも通りだった。
それが、なぜか一番きつい。
「……ただいま」
靴を揃えながら、佐山の言葉が頭をよぎる。
——君が過去で動けば動くほど、元の未来へ続く道筋は細くなる。
台所の匂い。
味噌と出汁。
揚げ油の残り香。
(これも……細くなるのか?)
「どうだった?」と母が何気なく聞く。
俺は一瞬、言葉に詰まった。
全部話すには重すぎる。
かといって、嘘をつくのも違う。
「……いろいろ、分かった」
それだけ言うと、母は深く追及しなかった。
その距離感が、ありがたくて、少しだけ苦しい。
二階に上がると、しんいちの部屋から鉛筆の音が聞こえた。
宿題をしているらしい。
襖の隙間から覗くと、机に向かう背中が小さく揺れている。
未来を何も知らない、九歳の背中。
(俺は……こいつの未来を“使える”)
その事実に、ぞっとした。
佐山は言っていた。
未来を知ることは、武器にもなるし、刃にもなる、と。
「ミライ?」
しんいちが顔を上げる。
目が合った瞬間、無邪気に笑った。
「なに?」
「……いや」
それ以上、何も言えなかった。
部屋に戻り、布団に腰を下ろす。
天井の染みの形まで覚えている。
でも今日は、それがやけに歪んで見えた。
(二〇〇八年……二〇一八年……)
佐山が言った“山”と“谷”。
安全と危険の境目。
選べる時期。
選べない代償。
そして、その先にある――
戻ったはずなのに、戻れていない未来。
あずみちゃんの顔が浮かぶ。
笑っている顔。
少し拗ねた横顔。
長野駅前を一緒に歩いた、あの短い時間。
(……彼女の未来も、俺の選択次第、か)
守りたいものが、はっきりしすぎている。
それが、いちばん危険だった。
未来を“良くしたい”という欲。
取り戻したいという焦り。
全部救いたいという、強欲。
佐山の声が、静かに重なる。
——何かを選べば、何かを失う。
布団に横になり、目を閉じる。
眠気は来ない。
代わりに、選択肢だけが増えていく。
(……まだ、引き返せる)
そう思った直後、
なぜか、引き返したくない自分がいることに気づいてしまった。
それが一番、怖かった。
この先、俺は——
どこまで未来に手を伸ばすんだろう。
天井の向こうで、家族の生活音が続いている。
変わらない夜。
けれど、もう同じ夜ではなかった。
選択は、
すでに始まっていた。




