【2038年1月19日】 第12章
佐山の研究室は、夕方になると妙に静かだった。
窓の外では、キャンパスを行き交う学生たちの声が遠くに滲んでいる。
それがまるで、別の時間帯の音のように感じられた。
机の上には、古い地図、手書きのノート、コピーされた論文の束。
どれも新品とは言い難く、使い込まれた痕跡があった。
「……さっきの話の続きだが」
佐山は眼鏡を外し、指で目頭を軽く押さえた。
「君が落ちた“谷”は、偶然ではない。
だが同時に、君だけのものでもない」
「どういう意味ですか」
「時間の波は、誰にでも等しく訪れる。
ただし――深く沈む“谷”は、人によって違う」
佐山は、三つの年号を指でなぞった。
二〇〇八年
二〇一八年
二〇三八年
「この三つは、いずれも“窓”が開く可能性がある年だ。
だが、性質はまったく違う」
「違う……?」
「二〇〇八年は、不安定だ。
揺らぎは大きいが、制御が難しい。
戻れる可能性はあるが、ズレる確率も高い」
ズレる。
その一言が、胸に引っかかった。
「ズレるって……」
「時間だけでなく、場所や条件もだ。
“帰ったはずなのに、別の未来に出る”可能性がある」
頭の中に、佐山が語った“最初の未来人”の言葉が蘇る。
——戻ってきたはずなのに、何かが違う。
「二〇一八年は?」
「比較的、安定している。
条件が揃えば、安全性は高い。
ただし――」
佐山は一拍、間を置いた。
「そこへ行くには、君が“今まで積み重ねた改変”をある程度、手放す必要がある」
「改変……」
「君がこの時代で関わった人、与えた影響、選び直した選択。
それらが“なかったこと”になる可能性が高い」
言葉が、静かに落ちた。
家族の顔が浮かぶ。
母の声。父の背中。姉の笑い方。
そして、隣で眠っていた、もう一人の自分。
「……最後が、二〇三八年ですね」
「そうだ。
元いた時間。
だが――」
佐山は、はっきりと言った。
「最も危険だ」
「どうしてですか」
「改変が積み重なりすぎている。
時間の位相が、すでに“別の未来”を向き始めている可能性がある」
「……彼女は」
思わず口に出て、言い直した。
「僕の彼女の未来も……変わる、ということですか」
佐山は否定しなかった。
「変わる可能性は、高い。
君がここで生きれば生きるほど、元の未来との距離は開く」
研究室の時計が、カチリと音を立てた。
その音が、やけに大きく響いた。
「……方法は?」
「方法はある。
だが、それを“今”話すべきではない」
「なぜです」
「君の目が、まだ“選択を先送りにする目”だからだ」
ぐうの音も出なかった。
「人は、戻れる方法を知った瞬間、
“どこまでやっても大丈夫か”を考え始める。
それが一番、未来を壊す」
——強欲は、未来を壊滅させる。
自分が、薄く笑っていることに気づいた。
「……僕は、成功したいと思ってる」
「知っている」
「やり直せるなら、全部うまくやりたい。
仕事も、金も、人間関係も……」
佐山は、静かに言った。
「それが“最初の罠”だ」
言葉は柔らかいのに、逃げ道がなかった。
「成功を最適化し始めた瞬間、
未来は“自分のもの”ではなくなる」
しばらく、沈黙が続いた。
「君は、もう一度聞くべきだ」
「何をですか」
「自分にだ。
“何を持ち帰りたいのか”を」
研究室を出ると、夕焼けが空を染めていた。
オレンジと紫が混じり合い、境界が曖昧になっている。
(……全部は、持って帰れない)
分かっていたはずなのに、
胸の奥で、それがようやく“現実”になった。
ポケットの中で、拳を握る。
成功か。
家族か。
彼女か。
それとも――今の自分か。
選択は、まだ先だ。
だが、時間は確実に、こちらを待ってはくれない。
そのことだけが、はっきりしていた。




