【2038年1月19日】 第9章
木田あずみは、皆神山の斜面に立ち尽くしていた。
何をすればいいのか、それがまったく分からなかった。
ついさっきまで隣にいたはずの男が、音もなく消えた。
しかし、すぐには恐怖として受け止めなかった。
むしろ——
最初に湧いたのは驚き で、
その次に、胸の奥からじわりとした感心がせり上がってきた。
(……ほんとに、起きるんだ。
あの“時間の裂け目”みたいな話……
まさか、本当に)
皆神山で語られてきた伝承、
2038年問題の秒数の奇妙さ、
自分たちがここへ来た意味。
全部が“線”になる瞬間を、
あずみは確かに目の前で見たのだ。
だが、その理解が心の底まで落ちるのに数秒とかからなかった一方で——
遅れて、胸の奥で何かがひゅっと縮んだ。
(……え? じゃあ、私はこれからどうすれば——)
ようやくそこで、
焦りが追いついてきた。
驚きでもなく、感心でもなく、ただ“現実”として襲ってくる焦燥感。
新一は消えた。目の前から、手を伸ばす間もなく。
そして次の瞬間には、
“自分ひとり”が皆神山の斜面に取り残されている事実だけが残った。
山の空気は冷たいのに、
額に汗がにじむ。
あずみはスマホを握りしめ、何度も画面をスワイプした。
通話履歴から「桜井新一」の名前をタップする。発信中の表示は出るのに、呼び出し音が鳴らない。圏外ではない。アンテナは立っている。
なのに、電話はかかろうとしない。
「……やっぱり」
誰に向けたわけでもない声が、冷たい空気に吸い込まれていく。
胸の奥で、焦りと苛立ちがぐるぐる回る。
周囲は静かだった。
さっきまで耳を撫でていた風も弱まり、木々のざわめきも遠のいている。
頭のどこかで「ただの気のせいだ」と言い聞かせようとしても、体の感覚がそれを否定した。
膝が少し震え、あずみは斜面にしゃがみ込んだ。
冷えた土と石がズボン越しに食い込んでくる。
スマホの画面には、自分の荒い息が白く映り込み、タッチパネルが湿って曇った。
「警察……いや、でも……」
思わずつぶやいて、そこで言葉が止まった。
事件ではあるけど、ここで「人が消えた」と通報すれば、警察と消防、報道だって入るかもしれない。
その時、自分は何と説明すればいい?
「皆神山の変な伝承の場所で、時間が来たら、恋人が急に消えました」?
そんな話を信じる人間がどれだけいるというのか。
あずみは立ち上がり、来た方向を振り返った。
真っ暗な山道が続いている。ところどころ、足元の石が白く光って見えるのは、スマホのライトの反射だ。
ここに一人で留まり続けるのは、さすがに現実的ではない。
体の芯まで冷え切ってきたし、頭も冴えすぎていて、パニックと紙一重だった。
「……とりあえず、いったん下りて考えよ」
自分に言い聞かせるように小さく言って、足を動かし始めた。
ライトで足元を照らしながら、一歩ずつ慎重に下る。
振り返れば、さっきまで二人で立っていたあたりが、真っ黒な穴のように見えた。
山道を下りるあいだ、頭の中では同じ考えが何度も繰り返された。
これは事故なのか。事件なのか。
それとも――オカルト界隈で散々語られていた「2038年問題」の延長線上にある“何か”なのか。
ふいに、「オカルトむ〜チャンネル」の動画が浮かぶ。『2038年1月19日 03:14:07 —— 世界の一部で時計が同時に“終わり”を迎える』
軽い気持ちで笑って聞き流していた言葉が、今は妙に重たく胸に残った。
やがて、山麓近くの駐車スペースが見えてきた。
街灯が一本だけ立っていて、その下に設置されたベンチが白く浮かび上がっている。
空の端が、かすかに薄くなり始めていた。夜明けが近い。
あずみはベンチに腰を下ろした。
ここまで下りてきても、体の震えはおさまらない。寒さだけじゃない。
現実がまだ形を持ってくれない。
スマホのバッテリー残量は、三十数パーセント。
この先のことを考えると、無駄に消費するわけにはいかないと分かっていても、画面を消すのが怖かった。
画面が消えた瞬間、自分と外の世界の繋がりまで途切れてしまいそうな気がする。
「……どうする。警察か、救助隊か……」
自分で問いかけて、自分で首を振る。
ここでいきなり見知らぬ他人にすべてを預けるより、先にやるべきことがある気がした。
新一のことを、一番長く知っている人たち。
彼の過去を全部、覚えているはずの人たち。
脳裏に、何度か話した、あの穏やかな父と、少し饒舌な母の声。
「……清さんと、京子さん」
あずみは小さく名前をつぶやいた。
冷えた指をこすり合わせながら、スマホの連絡先をもう一度開いた。
「桜井清さん」の名前は、たしかにそこにある。
何度も話した相手だ。見間違えるはずがない。
「深夜にすみません……びっくりさせるけど」自分に言い訳のようにそう言って、あずみは発信アイコンを押した。
ほんの一瞬、接続マークが回った。
そして——
『おかけになった電話番号は——
現在使われておりません。
番号をお確かめのうえ、もう一度おかけ直しください』
あずみは、息を飲んだまま固まった。
「え……?」
間違い電話ではない。
登録した本人にかけている。
もう一度押す。
また同じアナウンス。
三度目も。
四度目も。
どれだけ繰り返しても結果は同じだった。
「何で……?」
数分前まで“確かにあった”はずの世界が、
自分の知らない形に置き換わっているのか。
「……嘘でしょ……?」
スマホの画面がかすかに揺れたように見えた。
手が震えているのか、それとも別の何かか。
あずみには判断がつかない。
そのとき——
アナウンスの最後、
「……もう一度おかけ直しください」の“さい”の部分が、
ほんの一瞬だけ歪んだ。
ノイズのように、
電波が乱れたように、
電子音が“ずれた”。
いや、それだけじゃなかった。
音が濁った一瞬だけ、耳の奥が痛んだ。
まるで
電話の向こう側そのものが、どこか別の場所へ滑っていくみたいに。
あずみはスマホを胸元に引き寄せた。
呼吸が乱れるのを、無理やりゆっくり整えようとした。
(待って……これ……まさか……)
そのときは半分冗談だと思っていた。
でも今、目の前で起きているのは——
“時間が、動いた後の未来”
あずみは、しばらく声も出せなかった。
涙も出なかった。
ただただ、理解できない現実と向き合うしかなかった。
(さっくん……いま、どこにいるの……?
未来まで、変わってるの……?)
スマホを握りしめたまま、
あずみは顔を伏せた。
世界は静かで、
だけど、確実に“昨日と違う”。
そんな予感だけが、痛いほど確かだった。
呼び出し音が鳴り始めるまでの、短い沈黙がやけに長く感じられた。
* * *
家が静かになると、ようやく自分が“ひとりの時間”に戻った気がした。
父はいつも通り、長野市内にある会社へ。
しんいちと姉は小学校へ行った。
母は洗濯機を回しながら、食器を洗っている。
生活音が少し響くこの感じが、
俺には妙に懐かしくて落ち着く。
だが——落ち着いてなんかいられない。
(ここからだ。俺は“帰る方法”を探さないといけない)
俺はさっそく、パソコンがある父の仕事部屋へ入っていった。部屋の中にあるのは事務机に乱雑に置いてある大量の書類と、ブラウン管のパソコンが鎮座。
「……さて」
椅子に腰を下ろし、電源ボタンを押す。
モーター音が、ぎゅる、と低く回り始める。
パソコンの起動音なんて何十年ぶりだろう。
それすら懐かしい。
画面に Windows98 のロゴがゆっくり浮かび、読み込みバーが止まっては動く。
(この遅さ……)
焦っている気持ちを、強制的に一拍置かせてくれる。
立ち上げたブラウザは Internet Explorer。
まずは検索窓に「2038年問題」と文字を打ち込んでみる。
ドキドキしながらエンターキーを押すと、読み込みマークがゆっくり回り始める。
数秒待つと、海外のエンジニアが書いた簡単なページが出てきた。
(いや……この時代でこの情報が出てくるのはむしろ奇跡か)
けど、核心には届かない。
次に入力する。
「皆神山 伝承」
ヒットしたのは、地元の雑な観光ページと、個人の怪談サイト。
どれも情報が薄い。
(ネットだけでどうにかなる話じゃないってことだな)
だけどネットだからこそ届くものもある。
俺はもう一つ検索した。
「時空 掲示板 オカルト」
読み込みのあと、黒背景の古びた電子掲示板がいくつか並んだ。
その中の一つに目が止まる。
【時空超常フォーラム】
名前のダサさとは裏腹に、こういう場所には妙に“鋭い人間”が混ざっている。
(……ここだな)
掲示板の投稿フォームにカーソルを合わせる。
ハンドルネームの入力欄で、指が止まった。
しばらく考えてから、ひとつだけ打ち込んだ。
「さっくん」
あずみちゃんにそう呼ばれていたし、もし、検索したときにわかりやすいだろう。
今の自分にはいちばん正しいように思えた。
文章を打つ。
「2038年1月19日 午前3時14分
長野県・皆神山付近で
“時間に関する異常現象”が起こり得ると
聞いたことがある人はいませんか」
何度も読み返し、突っ込みどころを消し、
誤解を生む表現を避け、一息で投稿ボタンを押した。
「ここで馬鹿正直に”タイムスリップしたものです”とか書いたら相手にされないからな」
投稿は静かに掲示板に反映された。
ファンの回転音が、部屋の中の空気を切る。
そのとき——
画面の右端に、ほんの一瞬だけ、かすかな“ノイズ”が走った。
砂嵐のような、電波が乱れたみたいな——
でも……それだけじゃない。
胸の奥が、ひゅっとすぼまるような感覚。
(……今の、何だ?)
見間違いと言われればそれまでだ。
ただのブラウン管のへたりかもしれない。
けれど、どうしてもこう思えてしまう。
――“向こう側”で、何かが動き始めている。
掲示板に投稿したあと、俺はしばらく画面を見つめていた。
反応が返ってくるまで、普通なら一時間はかかる。
誰も見ていない可能性だってある。
……はずだった。
投稿して、三十秒も経たないうちに、
画面が勝手に更新された。
いや——
“勝手に”というのは語弊がある。掲示板は基本、誰かが手で更新しない限りページは変わらない。なのに、なぜ——。
(……更新された?)
すると、投稿欄の下に、新しいレスが一行だけ増えていた。
──────────
No.12 名前:SYAMA
「歴史的事件や災害の裏には時間のずれが生じる」
──────────
(……ん?)
短い。だが、やけに“意図”を感じるレスだった。
「SYAMA ”エスヤマ”? 何て読むんだ」
見覚えのない名前だ。
けれど、時間と伝承には慣れている感じの、一言。
俺が投稿した内容に対して、誰かが “最初の鍵” を置いていったみたいだ。
荒らしにしては、言葉が的確すぎる。
俺は返すべきか迷ったが、結局キーボードに手を置いた。
「詳しい方ですか?
皆神山や時間の異常について、もう少し教えてほしいです」
投稿。
今度は少し待つつもりで肘をついた——その瞬間。
また、画面が更新された。
掲示板に投稿して数十秒しか経っていないのに、
画面が勝手に更新された。
レスがひとつだけ増えている。
──────────
No.13 名前:SYAMA
「話せる。
長野駅前の喫茶“三本コーヒー”で、
今日の午後なら時間がある」
──────────
(……早すぎるだろ)
予想をはるかに超えたスピードだった。
普段なら誰かがこの書き込みに気づくまで1時間はかかる。
それなのに、まるで俺が投稿するのを待っていたかのような反応だ。
「午後かぁ……」
声に出してみたが、迷う必要はなかった。
時間なんていくらでも空けられる。
今日が何曜日だろうが、どれだけ重要な予定があろうが、
そんなものは全部どうでもいい。
これは千載一遇。
俺が“帰るためのヒント”を掴める、唯一のチャンスかもしれない。
時計を見ると、まだ昼前だった。
今から動けば余裕で間に合う。
掲示板の返信欄に文字を打つ。
「13時以降なら大丈夫です。何時に伺えばいいですか」
投稿ボタンを押して数秒後、また画面が更新された。
──────────
No.14 名前:SYAMA
「では17時に」
──────────
(……17時)
あまりに迷いのない答え方に、逆に背筋が少し冷えた。
まるで、“最初からその時間に決めていた”ような返し方。
誰なんだ、この人は。
怖い——のに、それ以上に“確かめたい”気持ちが勝ってしまう。
とにかく行くしかない。
俺は検索窓に店名を打ち込んだ。
「三本コーヒー 長野駅」
Enter。
数秒後、テキストの検索結果が表示された。住所、電話番号、簡単な紹介文。
俺はそれを見て「あーーー……あそこかな?」と思った。
頭の中にツタの絡まった店構えがふっと浮かんだ。
「この辺りだと喫茶店ってあそこしかないよな?」
もしそうなら、何度も行ったことがある。
なのに——店名を覚えてなかった。
俺の悪い癖だ。
細部に無頓着で、雰囲気で記憶してしまうタイプ。
「そうかー、三本コーヒーって名前か」
ほんの四十八時間前。
2038年の世界で、あずみちゃんと駅に着いたとき、いまはなき、三本コーヒーの前を、二人で歩いた。
「ちょっと、ワクワクしてきたな」
そう呟いて、パソコンの電源を落とした。
(……11時20分か)
モニター上にある時計を見て、俺はイスから立ち上がった。
そのまま廊下を抜けてリビングへ向かうと、ベランダで母は洗濯物を干していた。
俺は窓を開け「母ちゃん、ちょっといい?」と声をかけた。
「どうしたの?」と、母は少し不思議そうに顔を上げた。
「パソコンで調べたらさ、掲示板である人とやりとりしたんだよ。その人はもしかしたら、この件に詳しい人らしくて、十七時に長野駅前の喫茶店で会うことになった」
母の表情が少しだけ強張った。
「えぇ?大丈夫なの?」
「うん。俺がタイムトラベルした謎とかがわかるかもしれないんだよ」
「未来に戻る、手がかりに……つながるの?」
「まだ分からないけど……でも、その可能性はある。
ここで逃したら、次はいつチャンスが来るか分からない」
母は深く息を吸ってから、頷いた。
「……それならいいけど。
あなたが“何をしなきゃいけないか”は、私たちも理解しているからね」
よかった。ふと、心が落ち着いた感じになった。
「ありがとう。
十七時の約束だから、十六時の電車で行く予定。
そう言うと、母は腕を組んだ。
「……で、お金あるの?」
痛いとこを突いてくる。
財布に入っているのは、昨日、セブンで買い物したときのお釣りくらいだ。
「いや、ほとんどない……から、交通費と喫茶店代、ちょっともらえる?」
母はため息をつきながら、キッチン横の棚から財布を取り出す。
そこから千円札を二枚抜いて、手渡してくれた。
「はい。喫茶代はちゃんと払いなさいよ。
相手に奢らせるような真似しないでよね、恥ずかしいから。」
「分かってるよ。中身は四十九歳なんだから」
母は笑いながら言う。
「ホントに、わたしよりも年上だなんて……信じられないね」
「はいはい」と呆れながら俺は返した。
「で、十六時の電車で、何時に家出るの?」
「十五時三十分とかかな?」
「そう、わたしは午後から出かけていないからね」
「はいよ」
母は最後、小さく微笑んだ。
「気をつけてね、ミライ」
その呼び方が、胸の奥に静かに響く。
*
牟礼駅まで歩く道は、子どもの頃とほとんど変わっていなかった。
「昨日とは違って、駅までの道のりはまた風景が違うよなー」
駅に着くと、ホームに立つ数人分の足音が聞こえた。
しなの鉄道の車両がゆっくり入ってきて、
金属のきしむ音と、昔のままの空気が一気に押し寄せた。
長野駅に着き、駅のホームに降り立った瞬間、空気が夕方の色に変わり始めているのが分かった。改札を潜り抜け、歩道橋を下り、ロータリーを抜け、交差点を渡った。
すぐ横の路地へ——入り込んだ瞬間、空気が変わった。
その先に、懐かしい佇まいを見せる店が。どんどん歩いていくごとに自然と歩くスピードが速くなっていた。そして、目の前に現れたのは、ツタが大きく張り出した店舗に、黒地に白い文字で書かれた 「三本コーヒー・ショップス」 の看板。
その下には、食品サンプルがぎっしりと並ぶ大きなショーウィンドウ。
昔の洋食屋のようなレトロな配置で、
メニュー札が少しだけ黄ばんでいる。
(……ここだ)
一昨日、2038年の世界ではシャッターが降りていた場所。
「二人で行きたかったな……」
扉の上にはランタン風のライト。
木枠のガラスは少し曇っていて、
奥の照明が柔らかく滲んでいる。
ゆっくりと戸を引く。
からん……。
鈴の音が、思ったよりも低い。
この音だけで“時代の層”が分かる気がした。
店内は薄暗い。
光が弱いわけじゃない。
明かりが“柔らかすぎる”のだ。
木製のパーテーションに丸い装飾がびっしり並んで、
椅子の背もたれには緑のビロードのような布。
壁には古い油絵と洋食のポスター。
ランタン型の照明が天井から下がり、
店の空気をすこしだけ茶色に染めている。
(……これだよ。この店の匂いって)
深煎りの豆の香ばしさと、タバコの匂いがほんのり混ざっている。
2038年で見た“閉店後の面影”とは、あまりにも違う。
ここにはまだ、
“動いてる時間”があった。
店内は空いていた。
常連らしき二人組が喫煙席で静かに話している。
深煎りの匂い、湿った木、ランタン照明の橙色。
写真で見たままの雰囲気が目の前に広がる。
俺は奥の二人席に座った。
店の入り口が見える位置。
店にはまだそれらしき姿はない。
(……十七時ちょうどに来るのか?そもそもどんな人なんだ?)
時計を見る。
十六時五十二分。
そのときだった。
扉の鈴が、
からん……と控えめに鳴いた。
黒のコートにベージュのマフラー。
年齢は、五十前後といった感じか。
落ち着いた目つきに、白髪が少し混じる後ろ流しの髪。
紳士というより、
“観察者”という言葉が似合う風貌だった。
(……この人か?)
男は店内をゆっくり見渡し、
俺のほうを一度スルー——したかとおもった瞬間、二度見し、そのまま近づいてきた。
「失礼ですが、“さっくん”……かな?」
声は低くて、落ち着いている。
視線は優しいが、奥に鋭さを隠している。
俺は立ち上がって頭を下げた。
「はい。初めまして。
掲示板で返事をくれた方ですよね」
男は軽く手を上げる。
「佐山です。
佐山耕一。大学で民俗学と地形の研究をしています」
——さやま!“エスヤマ”は佐山って読むのか。
(てか、なんとなく……テレビで見たような……)
佐山は席に座ると、メニューも見ずに店員へ声をかけた。
「もう注文はしたの?」
「いえ、まだです」
「そうか。何にする?なんでもいいよ」
母の声が頭で蘇る。
“喫茶代は自分の分、自分で払いなさいよ”
「あっ、自分の分は、自分で払うので大丈夫です」
佐山は少し驚いて笑った。
「そうかい。では……」
店員が近づく。
「ホットを一つ」
「僕もホットでお願いします」
その一言で、店員の視線が瞬時に俺の顔に向けられた。
「……ホットコーヒーでいいんですか?」
(そっか、子供がコーヒー頼むなんて珍しいか)
「すみません、ホットココアで」
すかさず佐山が気を使った「いいんだよ、ホットコーヒーが飲みたいならそれで」
「いえ、ココアがいいんです」
「じゃあ、コーヒーとココアですね」と、店員が去ると、佐山は姿勢を正した。
「まぁいい。
さて、君の書き込みは——“作り話ではない”ね?」
(……なんで、そんな言い方ができるんだ)
心臓が少し跳ねたが、俺は静かに頷いた。
「はい。作り話じゃありません。それで、あのー……僕がこれから言うことなんですが……」
「いいよ、緊張せずなんでも話してごらん」佐山は優しく朗らかな顔で言った。
しかし、俺は少し下に目をやりながら話した。
「……すべて事実です。僕は……未来から来ました。2038年の1月19日から」
嘘ではない。けれど、佐山の顔をまともに見られなかった。
すると
「……そうか」意外にも佐山はすぐには否定しなかった。むしろ、ほんの数瞬だけ目を閉じ、なにかを思い返すような仕草をした。
「信じてくれるんですか?」
佐山はゆっくり頷いた。
「つまり、中身はそのままで、体型だけ子供の頃の自分に戻ってしまったと?」まさに現場を目撃して、一緒にタイムスリップしたかのような口ぶりで驚いた。
「……仰るとおりです」
「未来から来たと言う人間の話を、
私は過去に二度、聞いたことがある」
心臓が跳ねた。
(……二度?)
「だが——」
佐山は俺を見る目つきが少し変わる。
「“ここまで正確に日付と時刻を言った人間”は、君が初めてだ」
ブレンドコーヒーが運ばれ、
店の中にさらに深い匂いが満ちた。
佐山は続ける。
「2038年1月19日。
午前3時14分。
……その時刻を選んだのは、君か?
それとも——“山”か?」
山、という言い方に鳥肌が立つ。
「皆神山のことですよね?」
佐山の目が細くなる。
「そうだ。
あの山は“ただの山”ではない。
私は十年以上研究を続けてきた」
ごくりと喉が鳴る。
「あの……僕に、帰る方法があるのか、教えてください」
佐山はコーヒーをひと口飲んでから、
小さく息をついた。
その声は、
どこか哀しみに似ていた。
「……帰る方法は、ある。
だが——」
言葉を切る。
「その代償は、君が思っているよりもずっと大きい」




