第1章:2038年1月18日
【前書き】
2038年1月19日、午前3時14分。
世界の時計が同時に“終わり”を迎えた瞬間、長野の山で一人の男は時を越え、1999年へ。
――未来の記憶を抱え、小学四年生の体に戻った男がもう一人の自分と歩む、もう一度の三十年。
・紀元前4世紀 —— アリストテレスが宇宙を球体とする説を体系化。同時期、古代観測記録に「一日だけ昼と夜の区別がなくなった」との記述。
・1582年10月4日 —— グレゴリオ暦導入に伴い、翌日が10月15日となる。同日、イタリアの一部観測所で「正午の影が揺らぐ」という異常が報告される。
・1600年2月17日 —— ジョルダーノ・ブルーノ火刑。無限宇宙や多世界の概念が異端とされ、永久に封じられる。
・1815年4月10日 —— インドネシア・タンボラ火山噴火。翌年は「夏のない年」と呼ばれ、北半球全域で異常気象を記録。
・1945年7月16日 —— アメリカ・ニューメキシコ州で原爆実験。数百キロ離れた地点で正午の時報が1秒早まる。
・1969年7月20日 —— アポロ11号、人類初の月面着陸。着陸の瞬間、地上の重力加速度計に0.98G~1.02Gの揺らぎが記録される。
・1995年1月17日 —— 阪神・淡路大震災。発生から12時間後、大気の電離層反射率の急上昇が観測される。
・2011年3月11日 —— 東日本大震災。震災の3分前、地磁気観測所が通常の10倍の変化率を検知。震災後、日本列島は東へ2.4メートル移動。
・2018年1月31日 —— 皆既月食・スーパームーン・ブルームーンが同時発生。長野県内の一部で磁気センサーの異常反応が報告される。
・2038年1月19日 03:14:07 —— 世界の一部で時計が同時に“終わり”を迎え、複数の観測機器が沈黙。再び動き出したとき、それらが示したのは——“本来とは異なる時刻”だった。
──
「……ねっ? こうして並べると、やっぱ面白いでしょ」彼女はローテーブルに片肘をつき、タブレットの画面を指差した。そこでは「オカルトむ~チャンネル」の最新回が再生されている。
画面の中では、『週刊オカルむ』編集長が、淡々と“歴史的事件とそのときに起きた時空の因果関係”を語っていた。年代と出来事が映像テロップで次々に流れていく。
『……えー、改めてこの年表を解説していくんだけど……実は、1755年の11月1日 にもあることがありまして、ポルトガルの首都である、リスボンで大地震が起こった際に……これは発生直前ですね、欧州各地で方位磁針の急な偏差があったと記載され…』
この番組は、オカルトやUFO映像に関する情報を熱く談義しているが、出演者はみんな、酒を片手にトークするところが、真面目過ぎず心地いい。
彼女の前には、本搾りのロング缶が2本、すでに空になって並び、すでに三本目を口にしていた。
「ほら、ほとんどが天文現象とか、大きな爆発とか地震でしょ。で、間にちょっと混じってるのがさ……ちなみにケネディ暗殺事件もそうだよ!たしかその時に観測施設の時刻信号が3秒だけ巻き戻ったとか」
「ふーん」
俺は話半分で受け止めながら、いつもの糖質ゼロのビールを飲んでいた。
『……ここには載ってないけど、1999年、8月11日。皆既日食があったときに、日本でも一部地域で…』
すると彼女が、画面から目を離し、俺に問いかけてきた。
「そういえば、正月って帰るの?」
「あぁ、まだ未定だけどそのつもり。三が日のうちに顔出すくらいかな」
「じゃあ、帰る日わかったらすぐ教えてよ」
「うん。……てか一緒に長野行こうよ」
俺の実家は長野の飯綱町。山に囲まれた、自然あふれる小さな町だ。帰省といえば、親の顔を見て、昔の同級生と酒を飲むくらい。観光客がわざわざ訪れるような場所じゃない。
「いや、正月はみんな休むし、仕事しないと」
彼女にあっさり断られ、俺は缶を置いて考える。
まだ親にも友達にも帰省のことは伝えてない。
「……じゃあ、正月は一緒に仕事に専念するか。落ち着いた頃に有給取って、長野に観光でも行かない?」
「え、実家には帰らないの?」
「約束してないし、2月に休み取れる日見つけて行くよ」
「あっそう。両親心配しない?もういいお歳でしょ?」
「うん、父ちゃんが88かな? 母ちゃんが84」
「そっかー、お父さんもうすぐ90なんだ」
「足腰悪くなってるけど、両親とも元気だよ」
「お姉さんが2個上だっけ?」
「そう、51歳。二人の甥っ子も高校生だよ」
「あのほっぺたぷんたぷんの甥っ子も高校生かぁ」
思わず笑ってしまう。実家の話題で少しだけ和んだ空気が流れる。
そんな話をしていると、彼女がふいに顔を上げて言った。
「……そしたらわたし、あそこ行きたい!」
「ん?あそこってどこ?」
「皆神山。“通すべき者だけ通す”って伝承があるんだよ」
笑いながら言ったその声が、なぜか妙に耳に残った。
*
2038年1月1日。
例年通り、彼女と二人で新年を迎えた。新年の朝食はやはりお雑煮だ。
醤油ベースの汁に、大根、人参、小松菜、しいたけ、鶏肉を入れ、餅は焼かずにそのまま汁に入れる。器に盛り付けると、最後にナルトを添え完成。毎年決まったお雑煮のレシピだ。
三が日くらいはこれが続き、朝は餅入りの味噌汁や雑煮ばかりになる。夜も雑煮の日が多い。でも不思議と飽きがこない。寒さが厳しいと熱燗と一緒に、湯気ごとすする餅が格別だった。
三が日を過ぎると鍋の頻度が増える。旬の白菜に鶏肉、それから最近スーパーでよく見かける培養タラを入れる。冷凍とは思えない身のふっくら感が、出汁と一緒に湯気へ混じって立ちのぼる。
白菜は相変わらず冬が旬だが、近年は温暖化で秋口から出回るようになったが、味はやっぱり真冬のものが一番だ。寒いのは嫌いだが、食と酒は冬の楽しみでもあり、俺、桜井新一、四十九歳。隣にいるのは木田あずみ、五十五歳。これが二人だけの正月の過ごし方だ。
付き合い始めの頃は結婚も考えた。けれど、互いの親の事情など色々あって踏み切れないまま年月が過ぎ、この二十年で、“結婚”という言葉は世間からどんどん薄れていった。別姓や事実婚は珍しくなく、配偶者控除や税制優遇も事実婚に適用されるようになった時代だ。俺たちも、その流れの中にいるだけ。
住まいは埼玉県所沢市。所沢駅から十五分歩いた静かな一角に、俺と彼女が共に暮らす築五十五年の平屋が佇む。
もともとは西武池袋線の東長崎で暮らし始めたが、十五年前、所沢へ移った。最初は駅から五分の1Kアパートに住んでいたものの、薄い壁越しに響く隣人の生活音に耐えかね、それで選んだのがこの平屋。都内の家賃に手が届くはずもなく、古びた家に落ち着いたのだ。
外観は色褪せた外壁が時代に取り残されたようだが、中はリノベーション済みで意外と快適だ。住めば都、なんて言葉を笑いものだと思っていたのに、気づけば十年以上もの月日を過ごしている。
年末年始は休暇を取って、仕事始めは四日から。彼女も同じタイミングで動き出す。俺はタクシードライバーをしているが、この時代は自動運転車が大半を占めるようになる。それでも、夜の繁華街や観光地では“人の運転”を求める客はまだ多く、そこが俺の稼ぎどころになっている。
*
一月中旬、晩飯を食べながら旅行の行き先を確認していると、彼女が善光寺の名前を出した。
「せっかくだから善光寺にも寄ろうよ」
「いいね。じゃあそこで初詣……」
そう言った瞬間、あのときの会話が頭に浮かんだ。
「そういえば、行きたいとこあったんだよね? どこだっけ?」
彼女は箸を止め、少し首をかしげた。
「……あぁ、皆神山ね」
あのときの勢いとは違う、どこか温度の低い声だった。まぁ、お酒を飲んでいたせいもあるだろう。
「どんなところ?」
「意外と標高あるし、行くのはちょっと面倒かも」
そう言われると俺も一瞬考えたが、スマホで検索すると皆神山神社の公式サイトがすぐに見つかった。
写真も整っていて、由緒もそれなりにありそうだ。
「タクシーで行ってそこで初詣もいいんじゃない? 善光寺、人でいっぱいだよ」
「そうだね……まぁ計画に入れとこうか」
そんな軽いやり取りで、皆神山は旅程の片隅に加わった。
*
1月18日の朝、障子越しに差し込む柔らかな光と、雀のさえずりが旅の始まりを告げていた。
築五十年を超える平屋は、冬になると骨まで凍えるような寒さに包まれる。それでも、リノベーションされた窓枠は隙間風を意外なほど遮り、部屋に静かな暖かさを保っていた。
布団の中でまどろむが、頭の奥に久々の偏頭痛が走る。いつもとは違う、鋭く脈打つような痛み。鼓動と時間が同期するような感覚があった。
「こんな痛み、普段ないのに……」
たまらず、昨日準備した旅行バッグから頭痛薬を取り出し、白湯を手に取って飲み下した。玄関に荷物を並べ、スマホを手に取る。彼女が軽く笑みを浮かべ、荷物をチラッと見て言う。
「忘れ物、ないよね?」
「うん、大丈夫だよ。」
俺は小さく頷き、頭の奥の疼きを振り払うように返す。ドアのセンサーにスマホをかざすと、スマートロックがカチリと軽い音を立てて開いた。
ドアを押し開けると、冬の冷気が鋭く流れ込み、頬を刺した。
所沢駅の改札は顔認証ゲートで通過する人の列が伸びていた。出社ラッシュは避けたつもりだったが、9時台でもまだ人は多い。
ホームは人波で埋まり、ARグラスを覗き込みながら立つ通勤客の姿が目立つ。数年前に設置されたフルスクリーンドアが閉じると、電車は静かに滑り出した。
9時30分に練馬駅へ降り立つと、急いで朝食を買いに駅前のファミマに寄った。
俺はホットコーヒーと水、サンドイッチに調理パンを。彼女はホットの玄米茶を選んだ。すぐにレジに行くと表示された金額は 2,640円。会計は一瞬だ。
ファミマを出て五分ほど。
目白通りに面した練馬駅前バス停に着くと、透明パネルの待合ブースはすでに人で溢れていた。
中には入れず、俺たちは外に立ち尽くす。
電子掲示板には「到着予定 9:45」とあるが、スマホはすでに9時47分を示している。
相変わらず、このバスは遅れてやってくるらしい。
「腹減ったー。早く乗って食べたい」
彼女が袋を覗き込み、ため息をついた。
俺は肩をすくめるしかなかった。バスがオンタイムで来ないのは昔から変わらない。
十五分ほど遅れて、ようやく長野行きの高速バスが姿を現した。
「やっときたよ」
バスが停まり、運転手が降りてきた。
「お待たせしました、乗車確認いたします」
乗客は順に、運転席横の端末に顔を向けて認証を済ませる。アプリを提示するだけでもいいが、ほとんどは顔認証で通過していた。
運転手は一人ひとりに軽く声をかけながら見守っている。荷物が多い客には、自動トランクの扉が開き、運転手が軽く補助をした。流れは昔と大きく変わっていない。ただ一つ違うのは、確認も積み込みも、妙に機械が手際よくやってしまうことだった。
シートに腰を下ろすと、冬の朝の冷気から解放される安堵が広がる。車体が揺れ、窓の外に練馬の街並みがゆっくりと流れ始めた。
ただの旅行のはず――そう思っていた。
それが、俺にとって“最後の普通の一日”になるとは――まだ想像すらしていなかった。