#40
積み上がった幸福は、些細な力で倒れる。
指の先のチップが雪崩れて広がるように、それもまた容易く崩れていく。
高ければ高いほどそれは隅々まで行き渡り、人々は群がって盗んでいくのだ。
#40
「失礼──オーナーがご挨拶を、と」
舟正がバカラのテーブルに座るハルカに声を掛ける。
彼女を取り巻いていた客たちがさあっと引いていき、ハルカはカジノに興じるすべての客の視線を受け止めた。
「遊んでいる最中なのだけど?」
そう挑発し、艶やかに笑む。
周囲が緊張したように身を固くするのを、舟正が頭を下げた。
舟正が何者なのかを知っている者たちが慄き、しかし次の瞬間にさらに顔を強張らせる。
特別席へと来たオーナーの御田に向かって、彼女が席を立ち、両腕を広げ手迎え入れたからだ。
ぎょっとする周囲の緊張をよそに、御田は穏やかな笑みで同じように手を広げ、ハルカのハグを受け取って背中をぽんぽんと叩き、離れる。
「ハルカさん、相変わらずお綺麗ですね」
「あなたも変わらないわね、浩康」
御田が「浩康」であると初めて知った丹羽は、隣で「びっくりしたあ」言う素直な瀬世を見下ろした。横に立つ狐刀も、同じように瀬世を見下ろしている。鬼不田に近い場所で生きているというのに、なんと無垢な男だろう──そんな共感に、なんとなく顔を見合わせる。
「なんですか、こっち見て」
「……なんでもねえよ」
相変わらず相容れない二人は、ふいと前を向く。
御田が嬉しそうににこにこと笑っていた。
「おや。ハルカさん、随分勝たれたようで」
それは嫌味が一切なく、客たちがやや安堵したように空気が和らぐ。その瞬間を待っていたかのように──ハルカは手からぬっと黒い大鎌が出した。
ほんの数秒の間、人たちは自分が見ているものを理解できないらしかった。
ここは臨時首都。
侵入者などいるはずもないと思っている彼らがそれを、認識できるはずもない。そもそも彼らはもう忘れているのだ。
世界を制する力を持ったイカれた者たちがいることを。
丹羽は、備えるように手に銃を出し、握る。
間抜けな人どもは、ハルカの大きな美しい鎌に見入っているらしく、そのことに誰も気づかない。狐刀の手にも日本刀が握られているというのに。
「あ」
誰かが発した一言で、全員が同時にそれを理解した。
ハルカの鎌を指差す。
「し、しんにゅう、しゃ」
ガタッと腰を抜かした男につられるように、悲鳴が上がる。
一気にカジノが阿鼻叫喚に包まれるかと思われたが、ハルカが釜を握っていない手を上に上げた途端に、それはぴたりと止んだ。指先が踊るようにひらりと動き──彼女の黒いスカートへ向かうと、それをつまみ上げ、淑女のように御田に頭を下げた。
その美しい光景に、誰もが呆ける。
侵入者が頭を下げた。
このイノセントのオーナーに。
「……これでどうかしら」
ハルカが呟く声が、丹羽にははっきり聞こえた。
そして、平静を保ちながらも「やられた」と言わんばかりの御田の心境が手に取るようにわかる。
彼女は先手を打った。
自分の正体を晒した上で、御田に下っているようにここの全員に見せつける。
──これでどうかしら。
これで満足しなさい。
それが正しく伝わったのだろう。
御田は悔しそうに、それにしては嬉しそうに笑う。母親にいたずらを見透かされた子供のようだった。
「うーん、あなたまでいらっしゃるとは思っていなかったので焦りました」
「馬鹿ね。狐刀を貸し出すときに私が鬼不田に出向いたのを知らないの?」
「ああ……そういえば親父から聞いたなあ……」
御田がゆっくりと顎を撫でる。
ハルカは頭を上げると、丹羽たちを振り返り、手招きをした。
「では……私の子どもたちを貸し出すわ。あなたへの親愛の印に」
声をわずかに張るだけで、隅々にまで彼女の声が行き渡る。
手にしたものを戻さないまま、彼女に呼ばれるがままに側に行くと、褒めるように肩を撫でられる。
「丹羽と、狐刀と、瀬世よ。三人とも躾はきちんとしているけれど、粗相があったら言ってちょうだい。こうして首を刎ねるから」
そう言い、ハルカの鎌がそっと下から丹羽の喉仏を撫でる。
青く滲んだその煙が、イノセントのシャンデリアを擽って行く。
鎌は丹羽の顔面スレスレを通り、ブンと上へと振り上げられた。
ハルカはそれを、ゆっくり、ゆっくりと手の中に戻すと、山積みにしたチップを指さした。
「これはあなたに。彼らの世話に使ってちょうだい。残りは……好きに使って」
「多すぎますよ」
「では迷惑料、でどうかしら?」
息子の尻拭いに来た彼女の意思を汲み取った御田は、何度も頷いた。
つまりこれ以上の要求は飲まないし、させない。
これで諦めろ、とのお達しに「ふふ」と笑う。楽しそうに、そして懐かしそうに顔が綻ぶ。
「ええ。でしたらありがたく受け取らせてもらいます。彼らは──このイノセントの警備に使わせていただいても?」
御田の声が響いた。
ようやく周囲は「侵入者が乗り込んできたわけではない」ということを理解し始めたらしく、御田を尊敬の眼差しで見始めた。
彼はこの数分で「イノセントのオーナー」から「侵入者と対等な人」へ評価が変わったのだ。畏敬の念を抱かれたのだろう。
仕上げとばかりに、ハルカは丹羽の背を撫でてからそっと押す。
「困っているときはお互い様じゃないの。私とあなたの仲なのよ、好きに使ってちょうだい。ここが人員を確保できたら、そのときは私が迎えに来るわ」
「またあなたに会えるのですか? なんて嬉しい」
御田は胸に手を当てると、美しく腰を折った。丹羽も狐刀も瀬世も、その姿を見てから御田の方へつき、わざとらしく持っていたモノを手に戻す。
「舟正」
御田が呼ぶ。
「戸頭間さまをお部屋に案内してくれ」
その名前に、緩んでいた空気は凍りついたように張り詰めたのだった。




