#38
誰かと関わって生きていく限り、安寧はない。
周囲との調整に消耗しながら、ひたすら無難な選択肢の方へ足を向ける。
選べれば、だが。
#38
大広間を出て廊下を歩いていた丹羽は、ふと黒い影が差し込んだことに気づき、顔を上げた。
着物を着た女が階段を降りてきている。
目野。
目野だ。
明らかにハルカから譲り受けた服を身にまとっている彼女の顔は白く、鈍い痛みに耐えるかのように口を噛み締めていた。
ぶらんと下がる、何も入っていない袖。
バランスを取りにくそうに降りてきた彼女は、丹羽の視線に気づくと「ああ」と口元をわずかにゆるませた。元々人懐っこい性格なのだろう。その仕草に媚びたものは感じない。臨時首都で情念に燃えていた女の影は、すっかり沈められている。
それどころか、歪な幸せに満ちていた。
丹羽が一度目を伏せれば、彼女は肩をすくめるように返事をし、二人は無言ですれ違う。
「──遅かったね。密談?」
玄関で待っていた戸頭間の第一声はそれだった。
丹羽はうんざりとしたように「迷っただけだ」と適当な嘘をつく。
「へえ。ふうん。そう」
「機嫌悪いなら運転は諦めろ」
丹羽が靴を履きながら手のひらを差し出すと、戸頭間はその手を叩き落とした。
「何言ってるの。緊急事態以外で運転させるわけ無いでしょ」
「戸頭間くんの不機嫌は緊急事態だよ、俺の」
「失礼だね、僕は二十四時間ご機嫌さ」
「初めて知ったわ」
二人がぶつくさ言いながら先に家を出る。
舟正と狐刀と瀬世が苦笑しながらついてきているのが、妙におかしい。
車のドアを開ける戸頭間は、観念したように呟く。
「はあ……結局母さんの手の上かあ。ややこしいことも片付けてくれちゃって。ホテルの人達はみんな丹羽さんのこと好きなんだけどねー」
「大人しくしとけよ」
丹羽の忠告に、戸頭間は「丹羽さんのプロモーションビデオでも作って鑑賞会しようかな。ファン増やそうよ」などと毒づいて微笑んだ。
やりかねないが、やらないと確信できるので無視させてもらう。
丹羽がさっさと乗り込めば、舟正も続いて乗り込む。後ろからは疲れたようなため息と、クレームが入った。
「酷いことしはりますねえ」
「……俺か?」
「ええ。あなたがこうなるように準備したんやないですか」
「覚えてねえな」
しらっと言い放てば「ええですけど」と舟正は呟く。
「戦力が三つ……はあ、もう頭上がらんわ」
「人に頼み事するときは気をつけろよ」
「そんなんすること滅多にないんでね……いや、頼み事したつもりもないんやけど」
脅したはずだと言う舟正に、乗り込んだ戸頭間が無邪気に返す。
「ふふ。おかしなことを言うね。僕に甘いくせに」
「……なんでやろうなあ」
「僕が可愛くて仕方ないんだね。愛だよ、愛」
「はあ」
気の抜けた声に、戸頭間はくすくすと笑った。
「お兄さんはね、愛したい人なんだよ。きっと。ただその愛が複雑で、受け止められる奴がいなかったんだろうね。そこに僕登場。ほら、僕って寛容だからさ」
「はあ」
「──安心して。母さんは別に鬼不田を使って侵入者の威光を広めたいわけじゃない。ただ僕の尻拭いをするために、三人渡すだけだから。それはさあ、僕を助けてくれるお兄さんへの感謝だよ。純粋なね」
車を出しながら、戸頭間はそんなことを口にする。
「これからも坊っちゃんを助けろってことやろか……」
「え? なあに?」
「何でもありません」
諦めたように舟正が笑う。
それが正しい対応だろう。
臨時首都で起きたことは「鬼不田の指針の転換」に背いた者への「粛清」だ。これからは侵入者を使う、という姿勢を見せるには、三人というのは絶妙な数字なのだろう。多すぎず、少なすぎず、裏切らない。
そこに自分も入っているのを思い出した丹羽は、現実から目を背けるように窓の外を見た。
狐刀の声がそれを引き戻す。
「……臨時首都、ですか」
「うん。狐刀さん、行ったことは?」
「ないですよ。あんな下品なところ」
「あはは。たしかに下品だけど、イノセントとルージュは大丈夫。あとはそうだねー、飲み物に気をつけるくらい? 狐刀さんはお酒飲まないから大丈夫だよね。いつ頃こっちに戻ってこれるのかは、隣の相棒に聞いてよ」
「だそうですが?」
舟正は「すぐ戻れるように手配します」と言うだけだ。
瀬世の無垢で柔らかな笑い声が、それを和やかなものにする。
車が走る。
海へ向かって──どうしようもない現実に向かって。
選べない道のほうが多い。
選択肢など、あってないようなものだ。
丹羽は戸頭間の丁寧な運転の中で、薄っすらと目を閉じる。
またあの街へ行く。
腐った欲望が発光する街へ。
海の匂い一つしない街へ。
ふと、瞼の裏に目野が浮かんだ。
彼女の両手が着物の袖から出ているところを。
失った愛が、再生するところを。
◯
「で、なんで君がいるんだ」
戸頭間家へ呼び出されてから二週間後に伝えられた集合場所は、ある高層ビルのエントランスだった。
夜の中で煌々と明かりがついているエントランスは、不自然なほど静かだった。
それもそのはず──そこで先に待っていたのは舟正と狐刀と瀬世──そして、ハルカだ。
タクシーを降りた丹羽の足が止まる。
優雅に迎えに来た彼女は、丹羽の呟きをしっかり聞いていたらしい。
「なぜって、私も行くからよ」
ハルカが平然と答える。
離れた場所にいる三人の顔が、やや青く見えるのは夜だからではないらしい。
「本気か……」
「ええ。本気。あの子達には説明しておいたわ。あなた、来るのが遅いんだもの」
「おたくの息子の機嫌がたいそう悪くてな──って、待て。何を説明した」
いつも通りの会話になりかけていた丹羽がハッとすると、ハルカがそっと腕に手を乗せてきた。
意味深に笑う。
「愛人とちょっと旅行したいだけだって言っておいたわ」
無邪気に笑うそれは、決して無邪気ではない。
丹羽は文字通り頭を抱えるのだった。




