#33
過ぎ去った時間の中の一つを掬って、飲み込む。
どんな味がするのだろう。
#33
──とっておきの話を、してもいいですか?
新正が徳利を傾けながら言った。
──一美さん、あの時、ハルカさんは一人で出ていこうとしたんです。駆け落ちなんかじゃなかった。愛し合った男女が出て行ったのでは、なかったんですよ。
昼間の雑踏の中を歩きながら記憶を手繰る丹羽を、誰もがそっと避けていく。
こんなスーツ姿でなければ、皆誰も気づかないだろうに。
ビルの群れ。絡まる横断歩道橋。もやしのような信号機。
人、人、人。
まるで自分を侵入者であると見抜くような、目、目、目。
それでも知らぬふりで視線を逸らす。
慣れた。
彼らはもう慣れたのだ。
──ええ、まあ、そうですよね。結果的に二人は結婚をして、三人の子に恵まれた。あなたから離れて二年、大変な道のりの中で支え合い、愛し合ったんでしょう。彼女は覚悟を持って〝戸頭間〟を名乗っていた。元々、あいつは彼女に懸想していた。あなたを羨んでいたし、あなたを恨んでいた。何もしなくても彼女の愛を一身に受けるあなたのことを、一方的に憎んでいました。あの穏やかな顔の下で。
丹羽の記憶の中で、穏やかな顔をした若い男が、じっとりとした視線を向けてくる。
それは優しさで、苛立ちで、嫉妬だった。
気づいていた。
気づいて嘲笑っていた。
腕に抱きつくハルカのつむじに唇を落としながら。
──ハルカさんは愛情深い人です。我々の生活が脅かされていくのを見ていられなかったから、五年経って警戒が緩んだときにあなたに決断を迫った。あなたは動かず、戸頭間ミツルが後を追うことになっただけです。彼はね、彼女を追いかけて出て行ったんです。彼女に、人といたほうが説得力が増す、と泥臭く縋り付いた。それはもう必死でした。そういう彼を、彼女は見放さなかった。あの二人は駆け落ちじゃないんです。ただ、彼がついて行った。彼女のするべきことを隣で支え続けた。そういう、戦友のような間柄でした。
丹羽は歩く。
昔に飲みつぶれていた自分とすれ違ったような気がして、お前は救いようない阿呆だな、と声を掛けたくなる。
きっと奴は振り返って言うのだ。
逃げたのは彼女だ、と。
──彼は彼女を愛していた。好きで、必要で、執着して、安心できなかった。あなたの存在が大きすぎた。あなたが死んでるものだとみんなが思っていたのは、そうでないと彼が耐えられなくなるとどこかでわかっていたからでしょう。あなたに対して常に抱く恐怖を、せめて彼女に正直に言えばよかったものを……卑怯で愚かだった、の一言しかありません。もしそうしていれば──
息子は死ななかったかもしれないのに、と言わなかった新正の高潔さは、戸頭間ミツルにも、自分にもなかった。
丹羽は一人自嘲する。
ふと、人並みが一瞬途切れたような気がして顔を上げる。
スクランブル交差点の中心に、異物がいた。
青白い顔。細い男はじっと自分の足元を見ていた。
神経質そうな顔。渇望が顔に現れた惨めな男──
「犀」
丹羽の声が届くはずもないのに、男は顔を上げた。
足早に通り過ぎていく歩行者。変わる信号。クラクションが鳴り響く。
犀。
間違いない。犀だ。
乾き果てた男は、どうしてか懐かしむように涙ぐむ。
しかし、丹羽が表情を険しくすると、自分の見ているものが誰か気づいたように憎悪に顔を歪めた。一歩こちらに踏み出そうとして、自分の手を見てハッとすると、すぐに逆方向に走り出す。
丹羽の身体は捕食者のよう思考より先に動いていた。
人を押しのけて前へ、前へ、追いかける。細い背中を。
うるさいクラクション。
頭の中で舟正が言う。
──襲撃!
後ろからの追突。揺れる頭。発信する車──鬼不田。戸頭間ミツル。ハルカ。春賀。黒いドレス。彼女が笑う。
──本当に? 結婚するの?
嬉しい、と抱きつく彼女の香り。景と紫がニヤニヤしながら出てくる。いたのかよ、と誰かが言っている。窓に映る幸せそうな自分。紫が小さな──小指の先くらいの箱を手のひらに出して上へ投げる。クラッカーのようにパンと弾ける白い箱。紙吹雪に銀のテープが舞う。
「……ああ、クソ」
頭の中に様々な映像が差し込まれながら、丹羽は革靴で追いかける。
土地勘がないのだろう、頭を忙しなく動かしながら、犀が逃げていく。横断歩道、曲がり角は左、人気のない方へ。
なぜ逃げる。
──逃げたのはあなたよ。
着物のハルカが言う。
「ああ、そうだよ。俺が逃げた」
認めると、彼女はにっこりと笑って消えた。
ビルの群れの間にするりと入っていく際の背中を見て、丹羽は笑う。
行き止まりであることは知っている。
壁に手を掛け、身を滑り込ませる──と、行き止まりの壁を前に足を止めた犀が振り返った。
「……クソガキ。生きてたのか」
「紫と見間違えただろう」
鼻で笑って言えば、男は顔を嫌悪で染める。
「……なんで似るんだよ」
犀の一番嫌がる答えを、丹羽は口にした。
「家族だからだよ」
犀の顔は、紫にも、景にも似ていない。性格もだ。
無邪気で毒気のない紫にも、無愛想にしては愛情深い景にも似ておらず、ひたすらに愛を乞うバケモノだ。
あの二人からどれほど愛を向ければ満足するのか、全く検討もつかないほど愛をむしり取ろうとする。
どうしてあの二人が家族だということで満足できないのか、丹羽には理解できない。
「家、族、は、俺、だ」
顔を醜く歪めた犀が、低く吠える。




