#9
正しいことなどこの世にはない。
自らが正しいと思いこむことで、自分を正当化しているに過ぎないのだ。正義は存在しない。わかるか?
その言葉を聞いて、思った。
正しいことは確かにないかもしれないが、正しくないことは確実に存在する、と。
その答えはここにあるのだ、と。
#9
夜津は三つ子らしい。
「一人は持ち上げて、一人は飛ばして、一人は軌道を調整しているんだって」
耳元で戸頭間が叫ぶ。
バーの店内はやかましいほどにしっちゃかめっちゃかになっていた。
その中で、丹羽は一人カウンター席に座ったままグラスを煽っている。
「彼らしかできないんだよ。すごいよねー」
「……だな」
「三つ子なのに夜津さんだから覚えやすいでしょ。顔そっくりだから誰が誰かわかんないけどね」
戸頭間は明るく笑い、丹羽は夜津とやら三人に同情のようなものをする。
そろそろ弾切れだろう、と鬼不田の下っ端の五人を見れば、彼らはガラの悪い顔を蒼白にして自分の手元を見ていた。
かちゃ、かちゃ、と引き金を引く間抜けな音だけが残り、ようやくバーの中に静かな時間が戻ってくる。鬼不田の誰も怪我はしていない。
「ありがとう、夜津さん。素晴らしいコントロールだね」
そっくりな三人が「ありがとうございます」と寸分の狂いもなく声を揃えて言う。見れば、意外と若い三人だ。
鬼不田の五人は、不気味なものでも見るように戸頭間や夜津を見ていた。怯えないところは流石だが、彼らが怯えているのは後ろに立っていた舟正らしい。顔色をうかがうように振り返る。
「──あかんわあ……ずるいやないですか」
舟正は彼らの視線を無視して一歩前へ出ると、戸頭間の前に立った。対する戸頭間は舟正に向かってにこりと笑う。
「お兄さんのほうがずるいでしょ。僕らが手を出せないのを知っていて撃ってくるんだもの」
「正当防衛です」
「僕らは何もしてなかったけど?」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ。で、僕を連れて行ってどうしたいわけ?」
聞くと、舟正はきょとんとして首を傾げた。
「知らへんけど、とりあえず親父が連れてこい、言うてはるのでね。ああ、そうや……一緒に来てもらせません?」
「うーん、話し合いって言うなら行ってあげても良かったけど、ファーストセッションがこれじゃあついて行くわけないよね」
「わかります、わかります」
舟正がにこやかに頷く。
「けど、来てもらわな──死体でも」
「お兄さんどこの出身?」
戸頭間が好奇心を隠さずに言う。
丹羽の口元は上がり、舟正のこめかみには筋が浮かぶ。
「……あちこち行きましたから混ざっとんのです」
「へえ。一度聞いたら忘れられないよね。言われない?」
「言われたことないなあ。二度目に会うことがありませんから」
含みのある言葉に、戸頭間は「そうなんだ」とさらりと返した。
舟正はしばらく戸頭間を薄く睨んでいたが、戸頭間が動く気がさらさらないことを察したらしく、大きなため息を吐いて後ろを振り返った。状況が把握できず青ざめている男たちにしっしと手を振る。
「仕方ないわ、お前たちは下で待っとき」
言うやいなや、男たちは一目散にバーを出て行った。
代わりに入ってきたのはこれまた綺麗なスーツを着た男で、舟正が礼儀正しく会釈をした。
「すみませんね──お願いします」
戸頭間が「わあ」と感心したような声を上げる。
「狐刀さん」
丹羽がこのホテルに戸頭間について入ったときにすれ違った、実業家のような若い男だ。
彼は狐のように目を細めると、右の手のひらからゆっくりと細長い刀を出した。戸頭間が丹羽のシャツをクイクイと引く。
「ほら。ほら見て、丹羽さん。あれが狐刀さんの日本刀」
「……あー、そうねえ」
丹羽が緩く相槌を打ったのが気に食わないのか、戸頭間はぐいっと腕を引っ張った。
「ちゃんと見て。狐刀さんが刀を出してくれるのは珍しいんだから──ねえ、狐刀さん?」
戸頭間の声が一段低くなる。
丹羽がつられたように狐刀とやらを見れば、美しい日本刀を床にすべらせるように持った男と目があった。
「……おや、珍しいものを連れていますね。一匹狼の君が」
「これ、丹羽さん。僕の相棒だよ」
なった覚えはない。
しかし、狐刀にはきちんと届いたらしい。どうしてか嫉妬のような視線を感じる。
「へえ、君の。彼はどちらなんですか?」
「確かめてみたら?」
丹羽は戸頭間の意図にようやく気づき、呆れた。
にこりと天使のように微笑まれるが、どうみても凶悪だ。
「……戸頭間くん、ちょっと酷いんじゃねえかな」
「そうかな?」
役に立って見せてよ、と囁かれたが、丹羽は「嫌だね」と即答してグラスをカウンターに置く。が、その直前にぬっと静かに横に払われるように入ってきた刀にグラスを止められた。
「──教えてください。お前は人か、そうではないのか」
絶妙な力加減でグラスを止めているらしい。いつの前にか戸頭間は丹羽の反対側に避難していた。なぜか、戸頭間の隣の席に舟正も座り、戸頭間が頼んだ酒を二人して飲み始める。その様子を見た夜津らがボックス席に戻ると同時に、新聞や鞄や万年筆がゆっくりと床を這う。まるで逆再生をしているような間の抜けた空間の中で、丹羽は狐刀と睨み合っていた。
「……で、どっちですか?」
意外と気の短い奴だ。
丹羽は思わず笑った。眼鏡の奥の鋭い眼差しが、ゆっくりとグラスを抑える刀に向かう。
確かに美しい。ぬらりと光る刀身は生き物のような意思を感じる。何となく、押し返そうと力を込めてみた。
バリンとグラスが砕け、破片がカウンターの上に落ちる。
丹羽の手のひらに酒がかかり、刀と触れる寸前で手が止まった。
「……」
「……」
互いに無言で睨み合う。
ふいに、戸頭間に手を差し出してきた。
眼鏡を外し、その手に預ける。
次の瞬間、丹羽はしなやかな動きで──それにしては乱暴に──楽しげに笑いながら、弾かれたように飛び出したのだった。