#30
あの冷たい刃を覚えている。
湾曲した黒い鎌。突きつけられたときの、こちらを見下ろす目。
彼女の美しい濡れた唇。
囁く。
まるで願いのように切実に。
──私を選んで。
答えなかった。
答えられなかった。
彼女を理解していなかったからだ。
#30
「昨日はどこに行ってたの」
ぼんやりとバーで飲んでいると、後ろからそう声をかけられた。
丹羽はどう答えるべきか一瞬だけ考え、そして最初に伝えるべきことを言うことにする。
「おかえり」
その言葉が意外だったのか、戸頭間は少しだけ黙ると、隣りに座った。
朝六時のバーは、丹羽と戸頭間しかいない。
数河は戸頭間が帰ってくるのを見ると、グラスに一杯だけ注いで奥に引っ込んだのだ。これ以上酒は出さないので休め、という彼の思いやりなのだろう。
話は聞かないという意思かもしれないが。
「ただいまあ」
戸頭間は間延びした声で一つ開けた隣りに座ると、煙草の箱をカウンターに置いた。
丹羽はそれを取り、一本取り出して火を付ける。
数河が置いてくれていた綺麗な灰皿を戸頭間との間に起き、ライターを箱の上に置く。
「……出かけるたびに煙草持って行くのやめてくれねえかな」
「無理」
「お疲れのようで」
丹羽が笑えば、戸頭間は煙草を一本持ってカウンターにとんとんと打ち付けた。
彼にしては珍しい仕草だ。
リズムを刻むような微かな音が、妙に心地良い。
「うん。疲れた」
「……素直だな」
「僕はいつも素直だよ」
「キレがないぞ」
「なにそれ」
ふ、と笑う。
昨日の朝に出て、一日。
実家で何をそんなに時間がかかることがあったのか、なにやら消耗しているらしい。
「目野か」
「わあ、聞いてくるなんてめずらしいじゃない」
「たまには甘やかしてやろうかと思ってな」
「ふふ。それはありがたいね」
くすくす笑う戸頭間は、煙草を口にしない。
丹羽は手を伸ばして灰皿に灰を落とす。
「死んだのか」
「え?」
「目野」
「……ああ、いいや。うん、無事だと思う」
「何だその微妙な言い方は」
「兄さんがね」
サトルか、と丹羽も繰り返す。
「そう。兄さんがね、ちょっと暴れちゃって」
「なんでまた」
「目野は、まあ無事なんだよ。両腕で済んで、地下座敷……あ、僕が寝てたところね? あそこに半年こもるだけだから。出る頃には、腕も再生できてるだろうし」
「……」
半年。
両腕の再生にかかる時間を見立てた戸頭間は「痛みに耐えられるといいけど」と呟く。
その声は心配しているようにも、自業自得だと呆れているようにも聞こえる。
狐刀は三ヶ月で腕を戻したが、目野は侵入者にとって大事な腕を半年失うことになった。
それでも、彼女にとってはハルカに許されることが一番の幸福に違いない。きっと今も喜んで痛みに耐えているのだろう。
丹羽は煙で肺を満たし、天井に向かって吐いて言った。
「半年後に正気だったら、まあ大丈夫だろ」
「だよね……でもそれ、慰めになってないよー?」
「で? サトルはなんで暴れたんだ」
「それがねえ」
戸頭間はカウンターに叩きつけていた煙草を止めた。
クッと笑う。
「目野の両腕を落とした母さんに、足も、と言い出だした奴がいてね」
「馬鹿だろ」
「そうなの。馬鹿なの。目野はみんなの前で腕を落とされても膝をつかないように耐えてるし、目野を知っている者たちは片腕で十分だって同情してたのに……母さん至上主義のやつがね、空気読まなかったんだよ。しかも賛同するように頷く奴までいた──丹羽さん、車で目野が話したこと、覚えてる?」
「……ああ」
異論を唱えたやつの頭を片手で潰した、という話だろう。確か「はあ?」から三秒で成し遂げたと記憶している。
「今回二秒」
「タイム更新か」
「そ。タイム更新。足、って単語を聞いた瞬間、あの惨劇を知ってる奴らは察知してざっと後退り。人並みが割れて一直線!」
座敷を大股で歩くサトルの姿が目に浮かぶ。
あのド真面目な無表情な顔で、状況を把握できない間抜けの頭を掴み、一瞬でゲルに変化させる姿が。
青い煙が漂う中、サトルは周囲を見て言う。
──頷いたのは誰だ?
「阿鼻叫喚ってことにはならなかったけどねー。僕が頷いた奴らの名前呼んで、周りが身を引いて、兄さんが仕留めて、の繰り返し」
「なんだそのふざけた修羅場は」
戸頭間が名前を呼ぶ。人並みが割れ、サトルが手を伸ばす。青い煙が上がる座敷を、ハルカが呆れたように見ている。
彼女は止めない。戸頭間が名簿を読み上げるが如く名前を呼び終わるのをただ待っている。目野の背に手を当てて労りながら。
間延びした戸頭間の声で名前が呼ばれる。
青い顔をした者たちが、そのまま青く溶けていく。
「で、母さんに物申すような馬鹿はみんな消えましたとさ」
「……記憶違いじゃなかったら〝一度の過ちは許す寛容な愛〟とやらを示すために目野を生きたまま返したんじゃなかったか?」
「何言ってるの。一度の過ちと舐めた態度は別でしょ。それに、母さんは何もしていない」
したのは兄さんだもん、と戸頭間は無邪気に言う。
「兄さんがキレたから、僕も仕方なく、ね」
「君等の独擅場だな」
「盛り上がりに欠けたけど」
「それで?」
「とりあえず、今回の決定に関して異議を唱えるものはいなくなったかな。賢い者だけ残ったって感じ。これもまあ、定期的なメンテナンス? みたいな。たまに変な思想の奴とか身の程知らずの奴を釣って、うちの調和と純度を保ってきたんだよね。長く居る夜津さんとか狐刀さんとかは、今日はそういうイベントかあ、みたいな反応だよ。大勢を一つにまとめるのって、大変だよねー」
やれやれ、とばかりに言う戸頭間は、ようやく煙草を指に挟んだ。
ライターを手にとって撫でる。
「守られたいのなら、愛されないと。愛されるには傅く。傅くためには、己の無力を知り、無知を恥じ、自ら無償の愛を捧げる──簡単なことなのにね」
戸頭間はそう言うと、ライターの火をつけるために親指をかけた。
火が瞬く。




