#29
いつ。
いつ、彼女はあの男を愛し始めたのだろう。
そんな兆候などなかったし、そんな兆候に気づけるほどの優しさを持ち合わせていたなかった。
#29
「助かりました」
襖が閉まって数秒後に、新正が苦笑しながら言った。
「さすがですね。我々の使い方をわかっている」
「使った覚えはない」
「……一美さんらしいですねえ」
ああ、彼も老けたな、と丹羽は時間の惨さを実感する。
自分はもうこれ以上年を取ることはないが、彼らはこのまま朽ちていく。
それは酷く、しかしどうしてか美しくも見えた。
深い皺も、干からびた手も。
「ハルカさんのところの三男の相手はどうです?」
息子を亡くした男が、穏やかに聞く。
丹羽は昔のように答えた。
「まあまあだな……」
「大変そうですねえ?」
けらけらと笑う新正の顔が、海野によく似ていることに気づき、痛まないと思っていたどこかが痛む。
「お噂はかねがね。舟をこき使っているなんてすごい胆力だ」
「気が合うんだろうよ……だが彼は、情がある。一見見えないがな」
「あなたがそういうのなら、いい子なのでしょうね」
「いい子ではない」
酒が進む中、新正は戸頭間についていくつか訪ねてきた。
戸頭間という存在の危険性を知りたいのだろう。
新正にしてみれば、舟正がこの件で無駄に侵入者を吊るそうとしなかった理由がそこにあると思っているのだ。戸頭間に懐いているのではないか、と。
丹羽は答えながらも、違和感に気づく。
探っているのは、どうやら戸頭間の人間性の判定だけではないらしい。
「ふむ。情はあるが、人使いは荒く、しかし判断力は冴えている──相対した者に愛される人柄……力も申し分ない感じで?」
「ああ。敵なしと言えるだろう。あの兄も相当だ」
「しかもあなたが常に側についているときた」
丹羽は、新正の目のそこに塗らりと光る何かを見た。
見て見ぬふりをする。
「……じゃあ、戸頭間ミツルがおらずとも、あの家は安泰ですね?」
その名前が出てくるとは思っていなかった丹羽は、一瞬反応が遅れた。
「……その、話か」
「ええ。その話です」
「本題が」
「この話です」
「……はあああ」
めんどくさい、と言わんばかりに息を吐き出す丹羽を、新正が楽しそうに眺める。
息子の仇討ちを終えたようにも見えるし、それを諦めて乗り越えたようにも見える。
どちらにしろ、それをこれから聞かされるわけだが。
「半年前のあの日、ハルカさんから連絡があったとき──驚きました。あいつだったとは。でも、一方で何故か理解したんです。ああ、あいつだったか、と」
「……」
「どこを探っても何も出てこない。これ以上は身を滅ぼす、と思う寸前まで探しましたが、出てこなかった。当然です。あの戸頭間の懐に入れるわけがない……前に、人のほうがずっと悪魔だ、と言ったことを、覚えていますか?」
「ああ」
ようやく返事をした丹羽へ、新正が頷く。
「戸頭間ミツルはまさにそういう男でした。穏やかで、どこまでもおとなしい男だが、それは狂気をどうにか抑えるための仮面でね。彼は異常に執着心があったし、渇望していたし、弱かった。自分では気づかぬふりをして、自分に力はないと思いこむことで正気を保っていた。そういうところが、すごく好ましくてね」
「……」
「だから、ハルカさんから理由を聞いたときに、腑に落ちたんです」
理由。
彼が、見知らぬ者を匿っていた理由。
彼の息子を殺した名波他に報復するためだった、と吐露していた哀れな男が記憶の奥で泣いている。
──許せなかった。ずっとだ。だが、こちらから人に手は出せない。そんなときに彼らが現れて、匿えば代わりに名波他を殺してくれると言った。それに縋らなければ、もう耐えられなかった
彼はそう言っていたが、ハルカに一刀両断されていた。
結局彼はハルカを信じられず、疑心に囚われ、悪手ばかりを選んだ。
「本当に……彼は本当に匿っていただけだったそうです。例の二人は、彼の話を聞いてやり、頷き、共感してやった。それに救いを見出して、彼らに心を寄せてしまった」
憐れむような声が、死神の鎌に首を狙われる戸頭間ミツルの幻影を消す。
「戸頭間ミツルは侵入者を知らなすぎた。だからハルカさんと一緒に海野の家を出ていけたんですがね……まあとにかく、本当に何も知らず、何も指示せず、ただ弱音だけを吐き続けた。けど、彼はわかっていた。理解していた。彼らが何をするのかは、頭の後ろの方で囁いていたから知っていた。聞こえないふりをしていただけで」
「新正」
「生きています」
一言。
誰が、とは言わなかったが、新正は「スッキリした」と言いたげな顔でにこにこと笑った。
丹羽は渋い顔で頬杖を崩し、頭を掻く。
「許したのか」
「……一番にそれを聞いてくれるところがあなたらしいですが、許してなんていませんよ。彼にどういう事情があったにしろ、侵入者のことはハルカさんに任せるべきだった。どうせ、ハルカさんの力を削いで、自分を頼ってほしかった──そんなところなんでしょう。一番苦しむ方法で、償ってもらっています」
「……お前なあ」
丹羽の一言に、新正は声を上げて笑う。
わかっている。丹羽はそれを聞くつもりはなかったことをわかっていて、わざと言ったのだ。
自分と同じように信頼を裏切って妻を捨てた男など、どこでどうなっていてもいい。関係ない。聞かされたら最後。戸頭間ミツルについて誰かに聞かれたときに答えねばならぬことの方が、ずっとずっと面倒だった。
もう、聞かされてしまったが。
「俺はハルカと会わなきゃならないんじゃなかったか?」
「ええ。そうですね。こちらの頼みをハルカさんに伝えてくださる、という約束ですね?」
「……はあ」
楽しそうな新政の顔を前にすると、言葉が見つからなくなる。そんな丹羽に、彼は「とっておきの話」とやらをしてくれるのだった。
それは、ハルカと戸頭間ミツルの、三十五年前の真実だった。




