#27
甘い香りの夢を見た。
ほんの少しの誘惑を笑って流して遊ぶ一時、彼女は腕に絡みつく。
身を寄せて、体温を分け合って、そうして顔を近づける。
彼女が囁く。
──ねえ、私を捨てて幸せになれた?
#27
目覚めると部屋に一人だった。
丹羽はのっそりと起き上がり、潮風に揺れるカーテンを睨む。
誰かが開けて行ったのだろう。
頭の中のその誰かが「起こさなかっただけ優しいでしょ」と笑う。
「……はあ」
丹羽はサイドテーブルに手を伸ばしたが、指先に当たったのは眼鏡とライターだけだ。
また頭の中で「僕が戻るまで禁煙ね」という声が聞こえる。
丹羽はバスンとベッドに寝転び、外のきらめく午後の日差しを目を細めて睨んだ。
白い鳥が飛んでいく。晴れ渡る晴天に海の香が混じり、耳をすませば潮騒が聞こえてきた。
バーに降りる気にもならない。
ただベッドに寝転んで無駄に時間を潰す。
臨時首都へのドライブとやらは相当疲弊したらしい。若くない自分への労りとして、丹羽はまた目を閉じた。
が、すぐに阿呆らしい夢を見るような気がして、のろのろと起き上がる。
それを見ていたように、携帯の着信音がなるのだった。
◯
「ですから、ちょうどいいと思いましてね。少しだけご相伴に預かりましたら、帰りますんで。少々お時間いただけたらあ、思います」
舟正が礼儀正しく頭を下げる。
高級料亭での会食など、碌な人間が集まらない。
丹羽は通された離れの和室に上がってすぐ、待っていた二人の男の顔を見て「早すぎないか」とこぼしていた。
「こういうのは早いほうがいい」
「ええ、本当に」
新正に、御田がゆるゆると頷く。
丹羽を連れてきた舟正は「失礼します」と先に入り、部屋の端に下座に座る。仕方なく、丹羽は新正の前の座布団に腰を下ろした。
「乾杯」
用意されていた猪口を掲げる。
黙って飲むと、懐かしい味がした。
御田が嬉しそうに顔をほころばせる。
「……海野の親父が好きでしたね」
「ああ」
「……」
懐かしさを共有し合う数秒を、舟正は決して邪魔しなかった。
かといって萎縮しているわけでも、無駄に寛いでいるわけでもない。ただ、彼らを尊敬しているように、ただじっと命令を待っている。
よく躾けられた犬。そういう印象だった。
新正が、くい、と顎をしゃくると、頭を下げてから丹羽を見る。
「──昨日のことを尋ねてもええですか?」
「……答えられることなら答える」
「ありがとうございます」
にこ、と笑った舟正が、身体ごと丹羽に向いた。首の傷跡が黒いシャツの襟からちらりと見える。
こいつに傷をつけるなど、誰がやったのだろう。
丹羽は猪口を円を描くように傾けながら考える。
「……ルージュでのことですが、宿泊費を余りあるほど支払っていただいた、と支配人から聞きました」
「そうらしいな」
「ところが、イノセントの客付きサービス係はいなくなったらしい、と」
「へえ」
「ご存知ありませんか?」
「……爆破に巻き込まれて死んだんだろ」
男は、だが。
丹羽の言葉に、舟正はうんうんと頷く。
「そうそう。臨時首都で爆破騒ぎがありまして……巻き込まれたのかと心配しとったんです。何があったか伺っても?」
「知っていれば言うが、俺は何も知らない。ただ、チェックアウトをして車で出たときに突然騒ぎが起きただけだ」
「……ほう。それはもしかして、買った男女をエトウに引き渡した直後のことだったりします?」
「するな」
どうやら、舟正は追求する気はないらしい。
話を合わせるように丹羽が頷けば、満足げに笑った。
「エトウが恨みを買いすぎたせいで、大事なお客さんである坊っちゃんやあなたに面倒をおかけして、申し訳ありませんでした」
舟正が頭を下げる。
どういう意図かは知らないが、戸頭間が危惧した「貸し借りの相殺」についての話はこの場では出そうにない。
というか、どう見ても「ああラッキーやわあ」という楽観的な顔に見えた。
「疑ってらっしゃいます?」
「……いや」
「エトウにねえ、狐刀さんと動いていることを隠すのも面倒で仕方なかったんです。時折〝エトウさんに言っていいんですか?〟って脅してくる奴もいましてね。しかし、あのイノセントを回している彼を引きずり下ろすのもまあ大変で──失礼、御田さん」
穏やかな口ぶりで謝罪する舟正を、御田は「構わんよ」とひらひらと手を振る。
「随分君を怖がってはいたけどね」
「昔ちょっとお仕置きしただけですよ」
「お前のアレはなあ……」
新正の苦笑を舟正は笑って流し、丹羽を見た。
「ただ──鬼不田のおもちゃ箱が襲撃されたぁ言うのはまずいんでねえ。どうしましょうか?」
丹羽は適当に答える。
「どうにかするのがお前の仕事だろうよ」
「うーん、さすが坊っちゃん。躾が上手い」
「恨みを買いすぎたやり方を変えるしかねえんじゃねえの」
「……はあ、そうやわなあ」
顎に手を当てた舟正は「もっともなこと言われてしもた」と一人呟く。
「では……イノセントで減った戦力を、そちらから一つだけ、分けてはいただけませんか?」
侵入者を貸しだせ。
そう言ってきた舟正は、本気らしい。
本気で臨時首都に侵入者を「用心棒」として使わせろ、と言っているのだ。
侵入者を憎んでいたエトウの穴埋めに侵入者を置くとは、強烈な皮肉でしかない。
それをやってのける舟正を、どれだけの人間が恐ろしく思うのだろう。
あの不可侵の街に、人を傷つけられない侵入者を見世物のように置く。
それが、どういうことなのかわからぬ丹羽ではない。
どちらの安全も保証できない。
「プライドの高い奴らが、人の手足になるわけがないと思うが?」
「……だからこそ、意味があるのでは? そうですねえ、人員補充ができるまでの期間で構いませんよ」
「なるほどなあ」
丹羽は猪口を置いた。
「彼にはそう伝えよう。だが、俺には決定権もない。本気で頼むなら、彼の母親に呼び出されるだろうが……覚悟はあるか?」




