#26
赤い爪を思い出す。
彼女が好んで塗っていた色。
どうしてかと聞けば、だって血が通ってるみたいじゃない、と彼女は笑った。
人になりたいのか、と聞こうとした喉が詰まる。
彼女は笑った。
馬鹿ね。
あなたって本当に馬鹿で、可愛いわね。
そう言って爪にキスを落とす彼女は、美しかった。
#26
「とにかく、目野が戻ったのなら問題ない」
サトルが諦めたようにまとめる。
戸頭間は灰皿に灰を落としながら尋ねた。
「最初から連れ戻すつもりだったんだね。母さんの指示?」
「お前も最近男どもが色めき立ってる理由は知ってるだろう」
「嘘でしょ。それあぶり出したかったわけえ?!」
ハルカの夫の座を狙う侵入者。それを戸頭間から聞いていた丹羽は、ようやく合点がいった。
つまり、ついでに馬鹿な浮かれた男どもを表面化させたかったらしい。
「言っておくが、お前への追跡者が少なかったのは、こっちで潰してたからだぞ」
「……はあ?」
「お前のGPSを見ながら、それに向かっていくうちの奴らの車は俺達で全部潰していた」
「帰りは襲われたんですけど」
「帰りぐらい自分でやれ」
「っていうか俺達って?」
「このホテルの滞在者」
「うわー……本物の信奉者使うとか……うわー……」
ホテルにいられる者たちは、戸頭間に丁重に接する。
それは主従関係と言っても過言ではなく、彼らが心から戸頭間という人間を尊敬し、敬愛し、そして心酔しているのがひと目でわかるほどの、強烈な愛情を持っているのは確かだった。その彼らが、愚かな夢を見る同胞をどうやって消したのか、考えずともわかる。
「母さんが目野を可愛がっているの知っている者にしたら、あいつは母さんの末の娘のようなものだろう」
「まあねえ、定例会のあとで、みんな反抗期だなあって言ってたし」
「だが同時に、それでも許してはならないと声を荒げる奴と、自分に離反する奴は徹底的に潰すつもりかと異議を唱える奴がもいたんだよ」
「兄さんの目の前で?」
すごい勇気だね、と感心する戸頭間に、サトルは「耳がたくさんあるからな」と、事も無げに言う。
「ふうん……じゃあ、両方の声を黙らせたかったわけだ」
「ああ」
頭上でゆらゆらと停滞する煙を、細く吐き出した煙で追いやる。
燻った空気に、ピアノの音が絡まって響いた。
「前回、徹底的に裏切り者を一掃したことで尊敬と恐怖を与えすぎたらしい」
「じゃあ今回は愛の出番だ?」
戸頭間が煙草でハートマークを描く。
「すぐに粛清しろって言う攻撃的な奴らには、寛容な愛を見せつけて──裏切るとすぐ殺すだなんて、と偽善ぶった怯えた奴らには、一度の過ちは許すと教えてやる……うーん、無駄がない」
「母さんが許せばな」
「許すよ。だって目野だもん。腕くらいは、みんなの前で落とすかもしれないけど」
戸頭間の言葉に、サトルは鼻で笑った。
「お前が狐刀の腕を落としたみたいに、か?」
「失礼しちゃうな。あれは助けてあげたんだけど? あと、落としたのは僕じゃなくて丹羽さんだよ。ねー」
自分に話が向かないようにしていたというのに、戸頭間からパスが渡される。
無言で返すと、戸頭間兄弟は同じタイミングで煙を吐き出して笑った。
「とにかく早々に片付いたことは褒めてやろう。長引けば長引くほど面倒になっていただろう」
「反抗期の家出は一日って相場が決まってるもんね」
「カケル 目野に赤いシミがいくつもあったが、あれはなんだ」
「なんのことー?」
「一緒に逃げていた男はどうした」
戸頭間は煙草を灰皿に捻り潰す。まるで男の最後を象徴するように。
「知らない」
「……痕跡は」
「ないんじゃない?」
適当に答える戸頭間に、サトルは察したらしかった。
「なるほどな。イノセントでのゴタゴタを綺麗に片付けとけよ」
「それは丹羽さんがしてくれるって」
「……」
丹羽はグラスを持つが、それはもう空っぽになっていた。
諦めて煙草を口に運ぶ。
「では頼んだぞ、丹羽一美」
「……はいはい」
煙とともに吐き出せば、また兄弟は似たような笑みを漏らした。
「カケル」
「うん?」
「いいものを拾ってきた褒美に、お前の部屋は使っていない。安心しろ」
「えっ」
戸頭間が驚くと、サトルは寛いだように「俺は鬼ではない」と言い放つ。
「本当? うわ、嬉しいなあ」
「どうせすぐ戻ると思っていたしな」
「そっか。僕を信じてくれたんだ? じゃあどこに泊まってるの?」
「……聞きたいか?」
にやりと笑われ、戸頭間は口を閉ざすと「いい、いい、聞きたくない」とわざとらしく耳をふさいで見せる。
が、それはすぐにサトルによって剥がされた。
「目野のことは明日俺が連れて帰る。お前も来い」
「わかってるよ」
「丹羽一美、お前は留守番だ」
「……はいはい」
丹羽の返事を褒めるようにサトルが笑う。
やはり機嫌が良すぎる。
その理由に行き当たったらしい戸頭間は、数河にグラスを揺らしておかわりを頼んでいた。
「目野は大丈夫そうなのか」
「……ん? ああ、正気に戻らなければね」
「ご苦労だった」
それだけを言うと、サトルは短くなった煙草を潰して席を立った。
「では俺は部屋へ戻る」
「はあい。また明日ね」
「五時」
「……はあい」
朝の五時。
戸頭間は気力を使い果たしたように、兄の横暴な予定に手を上げて頷く。
ふと、ピアノの音が止んだ。
丹羽は、ステージから降りた鳴がバーを出ていき──サトルとエレベーターに乗り込むのを視界の端で見た。
上機嫌の理由。彼女をエスコートする、サトルの手の優しさ。
「……なるほどなあ」
最後の煙を吐き出して、丹羽は優しく煙草の火を消したのだった。
──哀れなバロック・クイーン──




