#20
迷い込んでいることに気付けるのは、そこから抜け出せたときだけだ。
何も知らぬまま、目の前の道を這うよう歩いてきたことを無情にも知る。
外の〝普通〟を初めて目の当たりにして、頭を撃ち抜かれるような衝撃を受けるのだ。
腹立たしく、悔しく、苦しい。
彼らが妬ましくてたまらない。
そんな気持ちがわらからぬ彼らが、笑っている。
#20
そこは、ホテルの従業員用の駐車場らしかった。
非日常の裏側は日常じみていて、ゴミ収集や搬入口に止められたトラック、マヌケな顔で煙草を吸う従業員。
そこに異質な高級車がぽつんとあった。戸頭間のクラシックカーだ。
「離れたところに置いたねー」
戸頭間が鼻で笑う。
そう言いながらも、戸頭間は悠然と歩き出した。その後ろを目野と男が足早に続き、丹羽は警戒しない素振りでふらりと歩き始める。
戸頭間の車の周りには、不自然なほどにぽっかり空いている。
それが出口に向かって駐車されているのは、このホテルの支配人のせめてもの義理なのかもしれない。
車までがやけに遠く感じる。
どうしてこんなに遅く感じるのだろう。
丹羽の背中がヒリヒリと焦燥感に焼ける。
わかっている。
これは紛れもなく「嫌な予感」というやつだ。
四人が黙々と歩き、戸頭間が車のキーを取り出して運転席へ──行こうとしたその瞬間、一台の黒塗りの車が乱暴に駐車場へ入ってきた。目の前でキィと不快な音とともに停まる。
「──お客様、どちらへ?」
車から降りてきたエトウがにこりと笑いながら歩いてくる中、戸頭間は笑顔で応戦した。
「あっ、ゴトウさんじゃない。どうしたの?」
「……エトウです。ナナシ様」
「そうだったね。イトウさん」
エトウがこめかみに青筋を立てながら、目野と男を指差す。
「それ、うちの商品ですが。どちらまで連れて行くおつもりで? 延長する予定では?」
「うん。だから、朝ごはん食べに行こうと思ってさ。っていうか、来るの遅くない?」
「……お待たせいたしました。集金です」
「はい、これ」
戸頭間はエトウにアタッシュケースを押し付ける。
そのずっしりとした重さに、エトウは驚いたように顔を歪めた。
「石が入ってます?」
「ううん。お金」
「……多すぎやしませんか?」
「そのお金が尽きるまで、この二人を買い続けるっていう意思表示? みたいなものかな。前金」
「それは太っ腹で」
しかし、と下卑た笑みを浮かべて、エトウはアタッシュケースを押し返してくる。
「すみません。もう二人を買っていただくことはできないんです」
「ふうん。なんで?」
「信用問題、と言いますか」
エトウは意味深に状況を見渡し、戸頭間が受け取るようにさらにアタッシュケースを押し付けた。
「こちらも、昨夜義理は通したのでね?」
「……なるほど」
「返していただきますね」
エトウの後ろから、黒服たちが車から降りてくる。
全員が腹の立つ顔をしていた。
「反撃、なさっても構いませんよ?」
できないことを知っている、という顔をしたエトウが一歩前に出た途端に、戸頭間は大きく後ろに身を引いて目野の腕を掴んで離れた。
ぐらりと揺れる華奢な身体。
身を寄せ合っていた恋人たちが引き離され──男はエトウに捕獲される。
「あ……!」
目野は小さな悲鳴を上げるが、男はものの数秒で両腕を黒服たちに抑えられた。
目野がぶるぶると震えだし、エトウは嬉しそうに無邪気に笑う。
「さあ──あなたもこっちに来なさい。男の元へ。あなたはこいつと離れられないでしょう? 今大人しくこちらにつくなら……客付きのサービス業の従事は免除してあげましょう。二人仲良く、イノセントの正規の従業員として雇ってあげますよ。ウエイターとウエイトレスはどうですか?」
甘い声に、目野がぐらりと身体を揺らした。
一歩前に出た彼女に、戸頭間を腕を掴んで止める。
「ダメ。やめな」
「……はなして」
「目野」
「放して!!」
目野はそう叫ぶと、戸頭間の腕を振り切った。もつれる足で走る。
捕まっていた男が泣き出しそうに笑う。安堵したように。助かったというように。目野が犠牲になることを喜んだその顔は、ぴたりと静止した。
男の首が鉈で刎ねられたのだ。
吹き出す鮮血が、エトウの顔に降りかかる。抑えていた男たちも、まるで一旦停止しているかのように呆けた顔で止まる。
目野の手に鉈がぬるりと戻っていく中で動けたのは、戸頭間と丹羽だった。
丹羽は戸頭間が一歩前に出る瞬間に手渡してきた車の鍵を持って運転席に乗り込み──戸頭間は目野の腕を取って引っ張り戻すと、後部座席に二人で転がるように乗り込む。丹羽はすぐさま車を出した。
「! ちょっと、僕の車なんだから気を付けて運転してよ?!」
「わかってるよ。エンジンがかかったくらいで嫉妬するんじゃない」
戸頭間の車は気ままらしく、時折彼を無視して全く動かないこともある。
それが丹羽があっさり運転できたことが気に食わないらしい。
「! 丹羽さん、来るよ!」
戸頭間の声の通り、ハッとした血だらけの男たちが車に乗り込むのが見えた。彼らは怒りに染まったようにドアも閉めずに急加速で追ってくる。
「ライター貸して!」
車を走らせながら、戸頭間にライターを渡す。
「目野──燃やすよ」
目野がどんな反応をしたのかは、運転している丹羽にはわからない。
しかし、後部座席の窓が開き、炎がぼっと風に逆らって走る音を確かに聞いた。
ふいに、潮風が丹羽を包んだ。
ここにないはずの海のにおい。
これは記憶だ。
初めて会った日の夜の海──あの時、女に殺された男を燃やした記憶。
奇妙なことに、感動したのだ。なんて上品に燃やすのだろう、と。
ああ。
あのときも、彼は死んだ男を弔っていたのかもしれない。
『──みなさん、こんばんは。沿岸地域の自主避難がようやく解除になって一年。ようやく、首都が正式に戻ることが閣議決定されたとのこと……いやあ、嬉しいですね! すでに大勢の人が戻ってはいましたけど……臨時首都はねえ、色々、問題も出てきましたものね。やっぱりカジノができたのが問題だったんじゃないですかねえ。元々、富裕層しか移住できないって、結構糾弾されていましたし……って、これくらいにしましょうか。さあ、今夜の一曲はこちら。臨時首都で流行った一曲──哀れなバロック・クイーン』




