#17
一緒にいるときは、よく眠れた。
子供のように身体を丸めて睡眠を貪り、目覚めるときも深い深い幸福が横たわっていた。
なぜ手放せたのか、自分でもわからない。
なぜあの安心感を、見放すことができたのだろう。
#17
目野は部屋には戻ってこなかった。
朝になって、廊下で男と寄り添うように床に小さくなって座っていたのを見た丹羽は、なんとも言えない顔で見なかったことにすると、部屋に戻るとすやすやと寝ている戸頭間のソファを叩く。
「……起きてるんだろ」
「あ。バレちゃった」
「延長時間まであと三時間だぞ」
「ってことは朝の九時かあ……」
戸頭間は若々しい動きでソファから起き上がり、立ち上がって伸びをする。
「はあ、よく寝た。目野たちは?」
「まだ寝てる」
丹羽が廊下を指差すと、呆れた顔で廊下へと向かった。
腕まくりをしたシャツに、シワだらけのベスト、スラックス。戸頭間を知っている者が見れば驚愕することだろう。
「目野。起きて」
戸頭間の声は、冷静なそれだった。
男の方を軽く蹴る。
「そっちも。起きて」
「……あ」
ビクッと起きた男をつま先で押すと、それを目野の手が掴んだ。
「やめてよ」
「だったら早く起きて。あと三時間しかないんだから」
「私に命令しないで」
「命令しないと動けない間抜けにならないでくれない?」
戸頭間は温度のない声でそう言うと、つまらなそうに戻ってきた。
丹羽が、カーテンを閉めると、朝日を遮った部屋の中に、重苦しい空気が垂れ込む。
目野は窓際に立ち、男は所在なさげに彼女の隣に立った。どう見ても愛し合う男女というよりは、主従関係に見える。
戸頭間はソファに座る中、丹羽は廊下へ通じる壁に寄りかかった。
「母さんから聞いた。その男と結婚したいんだって?」
「だからなに」
「聞いてるんだから答えな、目野。時間ないんだから煩わせないで」
「するわ。結婚。だから何なのよ」
「諦めて」
戸頭間は短く言った。
恫喝に近い声だが、目野は馬鹿にするような目で応戦する。
「いやだ」
「今は諦めろって言ってんの。付き合っとけばいい。ただし、ちゃんと隠れて。空気読みなよ。それがわからない哀れな女じゃないでしょ」
「……」
じっとりと見つめるその目には「拒否」しかない。
その頑なさは、正義感よりもたちが悪い。
戸頭間が言うように、今は空気を読むべき微妙な時期だ。
丹羽には関係のない話だが、反対勢力を潰す過程で炙り出されてしまった戸頭間家の裏切り者を底的に潰した。
残っているのは、良くも悪くもハルカ至上主義の紳士淑女。
彼らの信頼を裏切ることは破滅そのものだ。
ハルカの、戸頭間の、この世界の。
共存のバランスを崩したのはたった一人の女の恋心だった、など、おかしすぎてどうにもならない。
そもそも昨夜聞いた「彼女のプロポーズを断った」もよくわからないままだ。
目野が、戸頭間に、プロポーズ。
「何が不満なわけ。結婚になんでこだわるの」
「私が証明するから」
「何を」
「人と、幸せな結婚はできるって」
目野が怒りを灯すように激しく睨む。
「ハルカ様は何一つ間違っていないもの」
「……そっちかよ……」
丹羽が思わず呟けば、戸頭間は吹き出した。
「うん! そうなの。目野は母さんのことが大好きでさあ……母さんが父さんとうまく行かなかったから、証明しようとしてるんだよ。人と幸せになれるって。ね、馬鹿でしょ?」
花瓶が飛んできた。
すぐに身体が反射的に動いた丹羽が、戸頭間の前に出て蹴り落とす。金属製のそれは、刎ねられた生首のようにごろんと転がった。空っぽの花瓶が口を開けて目野を向く。
「ねえ、目野。本当にそいつを愛してるの?」
戸頭間がゆっくりと彼女を傷つけ始める。鋭いそれが目野を貫通して、男まで届くように。
「ただ、母さんのために動いているだけじゃない?」
「だまれ」
「母さんにら結婚したい相手が人の男だって言ったら、褒められると思ったんだよね?」
「だまってよ!」
「こう言って欲しかったんでしょ?」
戸頭間が優しく息を吸う。
「──〝ああ、目野。なんて嬉しいの。私が人を夫にしたことを間違いではないと思ってくれているのね。あなたが人と結婚すれば、私が人を排すつもりなど微塵もないって、証明にもなる。私が人にとっての脅威になるかもしれないという疑惑を払拭できる。ああ、守って助けてくれるのね、ありがとう──〟って。でも違った」
目野の顔が歪む。男の顔も。
「母さんはこう言ったんだよね? 〝駄目よ。今はやめて。今、あなたが人と結婚すれば、私への裏切りに見えるわ。今の彼らはそれを絶対に許さない。やめなさい〟で、目野は言う──〝関係ない。貴女の愛を証明する。侵入者は人を愛せるって。あなたが人の敵じゃないって〟ってね。二人とも見ている方向が違うから、相容れない。母さんは戸頭間家の平定のため、目野は母さんが外に攻撃されないため。話が噛み合わないはずだよね?」
戸頭間がゆっくりと笑う。
「目野。母さんのためだって言うけど、違うでしょ」
なぜだろうか。
激しく睨み続ける目野が、丹羽には今にも泣き出しそうにすら見えた。
彼女の触れられたくないところを戸頭間は的確に刺している。
「戸頭間ハルカができなかったことをしたい。彼女が最後まで添い遂げられなかったのなら、自分が成し遂げたい。彼女に愛されたい。彼女に褒められたい。彼女の娘になりたい。彼女の庇護下にいたい。彼女の家族になりたい。絶対に離れられないものになりたい──そうやって、戸頭間ハルカを愛する自分を愛してるんでしょ」
彼女の表情がくしゃりと崩れた。
真っ赤な目に涙が浮かぶ。
怒りと悲しみで、手を強く握り込んでぶるぶると震えだした。




