#16
人間は赤く。
我々は青い。
違いはそれくらいだ。
傲慢さは何よりもよく似ている。
#16
「!」
頬から垂れた赤い血に、エトウが目を剥く。
信じられないとばかりに、それを凝視していた。
戸頭間の「待て」を見た瞬間、銃を引っ込めた丹羽は、笑いたい衝動を眼鏡を押し上げてやり過ごす。
一番に声を発したのは戸頭間だった。
「びっくりしたー。ひどいことをするね。なんでそんな事するの?」
戸頭間が驚いたように言う。が、その声はどこか弾んでいた。
男は自分の身に起こったことがようやく理解できたのか、頬に手を当て「ああ、あ」と震えだす。
「ほらほら、泣かないの。大丈夫だよ、薄皮だけだから。口、裂けてないし」
男は蒼白な顔で戸頭間を見てガクガク震えるが、さっきまで一緒にいた女が戸頭間の後ろに回ったのを見て、よろけるようにその背中に隠れた。
長いものに巻かれる瞬間を見た丹羽は、周囲を見渡して収拾を図る。
「行くぞ」
「はあい」
戸頭間がついてきて、そして男女もついてくる。丹羽を先導していると、戸頭間は「あ」とわざとらしく無邪気な声を出して足を止めた。
「エトウさん。商品、傷ついちゃってるから値引き交渉したいところだけど……僕、下品な真似はしないんだ。正規の価格を払ってあげるから心配しないでね。じゃあ十二時間後の明日朝十二時に」
煽って満足したのか、戸頭間は軽快な足取りで丹羽を追い越した。
丹羽は、その後ろをついて歩くやけに美しい女の横顔を見た。
世界に絶望しながらも、自分の縋る者にすべてを預けているような妄信的な目をした女。
目野。
彼女が、目野だったのだ。
◯
「何してんの。馬鹿じゃないの」
ホテルに部屋に戻った戸頭間の一言目がそれだった。
目野はじろりと戸頭間を見上げる。
「追いつくの、遅いね」
悪態を吐いた彼女は、髪をかきあげて「風呂」と呟くと、勝手にシャワールームを探し当てて入ったらしい。水音が床を打つ音がかすかに部屋に響いてくる。
呆然とする男は部屋に入ってすぐ座り込み、そこから動かない。
情報を回すのが早い舟正のおかげか、ホテルのタクシーで二人を乗せて帰ると、ロビーは人払いが徹底されていた。支配人は何も言わずに四人をエレベーターに押し込み「部屋からそれを出さないようにお願いします」とだけ言うと、出ていった。
管理が行き届いている。
舟正が鬼不田を実質的に回しているのだろう。
新正から名前をもらっていることからも、次は彼がその地位を受け継ぐことは既定路線らしい。新正の子の死に頭が沸騰していた姿を思い出せば、周囲からの信頼も厚いのだろう。
だとすれば、鬼不田の勢力拡大は目前だ。
「はあ、まったく」
戸頭間は苛立つようにソファにどかりと座り、腕を組む。
「疲れた。本当に疲れた」
「……あれが、目野? 女のほうが?」
「そうだよ。言わなかったっけ?」
「……聞いていませんが」
「そ? 驚かせてごめんねー」
全く謝っていない「ごめんね」を流し、丹羽は対面に腰を下ろす。
「すごい奴だな」
戸頭間に対してあの態度。
武家山を思い出すが、表面上敬意はある愛情深い彼女とは違って、全身から「お前が嫌い」というオーラを発していた。
話に聞いていたイメージではない。
──侵入者にしては非力で、あのホテルにも滞在できなかったけど、母さんのお気に入りだったんだ──母さんは目野のそういう人っぽいところが好きだったんだと思う。
「……あれが」
「逃亡で荒んじゃったんじゃない?」
適当な物言からは疲れ切っていることが見て取れた。
長時間の運転に、カジノ。エトウもあれだけ煽って遊んだのだ。精神的に消耗していてもおかしくはない。が、ある意味人一倍タフな戸頭間がこの様子では、目野との相性の問題なような気もする。
「母さん、なんだって?」
「明日の十時に送金するってよ」
「金額は」
「五千万」
「ふうん、そっか」
戸頭間は彼らしくもない格好のまま、ソファに横になる。
ここに武家山がいれば「皴になります」やら「自分のお部屋でお休みください」やら問答無用で世話をして転がしてくれるが、今頼りになる彼女はいない。かと言って丹羽がその役目を引き受けるほどの余力もいない。
「で、どうするんだ」
「うーん、考えなきゃだめ?」
「……駄目だろ」
「眠たいなあ」
間延びした声に、ぎくりとする。
半年前──戸頭間が〝眠った〟せいで、とんでもなく大変な二ヶ月を過ごしたことが丹羽の頭に過ぎる。
「あ、大丈夫だよ。そっちじゃないから」
「……」
「心配性なんだから。本当に僕を大切にしてくれてありがとう」
「三人連れて逃げられるほど俺は元気じゃないんでね」
「何言ってるの。連れて行くのは僕だけでいいんだよ」
目野も男も殺せ。
そう言う戸頭間の声は穏やかだ。
「……目野を連れて帰りたいんじゃないのか」
これほどまでに消耗しながら、彼女を連れて帰ろうとしているように見える。
丹羽の思考を読んだように、戸頭間はそれを鼻で笑った。
「兄さんがなんて言っていたのか、忘れたの?」
「……目野を連れて帰るか、殺せ、だろ」
「だったら最悪、殺すしかないでしょ」
「……わかったよ」
その最悪を選びたくはない、ということが。
丹羽は息を吐くと、シャワールームの水の音が止んだのを聞いて天井を見上げた。
「どうするかな」
「本当にねー。まあ、とりあえず寝ようよ。頭働かないときは余計なことをしないに限るって」
「そりゃその通りだ」
丹羽も横になる。
「で、君は彼女になんであんなに嫌われてるんだ」
「さあ。でも、目野からのプロポーズを断ったあとから、ずっとあんな感じなんだよね」
「……は?」
丹羽の間抜けな声は、シャワールームのドアが空いた音で掻き消された。




