#15
足を踏み入れた瞬間から、それは全身を飲み込んで放さない。
絶望とはそういうものだ。
#15
「わかった」
戸頭間はにこりと笑った。
「じゃあ買うよ。一晩」
そう言いながら首を傾げる。
「十二時間。いい?」
「……なるほど」
エトウは戸頭間の手を見て首を傾げた。
「本気でそれを返してほしいんですね」
「そうなるね」
「でも、持ち出しは厳禁ですよ」
「なら十ニ時間後にまた十二時間買う。それを繰り返すだけだね」
「……正気ですか?」
何故か心配したように聞いてくるエトウに、戸頭間は優しく微笑みかけた。
「あなたよりは正気だと思うよ?」
凄絶な笑みに、空気が張り詰める。
どうしてエトウがここまで粘るのだろう。
不気味なものを感じると同時に、もしかして、と最悪の予感が丹羽の頭をよぎる。
その緊張感を破ったのは、やはり戸頭間だった。
「あ。電話していい?」
その無垢な声に、全員の視線が彼に集まる。
「ほら。二十分。時間だからさー」
「ああ……はい、どうぞ」
「ありがと」
と言いながら、何故かスピーカーでかけはじめた。
「──どないしはったん?」
すぐに出たのは、どう聞いても舟正だ。
丹羽はズレた眼鏡をなおし、エトウは一気に蒼白に、周囲の男たちも身体をビクつかせた。
戸頭間はといえば「間違えちゃったあ」など棒読みしている。
「──なんや、間違えですか? そらさみしいわあ」
「お兄さん、元気? ホテル取ってくれてありがとう」
「──ええよええよ、坊っちゃんのためなら身を粉にして働かせていただきます。ところで、今は?」
「イノセントの地下」
「──あっはっはっは、下手打ったんですか? らしくもない」
「ううん。ほしいのが地下にあるんだけど、貰えなくて、買うことになったんだ」
「──あー……、エトウやろ? あいつホンマに頭かとうて、すんまへん」
「いいよ。僕、虎の威を借る狐は似合わないからさ、ちゃんと買わせてもらうよ」
「──お詫びはさせてもらいます」
「本当? じゃあまた身体貸してね、お兄さんの」
「──坊っちゃんに返さなあかん礼がありすぎて、本当に恐ろしいわ。一体いつ返せるんやろ」
「死ぬまで返せそうにないよねー」
「──ふ。楽しゅうてかなわんわあ」
二人の会話が進むにつれて、エトウが見えぬ手に頭を押さえつけられているかのように下へ向く。
汗が頬を伝っていた。
「──それで? 何が欲しいん?」
「買った奴を、僕の滞在してるホテルに連れて行ってもいい?」
「──ああ」
そういうことか。
丹羽はエトウを見た。白くなった顔で、殺意剥き出しの目で戸頭間を睨んでいる。
どうやら買わせた挙げ句にホテルに滞在させ、その趣向を隠しカメラに収めて強請るつもりだったらしい。
最初は平身低頭に、従順に。
次に弱みを見つけて甘い言葉で選択肢を奪い、退路を塞いで追い込む。
エトウに財産をむしり取られた者は片手では足りないのだろう。普通の金持ちに限った話だが。
「──それなあ……イノセントの施設内でのサービスになるんやわ、坊っちゃん」
ホッとした顔をしたエトウは勝ち誇ったように顔を上げたが、戸頭間の笑んだままエトウに携帯を向けた。
まるで「最後まで聞きなよ」というように。
「──せやけど、今回は特別に許可いたしましょう」
「!」
エトウが今にも携帯に縋りつきそうな勢いで一歩前に出るのを、戸頭間はひょいと上げて躱す。
「──坊っちゃんの頼みなら断れんし……こちらの体面を保ってくださった礼にしては安いくらいやわ。ええな、エトウ」
まるでこちらがすべて見えているように、エトウを呼ぶ舟正の声は地を這うように低い。
「……は、はい」
「──聞こえんわあ。耳が遠なったんやろか」
「はい! 承知しました!」
「──坊っちゃん、これでよろしいですか?」
「うん。また遊ぼうね」
「──坊っちゃんの犬にもよろしく」
丹羽が「聞こえてるぞ」と言えば、舟正は笑った。
「──つい先程、御田さんからも連絡ありましてね。親父は嬉しそうに予定を開けてましたよ。話したいこともあるそうで」
「……はあ」
「──では、坊っちゃん。また」
「またねー」
友人との電話を切るような気軽さで、戸頭間は通話を終えた。
それを投げてよこされる。
「母さんに電話しとかなきゃ、お仕置きされるよ?」
つまり、目野を確保したと連絡しろ、と。
丹羽は周囲を見渡し、少し距離をおいて電話をかける。数コールの後、彼女が気だるげな声で「はい」と囁く。
「……俺だ。金は全部使った。すぐに送金を頼む」
あんた馬鹿なの、と言いそうなところ、彼女は黙っていた。
沈黙の後に、ため息が耳をくすぐる。
「──ああ、そう。わかったわ。止まってるホテルと部屋番号は」
「ルージュ、最上階」
「了解。準備する。明日の朝十時、五千万」
久しぶりの彼女の声は、たった二十秒ほどで向こうから一方的に切られた。
元夫婦なんてこんなもんだ。
丹羽は戸頭間に携帯を返す。
「用意してくれるってよ」
「わあ。本当に母さんは君のことを愛してるねー」
「……そうらしいな」
丹羽は力なく流す。
戸頭間に含まれる意図に取り合っていられるほどの元気はもうない。
屈辱的な顔で牢を開けたエトウは、戸頭間へぎこちなく笑いかけた。
「どちらになさいますか、お客様」
「んー」
それまで置物のように身を寄せ合っていた二人は、途端に身じろいだ。
美しい男と、美しい女。
彼らの顔に絶望が浮かびが、男は女を庇うように前に出た。
「じゃあ、僕は女の方で」
じゃあ、僕は、女の、方で。
戸頭間の物言いに、周囲の視線が丹羽に集まる。
戸頭間は振り返ると、丹羽に向かって「意味わかるよね?」と言わんばかりに無邪気に笑った。
「……俺は残りで」
「──出なさい、ふたりとも」
エトウが歯を食いしばって二人に牢を出るように手で示す。
と、男が出るタイミングで胸元に手をやると、小さなナイフを取り出し、容赦なく振るった。
男の頬をナイフが滑る。
やはり。
エトウは侵入者だと疑っているからこんなにも粘るのだ──条件反射のように丹羽の手にリボルバーの銃口がぬっと出る。
が、戸頭間が視線止めた。
「!」
男の頬に、鮮血が滲んでいる。
──ブルー・レクイエム・ブルー──




