#7
誰も待ってはくれないし、誰かを待つつもりもない。
ただ、身を任せていれば、行き着くところはいつも決まっているのだと知っている。
それを彼女は「逃げている」と言ったが、失礼な話だ。
逃げたのは彼女なのだから。
#7
ニュースは事件を短く報じ、何食わぬ顔でどこかの動物園で何かが生まれたとかなんとか話し始めた。明るい声がバーに不似合いに響き、バーテンダーが無言で音を消す。
鳴がカウンターに頬杖をついた。
「鬼不田組の関係者って──ヤバいところに手を出した奴がいるのね。勇者というか、愚者というか」
「……鳴さん」
「まあ。なあに?」
「それ、俺達だわ」
丹羽がグラスを揺らして言えば、鳴は笑うように口の端を持ち上げた。が、丹羽の様子にそれが冗談ではないと気づいたらしい。バーテンダーを見る。
「――お客さん」
彼の胸にある金色のプレートには「数河の文字を確認し、丹羽は頷く。
「なにかな、数河くん」
「……本当なんですか」
「残念ながら本当。どっちがその鬼不田組の関係者かはわからんがね」
「俺達、とは」
「俺と戸頭間くん。というか、ほとんど戸頭間くん」
丹羽が簡潔に答えると、背後で素知らぬ顔で座っていた紳士たちが一斉に品よくざわついた気配がした。
鳴が「あら……大変」と呟く。丹羽は頷いて数河を見た。
「そうね、大変だ。戸頭間くんに連絡取れるかな」
「……すぐに」
数河が引っ込み、残された鳴は空けていた席を詰めて丹羽の隣に身を寄せるように座った。
「関係者って、構成員かしら。見た目はどうだったの?」
「どちらも二十代そこそこ。十代もいたかもしれないが……パッと見た感じはただの頭の悪い若者だな」
「最悪じゃない」
鳴が笑う。
ふと、丹羽は彼女がどちらなのか気になった。
隣を見ると、にこりと微笑みを返される。
人魚の正体を尋ねたところで答えて貰えそうにはないし、知りたいのかと聞かれれば別にそうでもない。
「……で、何が最悪って?」
丹羽の問いに、鳴はゆっくりと目を細める。
「──鬼不田組はここ最近動きが過激になってたの。理由は2つ。1つ目は、警察の取り締まりの強化。組織として、生き残るためにやり方を変えざるを得ないんでしょうね。で、内部で衝突する。取り締まりなんていい迷惑よ。彼らがいるから守られる平穏もあるというのに。そうは思わない?」
「……まあそうねえ……彼らが薬さえ売らなけりゃ、警察と同じくらい心強い存在だわな」
「力には力でねじ伏せる。太古からの真理よ」
そう言って笑う鳴は、何かを言いたげに丹羽を見つめた。
丹羽は横目で彼女の視線に応えるように小さく笑う。
「……それで鳴さん、2つ目は」
「どこにでもある後継争い」
ああ。
丹羽は納得する。
鬼不田組の関係者と報じられた二十代そこそこの若者が、抗争に巻き込まれた可能性をニュースで報じられる理由など、一つしかない。
女を守るように覆いかぶさる男の姿が脳裏に浮かぶ。
蹴られ続けながらも反撃せずに守り抜いた女に、喉を掻き切られた哀れな男。唯一、鮮やかな血を流した人の男。
「あれが鬼不田の若様ってことか。そりゃあマズイな」
「……戸頭間の若様は絶対に人には手を出さないわ。あなたが手を出したの?」
「いいや」
丹羽はのんびりと否定し、かいつまんで説明する。
一通り聞き終えた鳴は「ふ!」と鼻で笑った。
「嘘でしょう? 馬鹿みたいな偶然じゃない」
「そうね、俺もそう思いたいよ」
「でも一つは幸運かしら。お兄様のほうに連絡を取っているのなら、大事にはならないはずよ」
「……へえ」
「一人だけ混じっていたなんて、不運ね、その子」
不運というか、愚かというか。ヤクザの親は彼に侵入者に気をつけるように言い聞かせてこなかったのだろうか。
どうやら鳴も丹羽と同じことを思ったらしく、カウンターの木目をなぞった。
「みんな忘れちゃったのね」
空が割れた日を、と呟く。
丹羽はグラスを煽ってから同意した。
「……人は現実に順応していくものらしいな」
「そうね。数年は朝なんてとてもじゃないけど出歩けなかったっていうのに……今はみーんな忘れて朝も夜も行動してる」
「海辺でねえ」
「馬鹿だわ」
吐き捨てた彼女の声から何かの憎悪を感じたが、丹羽は見なかったことにした。
そこに、数河が戻って来る。
「武家山さんから連絡してもらいました」
鳴が「ああ、よかった」と心底安堵したように言った。
だが、次の言葉で顔を蒼白にする。
「ですが、もうすでに後を付けられているそうです」
すでに。あとを。
丹羽が頭の中で繰り返している間に、数河は静かな声で──それにしてはどこまでも聞こえるような声で、事のあらましを簡潔に伝えてくれた。
「戸頭間様が出先から車に乗り込んだあとから、どうやら複数の車に尾行され始めたそうです。何度か撒こうとしたが、かなりの人数で追いかけられているとのことで」
「……鬼不田なら構成員はたくさんいるわよ」
「身に覚えがないので遊んでいたそうなのですが、武家山さんからの連絡で相手が鬼不田だとわかったので、戻る、と」
「──戻る?」
丹羽は顔を上げた。
隣の鳴が薄く笑う。
「そう……戻ってくるのね、ここに」
「ええ、ここに。すぐに到着する、と」
数河も笑っている。
ふと、後ろの紳士どもが立ち上がる気配がした。
ちらりと見れば、美しい所作でスーツのジャケットの皺を伸ばし、前を合わせてボタンを止めている。
丹羽は理解した。
「……ここは全員、頭おかしいわけね」
鳴はその言葉に、なぜか嬉しそうに笑った。
「違うわ。頼もしいのよ」
「でも鳴さん」
丹羽はイスを回して全員を見渡した。
「鬼不田組の構成員は、殆どが人じゃねえかな。あなたたち手を出せるの?」
聞けば、誰も彼もが無言になる。
「ま、殺さなきゃいいけどね」
その言葉に、彼らは初めて丹羽を認識したようにジロジロと視線を寄越してきた。
たっぷり時間をかけて集めた視線を誘導するように、丹羽はバーの入口を見る。
「……ほら、帰ってきたぜ」
バーのガラスのドアの向こうに、歩いてくる戸頭間が見える。