#10
どうしても求めてしまう。
夢に見るほど、あの安心感を忘れられない。
無条件に受け入れられる大きな腕の中で、すべて許してほしかった。
名前を、呼んでほしかった。
#10
通された部屋は最上階で、そらそうだろうな、と丹羽は高い天井を仰いだ。
街を一望できる広々とした部屋の中には、いつか栄華を誇った美しさが年代物のように息を潜めている。
「では、失礼しま──」
「あ。待って、支配人」
戸頭間は呼び止めると、丹羽にアタッシュケースを抱えるように目配せをし、中から札束を一つ取り出してみせた。
やたらゆっくりとした動作で札束を半分に分ける。
「お兄さんからは、なんて?」
「……世話になっている坊っちゃんが泊まりに来るから、丁重に扱うようにと」
「ふうん。予約名は、ナナシ、かあ。面白いことするよね、あの人は本当にさあ。そう思わない?」
そう言いながら、戸頭間は札束の半分を彼の胸ポケットにねじ込んだ。
「残りは、帰りね」
そう微笑み、胸をぽんぽんと叩く。
引きつった顔の男は、ぎこちなく頭を下げた。
「そうだ、この辺で安全に遊べるカジノはどこ?」
「……でしたら、イノセント、かと」
「ふうん。今から行くからさ、三十分後にタクシー用意しといてもらえる?」
「かしこまりました」
「よろしくね」
支配人とやらが出ていくのを見守った戸頭間は、さてさて、と部屋を見渡した。
「うん。撤去済みらしいね」
「……舟正が部屋を取ったんならそうだろうな」
「馬鹿だね。だからこそ隠しカメラと盗聴器くらいつけて、脅したり揺さぶったりしなきゃだめじゃんねー」
しないだろうな、と思う。
させないだろう。あの舟正だ。
「まあとりあえず、名前を呼ぶようなミスはしないでよ?」
「そっちもな」
「失礼しちゃうな」
戸頭間は伸びをする。
と、ジャケットを脱ぎ、ソファにかけて腕をまくった。高そうな腕時計が出てくる。ネクタイも緩めると、引き抜いてシャツのボタンを一つ開けながら、ただ立ったままの丹羽を見た。
「そっちは……ジャケットだけでいっか。脱いでね」
「……なんで」
「間違いなく目野はここにいるからさあ、僕の身なりを遠くからでも見られたら、すぐわかるでしょ」
戸頭間はバルコニーを見やると、ガラスの戸を開けて外に出た。
丹羽は煙草を取り出して咥え、戸頭間の横に並ぶ。
自分の煙草に火をつけてから、煙草一本と、彼の兄の遺品を戸頭間に手渡した。銀色のライターを見た戸頭間は、手の中で転がし、美しい所作で火をつける。
紫煙が二つ、風に絡め取られて流れていく。
さすが最上階と言うべきか、街が一望できた。
欲望に脈打つイルミネーション。道路を走る車は、すべてホテルの冠をつけたタクシーだ。
その中でひときわ大きな円形の建物に「INNOCENT」の文字が明滅する。
二人してそれを何気なく見つめる。
「ねえ」
「……んー」
「向こうってどんなとこなの?」
突然そう尋ねてきた横顔を、丹羽はちらりと見下ろした。
純粋な疑問。
ただの時間潰し。
そんな質問だったが、丹羽は初めて「戸頭間カケル」という存在の奇妙さを認識した。
彼は、戸頭間ミツルとハルカの子だ──
「……ああ」
「なにその〝今気づいた〟って感じの反応は」
「今気づいた」
「僕、ちゃんと父さんと母さんの子なんだよねー。あ、兄さん達もね」
「……可能なのか」
侵入者と人の間に、子供。
あんまりにも普通に存在するものだから、丹羽にはその疑問すらなかった。
戸頭間がくすくすと笑う。
「僕が知る限り、他のペアには一人も叶わなかったらしいよ。だから母さんが神聖視されてるってわけ」
「ああ……」
「兄さんと鳴さんの結婚が普通に受け入れられたのも、そのせい」
ライターを撫でてから、戸頭間が丹羽に返してきた。
サトルから預かった、一度も会ったことのない戸頭間イツルの遺品。
なぜこれを持っているのだろう、と今も思うが、持っていなければ落ち着かなくなっているのも事実だった。
「だから僕、ハーフなんだよね」
笑うように言う。
彼の父親が失踪して半年──その横顔に悲壮感は微塵もない。
彼だけが父親を見送り、彼が出て行けと言ったのだが、それについてはどうも思っていないらしい。それでこそハルカの子だが。
丹羽は「へえ、ハーフ」と適当に流した。
「……」
ハーフとやらにしては、持っている力が半端ない気がする。
「だから僕は、丹羽さんの故郷を知らないんだよね。教えてくれない?」
「……別に、聞いて面白い話じゃねえよ」
「えー、いいじゃんか」
「お母さんに聞きなさい」
「ケチ」
「……別に、ここと変わらんよ」
変わらない。
まだ少し上品で、穏やかで、そう見せかけた虚構だった。
次々凶暴化する者を彼らは丁寧に消していたが、それすらも「行儀が良くない」と誰かが言い出して、廃棄することになったのだ。海の上に立たせて、扉を開いて放り込む。
あの時ハルカと殺した者たちは、それを見れなかったわけだが。
「そっか。変わらないんだ」
戸頭間はつまらなそうに感想を口にした。
「そうね、変わらんね。変わらんから──それが許せなかったんだろうよ」
特別である存在が、下等生物たちに追い越されそうになっている。
それを許せるほど、彼らは寛容ではなかった。
より特別へ。
より崇高へ。
より楽園へ。
永遠の、楽園へ。
「──じゃあ、派手に負けにいこうか。間違っても、カジノで出された飲み物は飲まないでね」
戸頭間の声にハッとする。
下にタクシーが用意され、部屋の呼び出し音がなったのだ。
丹羽は最後に思い切り肺に煙を満たした。
ため息とともに吐き出す。
「……はあ」
「本当にね。さっさと帰りたいよね」
部屋に戻った戸頭間は、灰皿にタバコをねじり潰すとアタッシュケースを持ち、丹羽に押し付けた。
「さ、行くよ」
その声は、どこまでも楽しそうだ。




