#6
【協定】
人に加害することを禁ず
従う者は、戸頭間の当主が身を尽くして人から守ることを誓う
共存を守るべき指針とし、生きていく覚悟のないものは 命ないものと思うこと
#6
一週間前にハルカに喧嘩を売り、協定を破棄して逃げ出した「目野」を追いかけ、〝連れ戻す〟か〝殺す〟必要があるというのに、行方を知らない。
それでも、ハンドルを持つ戸頭間に迷いは一片もなかった。
戸頭間は微笑む。
「さあ、考えてみようか。一、追いかけてくるのが僕だと目野は知っている。二、戸頭間家の者は人に手を出せない。三、結婚相手を守る必要がある。四、目野は丹羽さんのことを知らない」
「……そういうことね」
「理解が早くて助かるなあ」
戸頭間が鼻歌を歌い始めた。
──目野は丹羽さんのことを知らない。
丹羽が戸頭間家と協定を結んでいないことは、あのホテルに居る者くらいしか知らないというらしい。
末端の侵入者にまで伝わらないところが〝紳士〟たる所以なのだろう。
丹羽が協定を結ばないことが彼らにあっさり受け入れられたのは「一人は自由に動ける奴がいたほうが都合がいい」と、あの騒動の果てに全員が思い至ることになったからだ。
彼らからすれば、丹羽という存在は「戸頭間家の三男の相棒を務め、汚れ仕事は全部請け負う犬」なのだろう。
「目野はね」
戸頭間が呟く。
「侵入者にしては非力で、あのホテルにも滞在できなかったけど、母さんのお気に入りだったんだ──目野の人っぽいところが好きだったんだと思う。嫉妬深い父さんがいないときに声かけて連れ出して、一緒に喫茶店巡りしたりしてたよ。その目野が自分に逆らった。しかも、そんな気配もなかったのに結婚するって言い出して。だから母さんは、温情をかけてあげたんだ」
聞いているふりをする丹羽は、その目野という奴を思い浮かべようとしたが、全く想像できなかった。
笑えてくる。
自分の夫に死神の鎌を突きつけて見下ろしていたハルカしか頭に浮かばない。そこに、自分の腕に巻き付く彼女の甘い笑みも浮かんだ瞬間、それを消すように目を閉じ、また開いた。
空は、丹羽を嘲笑うかのように澄み切っている。
「どうしても逃げると言うなら、こちらから追わせてもらう。それを全員に通達する。今までの忠義に免じて一週間は待つ。その代わり、追いかけるのは──僕、ってわけ。目野はそれを聞いて、すぐに飛び出したそうだよ」
「……そいつをよく知っているのか」
「うん」
肯定の後、戸頭間が黙る。
いつもならクドクドと喋り倒すはずの戸頭間の沈黙は、雄弁だった。
サイドミラーには、煙草のように細くなった燃えた車の煙が、空に手を伸ばしている。
それに乗っていた者がどんな顔をしていたのか、丹羽の記憶にはもうない。
走る海岸線。
ひたすらに穏やかな道。
近しい者を殺すためのドライブ。
顔を見れば殺したかどうかわかる、と言っていたサトルを思い出す。
人を連れた侵入者が、追われて逃げる場所は一つしかない。
人が住まう地域だ。
戸頭間が運転する車が海から離れるのを、丹羽はぼんやりと見つめた。
自分を息を潜めていた繁華街。
鬼不田の金融事務所。
ワンボックスカーを止めた駐車場。
あの、しみったれた欲望を吸い上げて健全な顔をする、首都。
そのなかで男と女は身を寄せ合って逃げ続けるのだろうか。
まるで、あの頃の自分とハルカのように。
ふいに、瞼が重くなった。
●
「ねえ、大丈夫?」
男は肩を揺らされ、目を覚ました。
見覚えのない部屋を見渡す。
「……ここは」
「ごめんね、こんな安っぽいところで」
やたら扇情的な部屋の中は明かりが落としてある。
ガラス張りのシャワールームが見え、ベッドサイドのランプが淡く光っていた。
「こういうところしか泊まらせてくれなかったの」
「……っう」
ずきんとした痛みに、男は腹部を押さえる。
女は悲しそうに声を潜めた。
「変な人に絡まれても、無視しないと」
「君の腕を取ったから」
「……ねえ、本当に逃げるられるの?」
女の柔らかな手が、肩をそっと撫でる。
男は俯いたまま、頷いた。
「絶対に逃げきる」
「……どうしてそこまで」
「君を愛してるから」
それは熱烈な愛の告白のようにも、独りよがりの執着心のようにも聞こえる。
それでも、女は嬉しそうに男の頭を抱き寄せた。
「ありがとう。私のために」
「……君は?」
聞かれた女は、優しく微笑むと男のシャツのボタンに手をかけた。素肌にその手を這わせ、キスとともに囁く。
「私も、愛してるわ」
●
「丹羽さん」
肩を押され、丹羽は目を覚ました。
緩慢にゆっくりと頭を振る。
「……あー、寝てたか……」
「そりゃもうぐっすり。死んだかと思うくらいにね。何度か確認したよ。溶けてないかって」
「……そりゃ手間かけたな」
そう言いながら、眼鏡のない顔を手で覆う。
と、手の隙間から、ふと周囲が闇に包まれていることに気づいた。フロントガラスの向こうには、煌々と光るコンビニらしきものが見える。
その前にぎっしり並ぶ車と、大型車。戸頭間が開けたドアからは、離れた場所で絶え間なく風を切るような音が聞こえた。
嫌な予感に、丹羽は両手で顔を覆う。
「……戸頭間くん」
「うん。そう」
「まだ聞いてないが」
「高速のサービスエリアだよー」
正解を勝手に知らせてきた天使は「さっさと下りてよね」とドアを閉める。
丹羽はのろのろとシートから身体を起こすと、シートベルトを外して外に出た。
ここがどこなのかわからないまま、ただ戸頭間の後ろをついていく。
丹羽は黒く塗りつぶされた空を見た。
どこまで来たのだろう。




