#4
愛していると囁くときに満たされるこの心は、誰を愛しているのかと静かに問いかけてくる。
わからない。
そういえば誰を愛していたのだろう。
#4
「協定を破棄して逃走した?」
丹羽の声が懐疑的なのは、そんな馬鹿をする者がいるはずがない、というある種の信頼からくるものだった。
その事に気づき、こうなって二年半以上、かなり毒されてきた実感が押し寄せた。思わず、ため息を吐く。
「うん。そういうこと」
軽々と言う戸頭間は、昼間のぬるい潮風に髪を押さえながら、エントランスに前に回される車を見つめていた。
黒いクラッシクカー。
戸頭間の相棒でもある〝彼女〟は、ピカピカに輝きながら自分の主の前に停まる。と、その後ろに一台車が滑り込んできた。
「あれ」
戸頭間が声を上げる。
丹羽も、その車に見覚えがあった。
運転手の顔が見える。
井田口だ。
「兄さん」
助手席から降りてきた男は、生真面目な顔にしては中々のスーツ姿で出てきた。
「今日はワインレッドにダークブルーのベスト、黒ネクタイかあ……うーん、僕は着れないやつ」
「カケル」
「それでも似合うから、なんか怖いよね。そう思わない? 丹羽さん」
「今日はおとなしい方だろ」
「確かに」
「カケル」
目の前に立ったサトルは、無表情で戸頭間を見下ろした。
「今から発つのか?」
「だって早ければ早いほど面倒くさくならないじゃない?」
「ほう。いい心がけだ」
「……もしかして、僕がすぐ出ないと思って引きずり出しにきたわけ?」
「まあな。それから──」
車を降りた井田口が、ボストンバッグをドアマンに渡した。
戸頭間と丹羽はそれをまじまじと見る。
「あの荷物、何?」
「お前の不在の間、ここは俺が預かることとなった」
「うっそ」
戸頭間が絶句する。
対するサトルはいつもの表情のまま、至極真面目に丹羽に言い放った。
「俺は嘘は吐かん」
「……いや、知ってるが……お前、仕事は」
「消化せねばならぬ休みだ、丹羽一美。カケルの面倒を頼んだぞ。間違っても人に加害しないように見張るか、先にお前が殺せ」
丹羽は思わず頭を抱えた。なるほど、言いたいことはわかった。
「聞くが」
「ああ、なんだ」
「お前の休みは何日だ?」
「五日だ。さっさと行け」
「──兄さん?」
戸頭間が呟く。
「僕を五年閉じ込めたホテルに五日滞在するのはいいけど、ここ、僕のだからね?」
「取り返したいのならさっさと帰ってくればいいだけの話だろう?」
「……僕の部屋使わないでよ」
「何を言っている」
サトルが口元だけで笑う。
「弟のものは兄のものだ。よって、あの部屋は俺が使う」
「内装変えたら許さないから」
「悪趣味な部屋ではないことを祈る。井田口、俺の留守の間、対策課を頼む」
話を強引に打ち切った兄を見る戸頭間を一瞥した井田口は、サトルに一礼すると丹羽を見た。
「じゃあね、丹羽くん」
「……ああ」
ほぼため息で返す。なぜ戸頭間を煽って帰るのか、井田口はご機嫌に車に乗り込んで行った。
「そういうわけだ。五日の間に目野を連れて帰るか、殺せ」
「どうやって殺した証明するわけ?」
戸頭間が苛立たしげに微笑むと、サトルはそれを上回る笑みで答えた。
「お前の顔を見ればわかる。もしくは、あいつの結婚指輪でも持ってこい」
「……なるほどね。わかった。行くよ、丹羽さん」
「丹羽一美」
サトルに呼び止められ、振り向く。
「頼んだぞ」
「……いや、何を頼まれてるのか全然わからないんですけど」
丹羽は軽く返すと、呆れるサトルの視線から逃れるように車に乗り込んだ。
戸頭間の丁寧な運転で車が走り出す。
あの顔。
相当面倒なことを、戸頭間はハルカから命じられたらしい。
丹羽は間抜けな動きで車の窓を開けると、戸頭間がつけるラジオに耳を済ませた。
『──沿岸地域の自主避難がようやく解除になりましたね……! いやあ、本当に、長かったですよ。ねえ、ええ。本当に。あれから何年でしたっけ? 十五年。十五年かあ……長いですよね、十五年は。沿岸警備は続けるそうですが、最近はめっきり空が割れることもなくなって、本当、怖い犯罪は減りましたものね。むしろ以前より犯罪係数は減ったっていう統計もでていて、あの日以降、人類はより強い結び付きで平和への道へ進み始めたのかもしれませんね!』
「だってさ」
戸頭間が鼻で笑う。
「彼らは結局変わらなかったよね。普通に生活に戻ると、全部元通り。まあ、確かに忍んで入ってくる侵入者が凶悪犯罪の殆どを起こして入るんだけど──でも、このラジオからたった二十五年だよ? それ以前にも侵入者は来ていて気づかなかったし、彼らって鈍感なのかなあ」
どうやら相当苛立っているらしい。
これほどまでに彼を刺激するのは何なのだろう。
丹羽はぼんやりと海岸沿いの景色を見つめる。
愚かな彼らは、しかしまだ海には近づかない。本能的な忌避なのだろう。
渋滞を知らぬ遠くまで見渡せる道路を、この世に二人きりになったように進んでいく。
青く輝く海。
ハルカがいれば、静止する海。
「戸頭間くん」
丹羽はいつもの調子で意識を逸らす。
「それで、いつになったらこうなった経緯を説明してくれるのかな」
「あ。聞きたい感じ?」
「そりゃそうだろうよ」
「仕方ないなあ」
途端にご機嫌になる彼の横顔をちらりと見る。
そのガラス玉のような澄んだ目に、得も言われぬ悲しみの色が一瞬だけ浮かんでいたのを、丹羽は確かに見た。
『──さあ、今日も無事に夜を迎えられたことを感謝しましょう。我々の安寧はあと数時間しかありませんが──それでも、誰も侵入してこないことは安らぎに違いありません……最後の一曲を流しますね。朝が来るまで繰り返しかけます。明日の夜、またあなた方に会えることを願って──では、どうぞ──ブルー・レクイエム・ブルー』




