#1
いっそ消えてしまえばよかったと、そう思えたらどれだけ楽だっただろう。
記憶が蝕む現実を一つずつ飲み込んで、そうやって生きていくしかないことを知ってしまった。
もうどこにも逃げ場はない。
もうどこにも行けやしない。
#1
潮風の中で目を覚ますと、丹羽は決まってある場面を思い浮かべる。
毎度のごとく、それにうんざりしながら起き上がるのだ。
開け放たれたガラスを忌々しく睨めば、バルコニーに所狭しと置かれた観葉植物がゆったりと揺れながら自分を笑っているような気がした。
──一美。
──ねえ、私達向こうで死ぬのかしら。
妻がそう言った。
立たされた海の上。足元で開きそうな扉。
初めて廃棄されるのを見に来た観客が、遠くからこちらを見ている。
──一美。
向こうに行っても一緒にいてくれる?
丹羽は何も言わず、彼女のつむじに唇を寄せた。
幸福に微笑む。
──一美。
──ねえ、ここにいる奴らを、みんな殺しましょうよ。
丹羽は答える。
ああ、それは面白いな、と。
「丹羽さーん? 起きたー?」
明るい声とともに、ひょこっと寝室に顔を出してきた戸頭間は、いつものようにネクタイを結びながら入ってきた。
「……今日、なんかあるんですかね」
一応聞いておく。
予定などないも同然の日々のはずだが、念の為、だ。
いつもは「ないよ」と言うところだが、今日の戸頭間の返答は違った。
「うん。今日は集会がねー」
「集、会」
「そ。戸頭間家の定例会」
「……」
「いや、丹羽さんは来なくていいんだけどね。協定には入ってない野良だし」
「じゃあなんで起こすのかな?」
「え?」
戸頭間は鏡でネクタイの微調整をすると、丹羽に向かってニッコリと笑った。
「嫌がらせに決まってるじゃない」
「……ああ、そうですか」
「はいはい、起きて」
嫌がらせなら寝直そう、としたところで、戸頭間からバスンとベッドを殴られる。
見てみれば、彼の手に金属バットがぬるりと戻るところだった。
「今日はここの人間が半分以下になるからさあ、ちゃんと丹羽さんが守ってよね」
「何かあったのか」
白髪を掻き上げながら身を起こすと、丹羽はベッドサイドから眼鏡を取ってかける。
「んー、何かあったかもしれないね」
「曖昧だな」
「母さんの呼び出しだしね」
丹羽は「ああ」と軽く相槌を打ったが、戸頭間は意味深に見下ろしてくるばかりだ。せめて「本当に兄妹なんだよね」とか適当に問い詰めてくれればいいものを、彼はただ静観している。
丹羽が使うもう一つの力に関してもそうだった。絶対に聞いてこない。
それが聡さなのか、それともいたぶっているのかは判断がつかないままだ。
「それで?」
こうして、丹羽が沈黙に耐えられずに話題を変える、ということを繰り返している。
「俺はここでお守りをすればいいわけね」
「そ。お願いね。万が一奇襲されても、丹羽さんがいればどうにかなるでしょ。シェルターもあるし」
「……聞いていいか」
「ん?」
「武家山さんは」
「いないよ」
「数河くんは」
「いないよ」
「夜津兄弟は」
「いませーん」
「……いるのは」
「フロントだけ」
フロント。
丹羽は今度は頭を抱えた。
「うん、出せるのはせいぜいナイフくらいの子たちだけ。というわけで、このホテルの命運は丹羽さんにかかっているのでありました」
戸頭間は「めでたし、めでたし」と話を締めくくる。
そうして、バルコニーに出た。
背中が、誰かと重なる。
長い黒髪。黒いワンピース。
まだ自分の「妻」だったときの、彼女。
「大丈夫、大丈夫」
そう笑う背中は、楽しげだ。
「半年前、僕が起きて二週間後、ショッピングモールで残党狩りしたじゃない?」
「……ああ」
丹羽はベッドサイドの煙草の箱を取る。トントンと手の甲に打ち付けて出てきた一本を咥えながら、ライターで火をつけた。
銀の蓋を閉める前、炎は一瞬だけぐにゃりと曲がる。悪戯をした本人は、こちらを向いて柵に腕を置き、空を見上げた。
「で──あの後から、どうやら新しい侵入者は廃棄されてないみたいなんだよねえ。どう思う?」
「……戸頭間くんが感知できてないなら、そうなんだろう」
「いや、僕の感知も万能じゃないからさ。気付かないことだって多いよ。それにしても静かすぎて不気味じゃない?」
丹羽は黙った。
自分は誰がいつどこに廃棄されようがどうでもいい。
見透かしたように戸頭間が笑う。
「うーん、あの日、屋上から中に戻るとき、感じたんだけどなあ」
「なにを」
「大量の侵入者の気配」
戸頭間が白い鳥を追いかけるように頭を動かす様を、煙を吐いた丹羽も視線で追いかける。
「でも、あれから何も起こってないでしょ」
「……ああ」
「気のせいだったのかな」
「さあな」
「ふ」
戸頭間は笑うと、スーツのシワを伸ばしながら部屋に戻ってきた。
「そうだね。わかんないよね。なんでも起きてみないと、さあ」
「状況が変わったら対処する。それで十分だろ」
丹羽の言葉に、戸頭間が笑った。
そのまま見下ろし、手を伸ばす。
「一口頂戴」
「やだよ。新しいの吸え」
「わがままだなあ」
そう言いながら、戸頭間は丹羽の煙草の箱を取り上げた。
「僕が帰ってくるまで禁煙しといてね」
戸頭間は「武家山さん行くよ」と声をかけながら、部屋を出て行った。
丹羽は最後の一本になってしまった煙草を咥えながらバルコニーに出る。
空は青く、海は停止していない。
ホテルの前には黒塗りの車が何台も止まり、そこに夜津が、狐刀が、数河が乗り込んでは出ていった。
──武家山を従えた戸頭間が、出ていく。
煙草は短くなっていた。




