#51
平和という言葉は、争いがあるから存在する。
生きている限り争いから逃げることはできない。
人も、侵入者も。
#51
「悪いな──忙しいから切る、だとよ」
そう言って携帯を返せば、井田口はさっとそれを奪うように取った。
盆を持った瀬世が縁側に正座をし、声をかけてくる。
「おまたせしました。お茶をどうぞ。タクシーはこちらで手配していいでしょうか?」
「いや、結構」
井田口が即答する。
丹羽は井田口の肩を叩くと、縁側に座った。湯呑みを瀬世から受け取る。
「あ、ありがとうございます」
瀬世が礼を言う。
それを見た井田口は、仕方なさそうに立ったまま湯呑みを受け取った。受け取らなかった場合、瀬世が〝客をもてなさずに帰した〟と思われかねないことを察したらしい。
瀬世は律儀にも井田口にもしっかりと頭を下げた。
「ご迷惑を、おかけしました」
井田口は茶を飲むことでノーコメントを貫く。
丹羽はじっと湯呑みを見て、それから瀬世を見た。
気弱そうな男だ。戸頭間が狩るのをやめたのはこれに何かを見出したかららしいが、今となってはややこしい事に発展した。それを知らずに、彼は今スヤスヤと寝ている。
そう思うと、丹羽はおかしくなった。
全て──本当に全て、繋がっていたのだ。
「? あの……」
一人自嘲する丹羽を不思議そうに見た瀬世に、丹羽は優しく笑う。
「事が片付くまでは絶対にここから出ない方が良い。狐刀もそのつもりだろう」
「──ええ」
廊下の奥からぬっと出てきた狐刀が、丹羽を見下ろす。
「ですので、協定の者としての呼び出しには応じられません、と戸頭間くんにお伝え下さい」
「ああ。わかった」
「彼は今どちらに?」
見定める目をした狐刀を、丹羽は無表情に見上げた。
「本家とやらだよ。武家山さんに四六時中監視されているらしい」
「なんて羨ましい」
本気で大きく頷いた狐刀は、一人で何度も頷いた。
「では早く片付けてくださいね。ほら、タクシーが来ましたよ」
さっさと帰れとばかりに狐刀が手を降る。
井田口が足早に大仰な門に向かうのを、丹羽はゆっくりと追いかけた。門の外にタクシーが停まっており、井田口が乗り込む。
何気なく振り返ると、縁側にはもう誰いなかった。
視線を感じたのはその奥の和室で、そこに立つ新正が、小さく会釈をし、去っていく。
丹羽は心に鉛が沈むような重い心地になりながら、鬼不田をあとにした。
◯
「嫌だわ。何よその格好」
廃ビルに戻り、最上階の部屋に戻ってすぐ、ソファに座っていたハルカが小さく笑った。
部屋にたどり着くまでにある複数の監視カメラで見ていたはずだというのに、笑わずにはいられないと言わんばかりに口元を抑える。
「……」
丹羽が黙ってカツラを取ってソファに放り投げると、最後に「ふふ」とだけ笑って丹羽を見た。
「若い頃の紫さんの写真も見せてもらったことがあるけど……あなた、そっくりよ」
「それはどうも」
「井田口は?」
「ここに入る直前に釣れたのが人だってもんで、仕方なく連行したよ」
侵入者であれば処理は簡単だというのに、それが人であった途端に色々と面倒なことになる。
取りあえずは襲われかけた丹羽が適当に殴り、赤い血か青いゲルかで判断し、血が赤かった場合は井田口が警察手帳を出して連行する。いつもなら人はハズレだが、今日は違う。
井田口がいなくて助かった。
丹羽はハルカの様子をさり気なく見るが、サトルから聞いている気配はない。
「春賀」
「……ちょっと、名前を呼ぶなって言ったでしょう?」
「早く帰れ」
ハルカは怪訝な顔で見上げてくる。
「何よ」
「いいから」
その時、二人の間に着信音が割って入った。
ハルカがクラッチバッグを見る。
嫌な予感がした。
それは当たったらしく、携帯を出したハルカは「サトルからだわ」とその電話を取ってしまった。
丹羽は目を伏せる。
「──はい。どうしたの。いえ、まだあなたの遊び場にいるわ。今丹羽さんが一人で戻ってきたところよ──何。何なの。言いなさい」
声が徐々に険しくなる。
「家に帰るなら一緒にって──理由を言いなさい。私は子供じゃないのよ。息子に付き添いをしてもらわなくても一人で帰れるわ。聞いてるの? サトル」
沈んだ錘が徐々にせり上がってくるような猛烈な吐き気と目眩の気配に、眉間を抑える。
これはもうサトルは黙っていられないだろう。
沈黙が重く垂れ込む。
時間にして数分だろうが、これほどまでに時間が長く感じたことはなかった。
ハルカぽつりと呟く。
「──ええ。話は聞いておく。すぐにあなたも来なさい」
丹羽は詰まっていた息を吐きだした。
ハルカが立ち上がる気配がする。目の前まで来た彼女を見ることができない。
「本当なの?」
「……」
「なぜそう思ったの」
「……」
「一美」
昔のように呼ばれ、丹羽がのろのろとハルカと視線を合わせれば、彼女の静かな怒りが見えた。
戸惑ってもいなければ、絶望もしていないし、悲しんでもいない。
丹羽がよく知る目だ。自分を一つも疑わない、澄んだ怒りの目。
彼女の目に吸い込まれていく感覚の中で、いくつもの声が頭に刺さるように鳴り響く。
──瀬世が狙われるということは、瀬世がそいつが知られたらまずいことを知っているということ
──鬼不田の屋敷の中にいる限りは手を出してこないのですが
──彼は〝戸頭間家〟の協定を結んだ者に甘いことを囁いていたそうで
──彼は言っていました。
──可哀想な男は、妻が元夫をまだ愛しているのではないかと、いつも怯えている、と
──自分を匿ってくれた男の絶望を少しだけ楽にしてやるのだ、と
「戸頭間ミツルだ」
丹羽は自分の声をどこか遠くで聞いていた。
「景と紫を匿っていたのは──戸頭間ミツル。君の夫だよ」




