#5
沈む瞬間を知っているか。
そう聞かれたことがあったことを思い出す。
どうしてそれを思い出しているのかわからないが、あの時なんて答えたのかは覚えている。
知ってるよ。母親の腹に戻るみたいに、引っ張られていくやつだろ。
彼は笑った。
お前は人の子じゃないだろう、と。
♯5
誰かの話し声で目を覚ます。
丹羽の頭は、ここしばらく感じたことないほどすっきりとしていた。瞼はまだ上がらない。身体の疲労感は、やはり年のせいか抜けづらい。それでも、思考がクリアになっているのを感じると、何故か若返ったような充足感があった。
頬に潮風が当たる。
あたたかな太陽の気配もする。
ゴミ臭くもなければ、べたつく汗の不快感もない。
ベッドの上で清潔なシーツの香りを吸い込み、誰かの名前を口走りそうになったとき、丹羽の脳裏にパッと無邪気な青年の顔が浮かんだ。
「……」
自分の顔を両手で覆う。
眉間を揉んでからゆっくりと目を開けると、真っ白な天井に揺れるカーテンの影が映っていた。
それを追いかけるように、視線が開け放たれたバルコニーに向かう。広々としているであろうそこは、観葉植物が所狭しと置かれ、よくわからない緑が競い合うようにひしめいていた。
空は青い。
――朝だ。
「丹羽さん」
不吉な声に、自然と丹羽の口角が上がる。
声のした方を見ると、戸頭間が同じように屈折した笑みを浮かべていた。
グレーのシャツにブラウンのベスト、首にはグリーンのネクタイを掛けたままの姿で、支度中らしい。
「よかった。起きてくれた?」
「……戸頭間くん」
起きてくれた? と言っているが、確実に起こす気だったし、何だったら彼はわざとうるさくしていたような気がする。
丹羽は頭を掻いた。が、指通りに驚く。髪がやけにさらさらしているのだ。
「やっぱり覚えてないかー。昨日の朝、部屋に入って寝ようとするのを蹴飛ばしてお風呂に入れたんだけどさあ」
戸頭間は淡いグリーンのネクタイを結びながら、壁掛けの鏡越しに丹羽を見る。
「溺れて死にそうだったよ」
「……楽しそうだね」
「楽しいって言うか、面白かったかな? 服を着たまま沈むんだもん」
無邪気な戸頭間の言葉に、丹羽はゆっくりと起きあがった。身体が軽い。
「丹羽さん。着替え、そこあるから着てね」
「……あれは何かな」
「そうだよねー。オーダーじゃないのがちょっと許せないけど、それでもサイズが違う訳じゃないと思うから、まあ着てみて」
「……俺の服は」
「服? びっしょびしょになったから捨ててもらったけど?」
当然と言わんばかりに戸頭間が言う。
丹羽が見ているのは、壁に掛けられたどう見ても高そうなスーツ一式だ。白いシャツにグレーのネクタイ、黒いベストにジャケット、スラックス。フル装備だな、と思いながら床を見れば、ピカピカの黒い革靴まで置かれてあった。
「ところで戸頭間くん」
「なに?」
「風呂で死にかけた俺を君が介護してくれたりしたのかな」
丹羽が聞くと、ネクタイの微調整をしながら戸頭間は笑い飛ばした。
「まさか! この部屋のルームスタッフの武家山さんに救助してもらったよ。間に合ってよかったねー」
介護ではなく、救助。
どうやら浴槽で溺れる自分を見下ろしながら、戸頭間はただスタッフを呼んだらしい。丹羽は思わず笑った。
「あっそ」
「うん。じゃあ、僕少し用事があって出てくるけど――丹羽さんはここでおとなしくしててね。ホテルから出ないことを忠告するよ」
「はいはい、気をつけて」
何を聞いても無駄だと思った丹羽がひらりと手を振ると、戸頭間は一瞬驚いたように目を丸くして、それから何も言わずに出て行った。
ずいぶん離れたところで扉が静かに閉まったような気がする。
静かになったことを確認し、丹羽は両手を広げながらベッドに倒れた。
ぼすんと沈み、清潔な香りに包まれる。皮肉に笑う目は、もう一度閉じてから、ゴロリと転がるようにベッドを降りた――というか、落ちた。
頭を掻きながら、仕方なく壁に掛かったシャツに手を伸ばす。
「――丹羽様でございますね? おはようございます。お食事はお部屋にお運びいたしますので、メニューから……」
丹羽が寝室らしい場所からでると、背筋の伸びたスタッフらしき女性が部屋の中にいた。
彼女は一重の目元をぴくりとも動かさずに、丹羽を頭から足までじっと見る。
ゆるく着たシャツに、スラックスに、裸足。
物言わなさそうな冷静な仮面の表情に、丹羽は確かに「だらしねぇおっさんだな」という彼女の本心を見た。
丸いおでこで切りそろえた短い前髪に、ポニーテール。見たところ二十台には入り立てのお嬢さんだが、いかんせんこのホテルの従業員ならば「普通」ではないだろう。
「――眼鏡知らない?」
丹羽は彼女のことには触れずに、きょろきょろと部屋を見渡す。
ワンフロアを贅沢に使っているような清潔感のある部屋の中は広々としていて、重厚な家具に囲まれていた。戸頭間の趣味だな、と丹羽は納得する。
「……眼鏡でしたら、そちらの棚に」
「?」
「そこです」
「ああ――どうも。すまないね」
彼女が指さした棚に、眼鏡が二つ。
新品のそれと、丹羽が持っていた曇ってヒビも入った眼鏡。丹羽は迷わず自分の眼鏡を手にして掛けた。
彼女の「まじかよ」と言いたげな目に向かってへらりと笑えば、彼女の目が鋭くなる。丹羽はそれには気づかぬ振りをしてやった。
「昼食はいらない。ええと」
「武家山と申します。この部屋のルームスタッフです。ご入り用の際はお呼びください」
「そう。わかった……って、ぶけやま、さん?」
丹羽が思わず振り返ると、彼女の胸元には金色のプレートに「武家山」としっかり名前が刻まれていた。
「はい、武家山でございます」
「……昨夜、世話になったと聞いたんだが」
この華奢なお嬢さんに救助してもらったのかと確認をすれば、武家山は軽く頷いた。
「ええ。引き上げさせていただきました。意識がないようでしたので死なない程度に一発だけ殴らせていただきましたら、後はご自分で全てなさっていましたよ」
「あー、そう」
丹羽は顎に触れて苦笑する。
この武家山も、どうやら戸頭間側の者らしい。ここが安全な城だいうのは本当だろう。
いつの間にこんなものを。
丹羽は海を眺めたが、誰も答えてくれはしない。
海は静かに鳴いている。




