#27
空は黄色く霞み、ミツバチが飛ぶ頃。
目前の山が燃え、振り返ると山が2つ噴火している夢を見た。
あれが何だったのか、わからない。
けれど、あれが予感だと言うなら、そういうことだったのだろう。
#27
「おかえりなさいませ、戸頭間様」
ドアマンが城の主を笑顔で出迎える。
戸頭間はすぐに車のキーを渡しながら「ただいま。お願いね」と愛想よく笑んだ。
「かしこまりました──丹羽様、おかえりなさいませ」
「……どうもご苦労さん」
未だになんて返すのが正解なのかわからないが、彼はいつも丹羽の姿を微笑ましげに見送る。その視線を避けながらロビーに入ると、働いている従業員が一様に足を止めた。
荷物を運ぶベルボーイも、ラウンジにコーヒーを運ぶ従業員も、そこで新聞を読んで寛いでいる滞在客も、入ってきた戸頭間を見ると、一度頷くように頭を下げた。
そうしてまた日常に戻ったように動き出す。
「……ああ、そうね……うん」
丹羽は思わず呟いた。
今までそれがおかしいとは思っていたが、その理由は考えないようにしていたし、できればこの先も触れたくなかった。とてつもなく面倒くさい話題になるとわかっていたからだ。理由を知った今、腑に落ちるなんてものじゃない。
フロントの従業員が、戸頭間へにこりと笑う。
「おかえりなさいませ、戸頭間様」
「うん。どうかした?」
「お客様がお待ちです。バーにお通ししております」
「わかった。ありがとう」
仕事を終えた彼女は、恭しく頭を下げ、それから丹羽へ華やかに微笑む。
「おかえりなさいませ……丹羽様」
「はい、どうも」
そうとしか言いようがないが、彼女はそれを受け取ると更に笑みを深め、どこか艷やかな動きで頭を下げた。
すぐに逃げてきた丹羽を、戸頭間が背中で笑う。
「狙われてるねー、丹羽さん」
「やめてくれ」
「ふふ。そうだったそうだった。丹羽さんは兄さんと鳴さんを取り合ってる最中だったっけ」
「……」
否定するのも疲れてため息で返せば、無邪気を装った天使は肩を揺らした。
やたら豪華なエレベーターに乗り込み、最上階のひとつ下へ。
扉が開いた先の廊下を歩けば、バーの入口の屈強な警備が戸頭間を見て頭を下げた。
「おかえりなさいませ」
「ただいま。客が来てるって?」
「ええ。カウンターでお待ちです──どうぞ」
ガラスのドアを開けてくれるが、丹羽は毎回「よく割れないもんだな」と感心してしまう。数河が小さく見えるほどの筋骨隆々とした男は丹羽を見ると軽い会釈をくれた。丹羽も同じように返す。正直、彼の温度感がちょうどいい。
バーに一歩入ると、微かなピアノの音色が聞こえてきた。
珍しく往年のバラードを弾いているらしい。
「なんだっけ」
戸頭間が視線で振り返るので、丹羽は答える。
「不機嫌なバラード」
「ああ……」
思い出すように戸頭間が口ずさむ。
”私はさみしい
とてつもなく さみしい
孤独じゃないの さみしいのよ
ただ夢を見て
あなたに会って 満たされたいだけなの”
「──孤独じゃないのにさみしいって、僕にはわかんないな。丹羽さんわかる?」
「ただそういう気分なんだろ」
「なにそれ。真理じゃない?」
軽口を叩きながらカウンターを見ると、そこに見慣れた二人が座っているのが見えた。
「早かったねー」
「こんにちは、坊っちゃん」
カウンターにいた舟正がゆるく手を挙げる。
「ちょっと都合がついてなあ」
「女に振られただけですよ」
隣の狐刀が鼻で笑いながらオレンジジュースを飲む。
彼は下戸らしく「ビタミン補給にちょうどいい」と必ずオレンジジュースを頼む。グラスを置くと、わざとらしく右手を高く上げて丹羽に手を振った。
あれから三ヶ月かけて修復した腕を。
「おやおや、今日も機嫌の悪そうな顔をしていますね」
「……そっちもな」
「失礼ですね。見てくださいよ、この紳士的なスマイルを」
「狐刀さん糸目なだけやないですかぁ?」
舟正がからからと笑う。
それで、と舟正は丹羽のアタッシュケースを見た。
「今日の戦利品はそれなん?」
「ああ。頼む」
「はいはい」
舟正は慣れたようにカウンターを離れ、丹羽からアタッシュケースを受け取ろうとした。
止めたのは戸頭間だ。舟正の肩をぽんと叩く。
「ごめんねー、お兄さん。他のは燃やせても、どうしても靴とアクセサリーと電子機器類はね」
燃やすのに時間がかかって面倒くさいという理由で、戸頭間はあれからずっと舟正に処分を押し付けていた。
ホテルに持ち帰ってゴミに出せばいい、と言っても「うん。だからゴミに出すんだよ」と笑って言うのだ。
戸頭間は舟正を気に入ったのだろう。
使いやすい人間にひたすら「借り」とやらを返させている。
丹羽が呆れたように戸頭間を見ると、舟正は丹羽からアタッシュケーシュを受け取って戸頭間を見下ろした。
「ふ。ええよ。坊っちゃんの頼みなら」
「嬉しいな。兄ができたみたいで」
「いややわ、坊っちゃんの兄なんて、そんな大役務まらんわ」
「そんなことないよ。弟のために生きるだけでいいんだから。簡単でしょ?」
戸頭間がにこりと笑う。
毎回飽きずにこうしてやり合っているし、顔を見たら始めるのでただのルーティーンに近い。ただ眺めているだけの丹羽には何が楽しいのかわからないが、当人たちは生き生きとしている。
「さて。丹羽さんが呆れてるし、この辺にしとこうかな」
「本当やな。もう少しバリエーション増やそか」
「ピリピリ感がいるのかもねー」
「なるほど、なるほど」
「……」
別にどうでもいい、と顔に書いた丹羽を見て、舟正がほんの少し笑った。
「じゃあ坊っちゃん、また」
「あれ。狐刀さん連れて行かないの?」
「今日はここで解散ですよ。舟正のナンパまで付き合えませんので」
狐刀が朗らかに答える。
「そういうわけなんで、失礼します」
「頑張ってねー」
「丹羽さんも。また」
「……お疲れさん」
丹羽とすれ違う寸前に、戸頭間の隙を見て舟正が顔を寄せ、低く囁いた。
「──親父から伝言です。”かずみさん、そのうち顔を見せてください”と。伝えましたよ」
ああ。
丹羽はまた首を撫でる。
本当にどいつもこいつも、嫌な予感を連れてくる。




