#62
〝さよなら セレナーデ
あなたの愛に 感謝を捧ぐ〟
#62
ここからは出ていく。
そう言う紫の顔は、落ち着き払っている。
そうか、と丹羽が呟けば、紫はにこっと笑って頷いた。
「私たちでいいのかと思ったけど、みんな賛成してくれたらしくて」
賛成させた、の間違いだろう。
「はるちゃんのところの子たちは、みんないい子だね」
「……」
賛同できない。
丹羽は、ハルカの頼み事に納得した顔をしている紫と景を見た。
この一年、二人はよくハルカのもとを訪れていたし、その泰然たる姿に自然と人が集まっていたことも、丹羽はハルカから聞いてた。
──さすがよね。あの二人がいると、周りがほっとするの。わかるのよ。大きな力の下にいることがどれほど本能を休ませてくれるのか。全員が懐いてるってちょっと異常だけどね。
電話の向こうでそう言いながらも、彼女が二人を愛しているのが伝わってきた。
その愛が二人を守ってきたのだろうし、彼らの資質がどれだけ稀有であるかも、丹羽自身もよくわかっている。
一年。たった一年で、減ったフロントが補充されたこのホテルでも、二人はまるで昔からいるかのように寛ぎ、誰の反発心も招かなかった。それどころか、方々から声をかけられ、和やかな話をしているところも何度も見た。
紫ならまだしも、景までもが見たこともないほどフランクに接しているところを見るたびに、戸頭間から「少しは見習ったら?」とからかわれたのも記憶に新しい。
何より、戸頭間は二人を本当の兄以上に慕っていた。
「やだなー。ここで毎日会えなくなっちゃうなんてさー」
「いい加減離れろよ……」
「えー。だって丹羽さんはさせてくれないんだもの。似てるけーちゃんで遊ぶと面白くって」
「だと思ってたよ!」
景からペルプを受け取った紫が困ったように笑えば、戸頭間は仕方なさそうに離れた。
景の腕をとんとんと叩く。
「臨時首都、よろしくね。本当は向かわせるのは嫌だけどさ」
「……俺だってやだわ」
「あ。やっぱり? 僕が可愛くてしかたな」
「違う。今微妙な時期だろ。あちこちの空気読むなんざ面倒くせえ」
「丹羽さんよりテレビ見てるね……」
戸頭間が感心したように呟くと、カウンターの舟正と狐刀が耐えきれないというよう「ふ」と同時に吹き出した。肩を揺らす二人を見ながら、丹羽はずれた眼鏡を抑える。
「……で、いつ出るんだ」
「今日。今からだよ」
紫が穏やかに答えると、丹羽に向かって軽く頭を下げた。
「迷惑かけたね、一美。犀のこと──申し訳なかった。色々とありがとう」
「……いや」
謝られることなどしていないし、感謝されることもしてない。
丹羽の心を読んだように、紫は付け加えた。
「昔のことも、だよ」
丹羽とハルカの過去の殺戮を慰めているかのように、穏やかに細くなる。
「ありがとう」
景も無言のまま、紫と同じような目で丹羽を見た。
ひどく懐かしい気分になりながら、丹羽はまた「いや」とだけ口にした。
昔から、二人の前で甘えたことの言えなかったが、言う必要がなかったのだとようやくわかる。この二人は言葉を必要としていない。ずっと深い場所で理解されているという安堵感が、丹羽の中に確実にあるのだ。
にこにこと笑う紫に反して、戸頭間は呆れたように丹羽を見た。しかし、その目には寛大な許しがある。
「もう、こんな時まで無口だね、丹羽さんは。まあいっか。けーちゃんが寂しくなったらこっちに来てくれるでしょ、一秒でね」
戸頭間に話を振られた景が「寂しくはならない」ときっぱりと言うが、戸頭間は取り合わない。はいはい、とぬるい目で景に「せめて一週間は我慢してよ?」等と言っている。
戸頭間と景のくだらない会話が、丹羽の中の感情をゆっくりとほどいていく。
丁寧に、美しく、手の中でゆっくりと広げて、慈しむように。
「ねえねえ、ホームシックになったら電話してもいいからね」
「電話なんかするか」
「ホームシックにはなるんだ?」
「……ならねえよ」
「嘘つかないの」
「はあーーー」
「わかるよ、けーちゃん。別れ際ってすごい寂しくなるもんね。あ、でもちょっとだけ待って」
戸頭間の言わんとすることがわかった丹羽は、一足先に鳴のもとへと向かう。
後ろから追いついた戸頭間が、丹羽の背中をぽんっと一回だけ叩く。
「さあて。何する?」
「戸頭間くんの好きな曲で」
「うーん、そうだねー」
戸頭間がドラムセットに座り、丹羽はウッドベースを引き寄せる。鳴がにっこりと笑うと、戸頭間はスティックを振り下ろした。
その瞬間に、頭に音が弾ける。
丹羽は何も言われずとも、それを弾いていた。
鳴が慣れたようについてくる。
弦を抑え、弾く。
両手が動く限り、演奏を止めない。
ドラムが鳴り続けるまで。
一つずつ階段を上がって、視界が真っ白になるまで、集中を極限まで高めていく。
何も見えず、頭の中は空っぽになって、耳から入ってくる音だけが脳を満たす。
逃さないように。
ピアノの音を捕まえ、ドラムの破裂音を導き、ひたすらに指を動かし続ける。
すべての音が一つの終着点に結ばれていく快感を手の中で転がして、最後まで行く。
死の手前まで。
ふと顔を上げた丹羽の視界から、景と紫が消えていく。
汗とも涙ともつかない何かが、頬を伝った。
#
海岸を歩く二人は、じっと崖の上のホテルを見た。
「楽しかったね。景」
「……次はまたあの街かよ」
「うん。はるちゃんに忠誠を誓ったし……ここにいる間は、あの子達に報いようよ」
「こんなところでよく生きていく覚悟が持てるわ」
息子の言い様に、紫がくすりと笑う。
「はるちゃんなら心配ないよ。あの子のようにはならない」
「……わかってる」
「一美が、元気で良かったね?」
景は海を見ながらぼそりと尋ねる。
「なあ、あいつ、ここで幸せになれると思うか」
「……父親の顔だ」
「大したことしてねえがな」
「彼の記憶には幸せしか詰まってないじゃないか」
「俺達が死んだときの絶望もあるだろ」
紫は地平線を眺めながら、その視線を空へ向けた。
「それでも、カケルくんがいてくれる」
「あの女」
景も空を見た。
一年前に黒くひび割れた空を。
「あの女がこっちに来たら」
「その時は許さない」
紫は右手の人差し指の指輪を親指で撫でる。
母親の形見に、犀に渡した指輪だった。
今は二人の形見になったそれを愛おしげに見つめながらも、その目は黒く塗りつぶされていた。
「あの女だけは、一美に二度と会わせない」
景は父親の殺気に触れぬように目を閉じる。
俺もそのつもりだよ、と呟くと、紫の腕を取る。
二人はまた一瞬にして消えていた。
砂浜には足跡だけが残っている。
──ロックダウンシティポップ──
二部・完




