#59
〝踊る君は悲しそうで
哀れな人魚のようだった
誰もが君を手にしたがるが
君は誰も手にしたがらない
胸に埋め込まれた歪な真珠が取れないまま
裸足で踊る 哀れな人魚〟
#59
景が手を伸ばし、丹羽の頭を撫ではじめた。
すっかり白くなった髪を、なぜか感慨深そうに見ている。
丹羽が諦めたようにされるがままになっていれば「つまらん」と言ってあっさりと手を離した。
「お前ね、抵抗しろよ」
「したらあんた殴りかかってくるだろ」
「久々にお前と遊びたかったのに、思春期の息子はつれねえな」
「……」
何を言っても無駄な気がして、丹羽は黙った。
こういう人だった、という感動のようなものが胸を突く。無愛想なくせして手合わせが好きで、そういうときだけ生き生きしている男だった。丹羽が相手をしなくなってからは、ハルカがいつも遊んでいたが。
「一美」
「……」
「お前はさあ、向こうよりこっちのほうが肌に合ってるよ。とりあえずカケルがいれば、問題ないだろ」
「……いや、問題だらけだが?」
「犀と同じくらい怒りを抱えてるよ、お前は。自分で気づかないふりをしているが、随分凶暴だぞ。彼ならそれをうまく宥めてくれるさ」
丹羽はじろりと景を睨み、それからまだ海の上で丸まって静かに泣き続ける犀を見た。
「一緒にすんな」
「認めたほうが楽だぞ。実の親に対する恨みと恋しさをな」
こういう男だった。
丹羽はポケットを探りたくなる手をどうにか抑える。そうして、今聞いたばかりの言葉を自分の中から消去した。
「で? これからどうするんだ」
話題も変える。
丹羽の隣でクッと笑った景は、どうやら見逃してくれるらしかった。
「さあな。親父の決定に従う」
景を見た紫は、そっと海を叩いた。
いつか犀がしたよりもずっと繊細に、静止していた海がゆわんと波打つ。あのときは不気味な光景だったというのに、それは優しく包み込むようにゆらゆらと揺れた。
「後片付けをしてくるよ」
紫が言う。
「息子の不始末は親の不始末だからね。うまくいくかはわからないけど──せめてこの子が始めてたことをすべて片付けないと気が済まない」
「相当不気味に変わってたから時間はかかるがなあ。仕方ないわ」
「……大丈夫だよ、一美」
紫がそっと犀の方を抱く。
優しいといえば優しいが、その力強さはどうみても自らの行いの精算を犀に強いていた。
許さないよ、と言われたほうがどれだけ楽だろう。
犀がもがく。一人で先に向こうへ戻ろうとしている。それはまた兄によって妨げられたが。
紫はその揺らぎに向かって犀を支えたまま落ちようと身を動かす。
「じゃあ、また──」
「丹羽さん!!!」
紫が別れを告げようとした瞬間、先を歩いていたはずの戸頭間が声を荒らげた。
顔を上げると、こちらへ走ってきている。
なぜ。
「上!!!」
さっさと上を見ろ、と怒鳴る戸頭間に、その場にいた四人が顔を上げた。
女がいた。
ニッコリと笑う女の顔が、空の黒いヒビからこちらを見て──笑っていた。
黒々とした目に、色の乗っていない青い唇が弧を描く。
長い睫毛が瞬くと、生あたたかい風がふわりと地上へ届いた。
死ぬ。
丹羽の頭の中に初めてその文字が過ぎる。
いつから見ていたのか──なぜ気づかなかったのか──あんな小さなヒビから見ているだけだというのに、どうしてこうも頭の中に直接映像が送られてくるようにハッキリ見えているのか──わからない。
わからないが、彼女に殺される瞬間がきたとしても気付くことはできないだろう、ということは、本能でわかった。
「あ」
声を出したのは、犀だ。
まるで歓喜に満ちた声に、丹羽も景も紫も、ハッとする。その三人の間に人影が差し込んだ。戸頭間だ。
「──あれ、見ないで。しっかりして」
戸頭間の声が、全員の視線を引き付けた。アレから視線を外せた安堵が、どっと身を包む。
と、海がゴトゴトと動き始めた。
宝石のような大きな塊が、海の上の丹羽たちを取り囲むように移動してくる。
盾になるように、あの気味の悪い女の視線を遮ろうと積み重なり始めた。同時に犀が子供のように騒ぎ始める。
「あああ! いやだ!! いやだ、置いていかないで!!」
紫が一瞬、顔色を変えた。
その奇妙な顔を、丹羽はどう受け止めればいいのかわからないまま──しかし頭に何かが一瞬にして理解できた気がした。
あれは。
あの女は。
彼女が唇をわずかに尖らせ、ふうっと黒い息を吹き込む。
けぶったそれは、するすると細い竜巻のように伸びてくると、ハルカの守りが完成する前に、人差し指に変化し──犀の鼻先をつんと撫でた。
紫が叫ぶ。
「一美!」
咽び喜ぶ犀を上から押さえつけた紫の声に、丹羽は空を見る。
黒いヒビの隣を割る。
黄金色のヒビを見た彼女は、隙間からにっこりと笑いかけてきた。
丹羽の眉間に不快そうな皺がぐっと寄る。
それでも相手にせず、まっすぐに光を降ろした。
紫の下へ。
「ありがとう」
紫の目が不穏さをにじませて黒く歪む。
と、丹羽の光でできた影が、とろりと広がった。
影にしては深く濃い底無しの漆黒が、ハルカの守りの中を異様な速さでとっぷりと満たす。迫り上がってくる影の沼で徐々に顔が見えなくなっていく紫が、空を睨みながら目を細めた。
と、影が大きな矢に姿を変えた。
ドドドド、と黒いヒビに向って無数の矢が勢いよく入り込む中、矢に刺された女が、ふらりと後ろに倒れていく。
その刹那、女がニッコリと笑って手を振ったのを、丹羽は見た。
ヒビが縫い合わせられれるように閉じていく。
「丹羽さん」
ぽん、と腕を叩かれる。
丹羽は詰めていた息を吐くと、空から視線を逸らして光の幕を閉じた。一瞬だけ曇り、再び何事もなかったように晴天が広がる。
ふと視線を落とすと、紫は脱ぎ散らかされた服を抱きしめていた。
「……間に合わなかったか」
そう言って、紫は海を叩いた。
ゆらゆらと揺れていたそれも閉じられる。
景はただ静かに紫を見ていたが、残った服を拾う紫は、袖から落ちた指輪を見つけるとそれを手のひらに載せて黙り込んでしまった。
終わった。
丹羽は肩の力を抜き、空を仰ぐ。
ひどく間抜けな空だった。




