#57
愛されたい。
ただ、愛されたい。
#57
犀が戸頭間を睨む。
激情がそこに流れていた。
憎しみも、羨望も、腹立たしさも、全部。彼ほどわかりやすい者はいないのではないかと思えるほどに、彼は幼い。
戸頭間を前にして敵うわけがない。
ある種の英才教育を施されて育ってきたのだ。本物の殺戮者を前にして、民衆を束ねるための心地のいい言葉だけを発してきた者など赤子同然だった。
「避けるな!!」
「何言ってるの……避けるよ」
怒りに任せて突っ込んでくる犀をバットで押し返すような戸頭間は、呆れたように答えてやっている。
犀が右手にハサミを出せば、丹羽がすぐに入ってハサミを止め、腹を殴って吹き飛ばした。
「……本当に忠犬なんだから」
戸頭間が丹羽の手を見る。ハサミを止めるために穴の空いた手のひらはすぐに塞がるが、それでも戸頭間は「馬鹿だね」と言わんばかりの顔だった。
ふと、奥の方から青い煙が上がっているのが見える。
海からぶくぶくと不気味に上がるそれは、無数の命の痕跡らしい。
丹羽が振り返った砂浜で、ハルカが黒いスカートを潮風に揺らしながらじっと海を睨んでいる。
海に積み重なっていた泥人形を一つずつ塊で押しつぶしているらしい。サトルは風で一箇所に巻き上げ、ハルカが潰す。そうやってこちらに余計な火の粉が飛んでこないように掃除をしてくれているのだ。
遠くを見ている景と紫もなんとも言えない顔でそれを見ていた。
もしかしたら、戸頭間を見ているのかもしれないが。
「集中して。丹羽さん」
「戸頭間くん、聞いていいかな」
「いいよ。ふたつまでね」
「寛大なことで」
「ひとつめは?」
丹羽に殴られて吹っ飛んでいた犀が口から青いゲルを吐き、顔に脂汗を浮かべて睨んでくる顔を背景に、戸頭間が軽やかに聞く。
丹羽は腕まくりをしながら答えた。
「わざと力を抜いているのか」
「うん。だって、彼弱いんだもん。それに──多分だけど交戦しちゃだめでしょ?」
走ってきた犀が勢いのまま大ぶりで殴りかかってくるのを、ひょいとしゃがんでバットですくい上げるように押しのける。
致命傷は与えないまま、子供の相手のように戸頭間はただ押し返し続ける。
「身体を傷つけると増える気がする。だから丹羽さんも銃を使わないんじゃないの」
「……まあなあ」
「だから心を傷つけてるんだよ」
にっこりと笑う戸頭間の無駄のない防御と攻撃は、犀には重いものなのだろう。
そして、以前のように自分の手を傷つけてまで増やさない理由がどこかにある。
空が、ふと曇った。
太陽が分厚い雲に覆われたように、海上が薄暗くなる。
「はあ……はあ、は……ははは、あははは!」
犀がおかしくてたまらないと言うように、何度も殴られた腹を抱えて笑い出した。
とうとう狂ったのかと思えば、彼はぎょろりとした目で丹羽を見た。
「返せ。俺の家族を返せ」
丹羽はどうしてか、その瞬間の犀を好ましく思った。
ここまでして──彼はあの二人と一緒にいたいのだ。どうしてもそばにいてほしいのだ。それがどういう感情かは関係なく、葛藤も自問も猜疑心も飛び越えて、すべて跳ね除けて、ただ二人が欲しい。二人に愛してほしいのだと思うと、哀れで仕方なかった。
「なぜあんなことを」
そう聞かずにはいられなかった。
なぜ、わざわざ楽園を作らなくてはならなかったのだろう。
ここまで求める景と紫がいれば、彼の楽園は完成するというのに。
不思議そうに見る丹羽を、すっと表情を消した犀が見つめ返してきた。
「世界は変わるんだよ」
「……」
「今あるものが続いていくなんて、あり得ない」
犀は遠くを見るような目で足元の海を見た。静止する海を。
「だったら誰かが最初に狂わなければ。人たちが侵食してくる前に、更に高みへ行かなければ」
「誰に入れ知恵された?」
丹羽が反射的に口にすると、犀は笑った。
「言わないよ。お前なんかに。俺から家族をとっていったクソガキに、あの人の想いなんて渡すもんか」
そう言うと、犀はまたゆっくりと歪な笑みへと顔を変える。
「時間なんかくれちゃって、馬鹿だな」
犀がそう言うと同時に、地平線の向こうにヒビが入った。
犀が入ってきた空ではなく、海の切れ目から、もわりとした腐った熱気が入ってくるのを感じる。無数の、とめどない悪意が漏れてくる。
どうやら犀の計らいらしいが、その自信満々の顔に向かって、丹羽は口の端を上げて返した。
「──馬鹿はお前だよ」
引き返せない、お前だよ。
丹羽は空を見た。
ちょうど、雲が流れて太陽の光が差し込む。
そのタイミングを、丹羽は逃さない。
「……」
丹羽の視線の先。
地平線の近くで──雲間の奥のヒビから強い光が差し込んだ。
いくつもの黄金の光の筋が地平線へ降りていく。強く、意思を感じるそれは優しく両手を伸ばして何かに絡みついた。
いくつもの悪意を隙間なく抱きとめる。照らす。灼けるほど。照らす。逃さない。
丹羽は瞬き一つせず見つめ続けていた。
気を抜くことなく、一つ残らず掬い上げる。
光は花束を作るように寄せ集まると、上へ上を引き上げ始めた。カスミ草の花束が遠くで咲いている。破棄された凶悪な者たちが光に抱かれる姿は、どこか愛しさすら覚えた。
笑う。
丹羽は笑いながら、ゆっくりと光の幕を閉じた。
ヒビが消失する。
「……ありえない」
犀が呆然と呟き、がくりと膝をついた。
「ありえない!! あれを使えるのは──」
「──犀」
丹羽の後ろから、紫の穏やかな声がした。
いつの間にか距離を一瞬で移動してきた紫が、犀を優しく抱きしめる。
頭を抱え、そのつむじに頬を寄せた。
そうして、彼からすべての力を奪ったのだった。




