#54
欲しいものほど手に入らない。
そういうものだ。
#54
「……ああ……」
その一言が、バーにいた全員の背筋を撫でた。感動と愉悦の混じった気味の悪い声に、警戒心が跳ね上がる。
カウンター内の数河が一歩引き、ホテルのフロントへの電話をかけようと身じろぐと、犀はじろりと不健康な目で睨んだ。
「無駄なことするんじゃないって」
犀が腕で女の首を絞める。
「クソ女が死ぬよ。今は……戸頭間ハルカだっけ?」
「……犀」
「よお、クソガキ。これお前のだろ。やるから、この二人を俺に返せよ」
「どうしてここにいる」
丹羽に向かって、犀がにっこりと笑って首を傾げた。
「んー? だって、このクソ女があっさり教えてくれたんだもん。二人はここにいるってさ。お前裏切られてやんの。おっかしー」
「あの家に行ったのか」
「戸頭間ミツルの家? うん。行ったよ。そしたら庭にいたからさあ、捕まえてきた。あっけなかったなあ」
丹羽は安堵を顔に出さぬよう、心の中で息を吐いた。
着物姿の女はボロボロではあるが──犀は気づいていない。両腕が、肘までしかないことに。
顔は見えないが、目野だ。
ハルカだと思って犀が連れてきているのは、目野だった。
良かった、と思う反面、いや良くない、と思い当たる。
これを大事にしている男がここにいる。
「丹羽さん」
その低い声に、丹羽は自然な動作でポケットからライターを出した。同時に蓋を開け、歯車に親指をかける──と、チッと火花が散った途端、それは細く爆発するような速さで犀に達した。一瞬にして犀の半身を包み込むと、首を締めるように巻き付く。
「!」
犀が目野を振り落としたのを見た戸頭間が笑う。
その目に残虐さが灯り、まつ毛は美しく上がったまま、瞬きをしない人形のようにじっと犀を見て──それから二秒、犀は絶叫を上げる暇なく燃やし尽くされた。服が溶けるのも、身体がゲルに溶けるのも、水に変わった瞬間も一切わからないままに、消えた。
暴力的な熱気に似合わない緻密な制御。
それを平然とやってのけてスッキリとした横顔の戸頭間は、どうみても名波他の時よりも精度が増している。
「……戸頭間くん」
「なあに」
「どっかで練習でもしてるのか」
丹羽の呆れた声に、戸頭間は床に落ちた目野のそばに行きながら「えー、ひみつ」と答える。
景が「お前、火使うの」と聞きながら頭を掻き、紫も驚いたように「すごいね」と言おうとした。
が、上から降りてきた武家山の剣幕がそれを止める。
「──カケル!」
扉を開けた彼女がそう叫び、全員が驚いたように彼女を見上げた。彼女が戸頭間を名前で呼ぶことなど、そうない。
武家山がハッとして、バーの中を見渡す。
「……よかった」
「どうしたの、絢乃」
戸頭間が武家山を名前で呼ぶことも、そうない。
つまり異常事態らしい。丹羽は、武家山のもとへ行った戸頭間の代わりに目野の腕を引き、立ち上がらせた。
「大丈夫か」
「……ねえパパ、大丈夫そうに見える?」
「悪態が吐けるなら大丈夫だな。よくやった」
目野が鼻で笑い、丹羽の手を振りほどく。
「私はハルカ様のためにやっただけよ。あいつ、なんなの」
「……ちょっとした知り合いだ」
「最低」
呟く目野が「あちこち痛い」と苦しげに呻く。ハルカでさえも忌み嫌っていた犀に何をされたのかなど、聞かずともわかった。
紫も景も、目野を痛々しそうに見る。
その目を見た丹羽は、居た堪れなくなって窓へと視線を逸らした。
「!」
自分の見ているものが、信じられなかった。
晴天の空が黒く割れ、そこからボロボロと棒のようなものが落ちてきている。
「……戸頭間くん」
海の上に落下する。
「戸頭間くん」
そこから青い煙がいくつも上がる。
「戸頭間くん!」
「なに? 悪いけど丹羽さんと話してる場合じゃないんだけど。フロントの半数があいつに殺されたって──」
戸頭間が振り向き、丹羽が見ているものを見てびたりと止まった。
紫も、景も、武家山も、目野も数河も。
ただ黙って目を見開き、それをその場から一歩も動けない。
小さな空の黒く割かれた隙間から、絶え間なく落ちてくる。
小枝のように見えるものは──目を凝らせば何かすぐに分かった。
「犀」
紫が強張った声で言った瞬間、全員が動いた。
窓際へ走り、それを見下ろす。
青い煙が上がる中でもボトボトと落ち、クッションの役割を果たして溶けたものの上から、灰色の肌をした犀らしきものが起き上がって海の上を歩き始める。
「!」
紫が手のひらに箱を出す。
拳の大きさ。丹羽が初めて見る大きさのそれが、ふっと消える。
景を見れば、酷く怒りに満ちた横顔で、箱を海の上へと移動させた。
爆発する。
海が凹むような衝撃と、紙吹雪。銀のテープを掴むように、まだ上から絶え間なく犀が降ってくる。
「……」
もう一つ出そうとした紫の手を、戸頭間が抑えた。
「大きいやつはやめて」
「……カケルくん?」
「まだ昼間。目立つよ。この辺に人は近づかないけど──それでも大きいやつはダメ」
「おい、離せ」
景が戸頭間の手を掴み上げたのを見た丹羽は、景の手を思い切り払った。
景の狂気をはらんだ目が、丹羽をじっとりと見据える。
「お前さあ、誰に向かってそんな事やってんの?」
「父親」
しらっと言い放つ丹羽は、景を真正面から睨んだ。
「ここは彼の城だ。従え」
「……本当に中身、一美か?」
「ふ」
笑う紫が、景の腕をぽんぽんと叩き、戸頭間を穏やかな目で見た。
「ごめんね。そうだった。私たちはどうすればいいかな?」
戸頭間は丹羽に向かって褒めるようににっこりと笑うと、ジャケットのボタンを外す。
「海で砂遊びしようよ。みんなでね」




