#51
乾いた欲望が、足元から這い上がって身体にまとわりつく。
底なし沼にゆるゆると引き摺り込まれていく予感に、どうして抗えないのだろう。
あの瞬間に感じる安堵は、一体何なのだろう。
#51
「丹羽さんはさあ、人のために働ける?」
戸頭間に聞かれ、丹羽はそのままを口にする。
「人による」
新正からの頼まれごとなら、一度は受けるだろう。世話になったものに砂をかけるほど落ちぶれてはいない、と思ったところで、丹羽は自分の頭の中に戸頭間の思考が侵食していることに気づき、辟易とため息を吐いた。
戸頭間は成長を見守るように笑う。
「大人になったねー」
「というか、二ヶ月前も人のために働いただろうよ……」
「それは母さんからの命令でしょ?」
「じゃあ次も君たちのボスが決めたことに従うよ」
丹羽がうんざりしたように言えば、サトルが微かに笑った。
「カケル」
「なに?」
「目野のことだが」
「だからあれは兄さんには無理だって」
「何が無理なんだ。言ってみろ」
「相当面倒くさいコンプレックスでがんじがらめの癖に、行動力がありすぎるからだよ」
散々な言われようだが、丹羽は黙って同意する。あの猪突猛進さや妙な大胆さ、捻れた妄信的な思考──どう考えても、勝手に動いて余計に事態を混乱させなくもない。というか、大人しくサトルに従う姿よりも、勝手に動いて静かに叱られているほうが想像できる。
「兄さんには、寛容さがないからねー」
「何を言っている。俺は寛容だ」
「無理だよ。目野は無理。第一腕もまだ肘までしか修復できてないでしょ」
「では、対策課には丹羽一美をもらおう。お前には目野を」
サトルが言うと、戸頭間は「はあ?!」と声を荒らげた。
もうここから退散したくてたまらない丹羽は、現実逃避とばかりにテレビに視線を向ける。
緑川防衛大臣とやらの会見は終わり、コメンテーター達が批判半分で薄いコメントを残していた。
──共闘とおっしゃっていましたが、何を想定しているのかは聞けませんでしたね。
──党内外、ということでしょうか。
──まあ、そうでしょう。彼女、顔が広くて、各省庁とも連携が取れる方ですし、二ヶ月前の件では、緑川さんが垣根を取り払って動いたという話も聞いています。今時珍しい骨太な政治家ですよ。
──では、一旦CMを挟みます。
口を滑らせた愚か者の得意げな顔を、丹羽は頭から追い出す。
彼を見るのはこれで最後だろう。
それほどに、上に立つものがする〝約束〟とやらは重い。
「そういう冗談やめてくれない?」
戸頭間の硬質な声が、丹羽を引き戻した。
「対策課にこんなおっさん入れてどうするの」
「使うに決まってるだろう。井田口とも連携が取れる上に、それなりに腕が立つ。今のところ、目野の次に動かしやすい」
「ありえない」
「お前に決定権があるとでも?」
「あるよ。これは僕のだ」
いや、俺は俺のものですが、と言いたいのを丹羽は耐える。
戸頭間は苛ついていて気づいていないようだが、これは他人を挟んだサトルの駆け引きであるのは明白だ。
「貸せ」
「貸さない。絶対無事に返さないくせに」
「なら目野をもらうしかないな」
「……」
「目野は対策課で使う。腕が戻る前に。意味はわかるな?」
戸頭間はやられたと言わんばかりに、わざとらしくため息を吐いた。
カケル、とサトルに呼ばれ、答え合わせをする。
「はいはい……どうしても対策課に一人、こっちの増員が必要なわけね」
「そうだ」
「だけど、目野なら〝お仕置きの続き〟として連れて行っても角が立たない」
「ああ」
「ついでに、侵入者のお仕置きが過激だって人に見せつけらせる」
「わかってるなら最初から頷け」
「わかってるのと納得するは別でしょ」
「──ふふっ」
鳴が我慢できない、とばかりに笑えば、場にほんのりとあった緊張感が緩んだ。
少女のようにくすくすと笑い、肩を丸める彼女の声が優しく響く。
「仲良しね。ふたりとも」
「仲良しではないぞ」
「仲良しじゃないよ」
「ほらあ。ね、一美さん」
「……そうだな」
ハルカと随分違う柔らかさを前にして、自分たちの無力さを知る。今まで黙っていた数河まで小さく笑い──それから小さく「あ」と声を漏らして、入口を見た。
カウンターの頭が四つ、入口を見るように動く。
ドアに差し込んだ影は二つ。
「あ」
と、戸頭間が一番に手を上げた。
「けーちゃん!」
「……なんで揃ってるんだ?」
景が不思議そうに聞く。
ホテルのドレスコードを守った黒いスーツ姿だが、ネクタイだけは免除されていた。シャツの首元が開き、うねった髪は束ねてある。その後ろから「揃ってるって、なにが?」と紫が顔を出した。
白シャツに、青い石のついたループタイ。どこかの爽やかな坊っちゃんの姿をして、片耳を出した紫がバーの中を見てにこっと笑った。
「おや、サトルくんだ」
「どうも」
サトルも軽く返す。
「疲れた顔をしているね。休んでいったらどうだい?」
「時間がないので」
「そ? 鳴さん、そういえば部屋の電球が切れそうって言ってなかったっけ?」
紫が優しく聞けば、鳴は「そうだった」と困ったようにサトルを見た。
その視線一つで、サトルは立ち上がる。はあ、とため息を吐きながら、紫に「失礼します」と礼儀正しく挨拶を済ませ、景にも「どうも」と軽く頭を下げてバーを出ていく。
それを見送った紫を、戸頭間が呼んだ。
「ゆーちゃん」
呼ばれた紫も穏やかに笑う。
「大変だった感じなの?」
「うん、本当に兄さんって暴君でさあ……おかげで助かったよ。ありがとう」
「いいよ。一美のお友達だもの」
その言い方に、景が「ぶっ」と笑う。
二ヶ月。
たった二ヶ月で、この二人はホテルに馴染んだだけではなく、戸頭間の心も掴んだのだった。




