#48
抱きしめる。それは愛情だ。
たとえ、苦しくなるほど力を込められたとしても。
#48
犀を止める、と言う紫の目は、どこまでも穏やかだった。
彼はゆったりと笑う。
「油断してなきゃ殺されないよ。安心しなさい」
紫が、とん、と背中を叩く。懐かしい強さで。
丹羽はそりゃそうだろうな、と呟く。この人ほど、無敵と呼ばれる者はいない。
ふと、丹羽は紫を見た。
自分の記憶を使われたということは、すべて見たのだろうか。復讐をハルカと果たしたことも、どれだけ自分が紫と景を慕っていたのかも。どれだけの絶望感が身体を包んでいたのかを。あのひしゃげた車の写真と、綺麗なままだった遺品を──
「私たちは不意打ちで殺されたんだね。犀に追従する者に、誓いの印として捧げられた」
あの頃、丹羽にとって、犀という人間は神経質そうな不健康な男に見えていたが、周囲は違った。
犀のカリスマ的な雰囲気に傾倒する者が、それはもう不可思議なほどに爆発的に増えていったのだ。彼を崇め、彼の力を神聖視し、彼の言葉を盲信した。
特別で、善良で、崇高で、高潔。
それを描けば誰もが首を縦に振った。
下等生物たちに追い越されそうになっている。
それが許せなかった者が多すぎた。
「薬でも打たれたかな?」
無邪気に言う紫に、丹羽も苦笑する。
「だろうな。内側からの破壊はだめだったもんな」
景も役に立たなかったのなら、よっぽどの人数に抑えられたのだろう。
自分もそこににいれば、何か変わっただろうか。
そんな事を考えずにはいられない自分が女々しくて、丹羽はため息を吐いた。
「……これからどうするんだ」
「うーん。君は、私たちを信じられるかい?」
丹羽の答えは一つしかない。
「信じる」
「早いよ。ちゃんと疑わないとだめじゃないか」
「……」
その答えがすでに丹羽の知る「むらさき」だ。
ズレた眼鏡を押さえ、忠告だけさせてもらう。
「間違っても〝見知らぬ者〟とか名乗るなよ。面倒なことになる」
「前の私たちがその名前を使って面倒を起こしたんだね?」
「そうだよ」
「それは申し訳なかったね。私たちの顔を知っている者は?」
「俺と、ハルカとその息子二人と、」
丹羽はつい、そこで止めてしまった。
見知らぬ者の残党は一掃してあるので、知るのはカケルとサトルと、そして戸頭間ミツルと瀬世だけだ、と言いかけて、頭が勝手に「しまった」と止めてしまったのだ。紫を見下ろすと、きょとんとした顔が丹羽を見ていた。
「子どもがいるの?」
「……」
「〝ハルカの息子〟って?」
「……そのままの意味だ」
「君ら、別れたの?」
ストレートに聞いてこられると、そのまま頷くしかない。
すると、紫は笑い出した。ああ、ついにやったか、と言わんばかりの笑い方だ。
「……笑いすぎだろ」
「いや、だって……はあ、おかしい。はるちゃんに謝らなきゃなあ……駄目な孫で申し訳なかったって」
「……」
「ってことは、エトウから助けたときに一緒にいたあの凶暴な若者が、彼女の?」
「そうだよ」
「あははは!」
今度は遠慮無用な笑い声を上げて、丹羽の方をバシバシと叩く。
「君が信頼するように前を歩かせているから何事かと思ってたけど……そう。はるちゃんの息子……ふふ! はるちゃんのご主人は、きっと君のことが嫌いだろうね」
「元夫だ。ハルカを裏切って捨てられたからな」
「一美のように?」
「……そうだよ」
丹羽がうんざりしたように答えると、紫は「ああ、笑った」と満足したように自分の胸を抑えた。
「まあいいや。君等が愉快に過ごしてるなら、祖父としてはそれだけで幸せだよ。ここが流刑地でもね」
「……愉快じゃねえなあ……」
「ふうん? 楽しそうだけど」
「トラブルばっかだぞ」
「今も?」
ふと目が覚めた心地になった丹羽は、腕時計に目を走らせる。
あれから一時間。
そろそろ戸頭間たちが戻って来てもおかしくはない。
それどころか、配置されていた機動隊とやらも街へ入ってきているだろう。井田口は制圧した奴らを引き渡し──人質はヘリに──残された者たちでカジノの後片付けが始まっている頃だ。そのうちニュースは「外国勢力による暴動は鎮圧しました」と無表情に読み上げるに違いない。全ては都合よく終わる。どこもそういうものだ。
「──紫さん」
ハルカが颯爽と歩いてくる。
「はるちゃん」
「一緒に来て」
短く発した彼女の声が凛と響く。
有無を言わせぬその声に、紫が首を傾げた。
「……どうして?」
「あなたたちの身柄は私が預かる。そういう立場なの」
「でも」
「駄目よ。あなた達を二人だけになんてしない。あのクズはまた来るつもりよ。絶対にあなた達を渡したりなんかしない」
ハルカの奥底から、消えない怒りが戻ってくる。
その目に炎が揺らめくように、彼女はまっすぐに──紫が困るほど見つめる。
「はるちゃん……私たちは私たちで動く予定でね?」
「そんなこと許さない。絶対に」
感情を抑えてもなお、言葉に力が宿る。
拒否しようとも力付くで連れて行く、という意思をまっすぐに突き刺してくる。
純粋な愛だった。紫も無視できないほどの、犀とは違う、愛。ひたすらに二人を思う愛だ。
少しばかり強烈だが。
紫は困ったように景を見た。回復したらしい景は「諦めろ」とでも言いたげに肩を竦める。その動作に、紫は静かに息を吐いた。
「こわいよ、はるちゃん」
「紫さんが本気を出せば大丈夫だってわかってるけど、でも、私はあいつが許せないの。私のテリトリーに入ってきたのよ」
犀が戸頭間ミツルに接触してきたのが始まりだった。
犀が何を囁いたのか、今の丹羽にはわかる。それが腹立たしかった。
「あの五歳児に、これ以上甘ったれたことはさせないわ。丹羽家の男どもは甘すぎる」
その一言に吹き出した紫は、折れるしかなかった。
景と目が合う。
自分より若い父の姿は、拾われてすぐの頃を思い出すほど、懐かしい。
どこか諦めの滲んだ目にしては獰猛なそれが、やけにゆっくりと細くなる。
──お前、とうとう愛想つかされたらしいな?
そう笑っている顔に、丹羽は黙って「ああそうだよ」とうんざりとした顔を返すのだった。




