8、恐ろしいことだが、男サマの子育ては男サマにしかできないらしい
「結局、親の尺度で子供を測るのが間違いなのかもねえ」
幼稚園からの帰り道はまっすぐ10分歩くだけの近い道のりだ。 そこを亭主と2人で歩きながら、しみじみとそう言った。
司は途中で一緒になった良一くんという友達と、もつれ合いながら笑っている。 良一くんのお母さんは、ご主人が来られなかったと言って、1人で発表会を見に来て、なんとなく私たちの近くを一緒に歩いていた。 実はこの人が例の「ご注進」をしてくれた人なのだが、そのことはわざわざ亭主に言ってはいなかった。
「だから言ったろ。 司はあれでいいんだよ。 変に縮こまってしまわなけりゃ、そのうちまとまるもんだって」
のんびり答える亭主を、良一くんママが横目で見ている。 特に責めるような目ではなかったが、もしかしたらこの人は、徳井さんたちの前に出たら「友野さんのご主人って、いい気になってこんなことを言ってたわよ」なんてことを告げ口するんじゃないか、と一瞬気になった。 でも私は、せっかく気分がいいのだからとその考えは捨てることにした。
「あ! 良くんダメ、いけません!」
突然、それまで司と親しげにつつきあっていた良一くんが、司の体を突き飛ばし、次いでボカボカ殴り始めたので、良一くんママが慌てて駆け寄った。 何が気に入らなかったのかわからないが、あれだけ密着して走ったりつつき合ったりしていたら、悪ふざけが過ぎたとかつまらない接触事故とか、ケンカのきっかけはいくらでもあるだろう。
殴られた司も負けていなかった。 突き飛ばされた不利な体制のままで、良一くんの顔を平手でパンチし、向かってくる拳を受けながら自分もげんこつを振り回す。
「司ッ」
「良くん!」
母親ふたりが大声を出すので、そこいらを歩いていた発表会帰りの保護者たちが注目した。 止めなければと思い、私も駆け寄ったが、そこで亭主が思いがけず微笑ましげな表情をしているのに気づいた。
亭主はにこにこ笑って二人の喧嘩を見ていた。
それでハッとしてもう一度観察しなおすと、確かに一種の戯れ合いというか、ちょっと本気になった戦闘ごっこみたいな可愛らしい情景とも取れることに気づいたのだ。
「いいですよ、奥さん。 ちょっとこのままにしませんか」
止めに入ろうとして振りほどかれ、途方に暮れて足踏みしている良一ママに、亭主はのんびりと話しかけた。 先に手を出した手前、どうしても止めなければと思っていたらしい奥さんの目が丸くなる。
「え。 で、でも」
「大人がやったら怪我をするけど、あいつらの体重じゃ、素手でひどいことはなかなか出来ませんよ。 疲れたらやめるでしょう」
「危なくないかなあ」私が不安がると、
「見たところ、同じくらいの体格だし、どっちも同じくらいファイトがあって、一方的じゃないからいいんじゃないかな。 ふだんうちもお姉ちゃんしかいなくて、ほんとに喧嘩したことがないから、いい機会かも知れないと言ったら不謹慎だけどさ」
「い、いいのかなあ」
「大丈夫。 むしろこういうことしたことなく大人になっちゃって、でかい図体でいきなりキレて、ドカンと行っちゃうほうが怖いんだぜ」
「そりゃ、うちも一人っ子だから、喧嘩は初めてかもしれませんが」
良一ママがおろおろと迷いのある声を出す。
「武器を使おうとしたら止めるってことで。 お宅が嫌でなければ、ですけどね」と亭主。
「は、はあ。 まあ、こうしてみんなで見張ってればいいですか、ねえ」
良一ママの反応は曖昧だったが、反感を押さえ込んだためではなく、単に戸惑っているだけのように思えた。 実際、標準より小柄な4歳児2人が素手でやりあっていても、不安を覚えるほどの迫力はなかったのだ。
「ほら今日子、ふたりともさっきまでパンチだったのに、今度は足で蹴り合い始めただろ。 あれはどうしてだかわかるか?」
「わかんない」
「あ、私もわかりません。 なんでですか?」
「手が痛くなったんだよ」
「なるほどー」
「人を殴ると、自分もダメージがあるのを学習したんですね」
「で、今は蹴り合いになったけど、これもそのうちわかるんだよ。 自分にダメージ少ない戦法は、相手にもあんまりインパクト与えないってさ」
「まあ、顔面ほど効いてない感じだもんね」
「顔面だって自分をガードしなきゃいけないから、隙間から恐る恐る殴るんじゃ、実は死ぬほど痛くはないんだ。 それでも結構恐怖感はあるからなあ」
「こうやって判っていくんですね」
喧嘩の終着点はじつにあっけなく、良一くんが自分の家にたどり着き、玄関に走り込んで司の前でぴしゃりとドアを閉めただけで終わった。
司は「あーー!」と大声を上げたが、それ以上深追いせず、多少ムスっとした顔で、殴られて痛いところを指先でいじりながら良一くんの家の壁を見上げていた。 するとすぐに2階の窓から良一くんが顔を出し、お祭りの夜店で買ったらしいアニメキャラのお面をかぶって、「悪の組織は許しておけん、斬月剣が退治てくれる!」とミエを切った。
「退治ても届かんわい。 バーカバーカ」
司はいかにも頭の悪そうな悪口を繰り返していたが、内心では殴り合いが終わったことにホッとしていたのではないかと思う。 その顔には軽い引っかき傷が出来ているだけで、大した怪我もしていなさそうだった。
「幼稚園ってのも、要するに女の世界なんだな。 俺にはよくわからん」
帰宅してから主人はそう言った。 解りたくもないといった口調だった。
「あなたにわからないんじゃ、きっと司にはちんぷんかんぷんでしょうね」
「言っとくが、ついていけないんじゃなくて、入りたいと思えないんだ。 司だっておんなじこと思ってるさ。 あいつきっと、担任の先生が宇宙人に見えてるぜ」
亭主の言い草に苦笑しながら、私は思った。 私たちはもしかしたら、今、この時この瞬間に、「男サマ」を産み出し育てているのかもしれないと。 それはチマチマした小賢しい女の世界には一歩も踏み込まない、異次元の世界の生き物で、例えボロを着て門番の仕事を手伝い、時には人に頭を下げたとしても、決して同じレベルに落ちない、同じ空気に染まらない、そういう生き物ではないのかと。 私が当初イメージしていた王様のそれとは微妙に違っているけれど、限りなく近いものを相手にして、私たちは頑張っているんじゃないのかなと。
それは女である私だけでは絶対にできない仕事で、どこがどうかはよくわからないが、かなり神聖な作業なのではないか。 例えば私が本当に真剣にひとりで司の面倒を見たとしたら、約束事を守らないからといって厳しく叱り、亭主を殴った時点でツカサ残月剣も禁止したかもしれないし、結果的にあの、机の下に隠れて途方に暮れていた子供達と、同じ種類の子供を育てていたかもしれない。
社宅の奥様達のように、細かいところまで遠慮して体裁を整え合って生きる、清く正しくせせこましい女社会が、司のような子供の教育にいいとは断じて思わない。 それでも、亭主がいなかったら私はそこに気づくこともなく、蘭と同じことができるまで司の社会性を鍛え上げる方向に走ったような気がするのだ。 なにしろそういうことに手抜きができないのが、悲しい女の性だから。
亭主という、成人した「男サマの鋳型」を観察しながら司を育てている、私の強みはそこかも知れない。 男というものは所詮そういうものよという諦めもあれば、あれで社会に出て立派にやっていけるのだから、そこのところは信用して育てよう、みたいな安心感もあって、そのおかげで、この訳のわからないおポンチ息子の子育てを、呆れながらも面白くやっているのだ。
「なんだかんだ言って、あんたのパパは頼もしいのかもね」
膨らんだお腹に話しかけると、中からかなり強いキックがあった。 この蹴り方は男の子だな、と直感的に思った。 私の場合、この種のカンは絶対当たる。 お前は絶対男だな。
我が家の男サマ、現在進行形で増殖中だ。
中途半端なところで永らく更新をご無沙汰してしまって申し訳ありません。 今回でこの章は終わりとなります。 次の章で、現在までの亭主の病状等を書かせて頂くつもりでおります。今しばらくお付き合いください。