4、医者に下痢便呼ばわりされる、亭主の血液って‥‥
「出社に及ばず」
その言葉を聞いたのは、その日の夕方だった。
島根出張を棒に振って帰社した亭主が、その足で保健管理センターに行き、検査をして診断を受け、結果を会社に提出して得た、いわゆる会社命令である。
「‥‥及ばず、って言っても、やんなくていーよー、じゃないんだよね。
これは『出るな』という意味よね?」
わざわざ念を押して、亭主の渋面を2割増進する。
「まあな。 うちは組合やホケカンが、社長より発言力強いからな」
「その間、給料はどうなるの?」
「しばらくは有給が溜まってる分で何とかなるけど、3ヶ月も4ヶ月もじゃないからな。
できるだけ早めに出られるように頑張らないと」
「1ヵ月もあったら、目まいの原因くらいわかるよね? わかったら止めてもらえるよね」
問いかけると、何故か亭主は非常に言いにくそうに首を振り、実は、と検査結果の書かれた用紙を取り出した。
「めまいがなくなるまでじゃなくて、ここのこの数値が下がるまで、なんだ‥‥ごめん」
「ごめんて、何が」
用紙を覗き込むと、問題の箇所らしき部分に、黄色の蛍光ペンで丸がつけてある。
“総コレステロール値 369
LDL 232”
「何? これって異常なの?」
すぐには意味がわからなかった。
いまでこそ、テレビや新聞でコレステロールという言葉が一般的になっているが、当時は医者しか使わない種類の言葉で、病気になったことのない人間はあまり耳にすることがなかった。 ましてやこの当時、20代で結婚してからまだそういう検診の対象になったこともなかった私は、検査そのものに対しても無知だった。
「基準値の2倍以上あるんだそうだ。 血液の詰まりやすさを表している数字だってさ。
体重がこのまま増え続けると、血管が詰まってしまうんだって。
だから、この数値がせめて半分に下がって、体重があと7キロくらい落ちないと、出社して仕事するのは難しいって言われたんだ」
「ちょ、ちょっと待って!」
私はキッチンからファイルを一冊持って来てページをめくった。
「6月に会社でやった健康診断で、もうこれと同じくらいに高い数値が出てるのに、気をつけろって言われただけだったでしょう。 今さら欠勤してまで下げるのって‥‥」
「だから、今、具合が悪いからだろ」
「これが原因で起こってるめまいなの? どこか血管のつまったとこが見つかったわけ?」
「まだだけどさあ」
亭主は大きくため息をつき、あぐらの足を組みなおして説明した。
「はい、ここにいる社員、香川一平君と言う人が、夕べ体調崩して業務に穴開けたわけです。
なんで具合の悪い人間を働かせていたのか、健康診断で異常が出ていたのに改善されていないのか、組合は騒ぐ、医者はどうしてもなんかしなければいけなくなる」
「他に治すとこがないから、これ治せなの?」
「まあ、治すべきなのは間違いじゃないからなあ」
そして亭主は、さらに言いにくそうに上目遣いになって、
「それで、さ。 ホケカンの先生が、食事の作り方を指導したいから、お前に来てくれって言ってるんだけど。
で、あした、2時に一緒に行ってくれないかな‥‥」
二つの嫌な予感に、背すじがゾクっと粟立った。
一つは、これからとんでもなく手間のかかる事態になるんじゃないかという、とても的を射た認識で、もう一つは、ここまで亭主を太らせた責任を自分ひとり負わせられるような被害者意識だった。
「食事の作り方を、これから変えろって事?」
つまり、うちのもと王子様は、食物の過剰摂取によって肥満になられ、血液が詰まりやすくもおなりなワケだ。 それを治したら、とにかくホケカンの立場が保てる、会社も組合ににらまれずに済む。
そして、妻である私は、剣の代わりに入口で鍋と包丁を渡され、こう言われるのだ。
「ようこそ、アナタが勇者です!
あなたは囚われのもと王子様を救うべく、これからダイエット料理法の修行をなさってクダサイ。
そして、魔法のように低カロリーのメニューを繰り出して亭主を7キロ痩せさせ、コレステちゃんを半分に減らして健康を招く努力をしなさい。
そうでないと、陸トドに姿を変えられた王子は、2度と社会へ出て行くことが出来ないのです」
そして伝説は始まるのであった‥‥、って、ちょっと待てよ!!
私は思わず、横目で亭主をにらみつけた。
「‥‥えーと‥‥とりあえず、ごめん‥‥」
亭主に謝ってもらっても、何も改善しない!
なんでこんなことになるの!
休むのは亭主で、働くのは私か!
食べて太ったのは亭主で、作って痩せさせるのは私かよ!
人から見ると、私がおいしい料理を作りすぎた馬鹿な妻だから、私が努力すれば即体重は減る、と言うことになるんだろうか。
でもそれは違うぞ、大きな根本的なミスだぞ。
修行を施してくれる医者は、亭主の肥満が私だけの力で阻止できる物ではない事をわかってない。 こいつが無類の甘い者好きで間食マニアだってことを踏まえた上で、私を修行に導こうとしてるんだろうか。 いやいや、絶対そうじゃない。
忘れもしない小学校2年の給食の時間に、当時クラスメートだった亭主がぜんざいを12杯もお代わりしたことが、今でもクラス会で語り草になってるとか、婚約時代にふたりのクリスマスケーキがカブって2個になってしまったクリスマスイブに、亭主が「しめた」と叫ぶやワンホール丸食いしたとか、結納の時に三つ揃いの背広がパンパンで、お辞儀した途端に弾けてコントみたいなバラバラすだれ状になってしまい、後半から車の中にあったジャージで結納の儀をやったとか、今でも寝る前にポテチ一袋攻略しないと寝ようとしないとか、コーラ代が月々1万2千円かかってるとか、いやーもう出るわ出るわ止まんないくらい言いたいことがある私を、勇者なんかに任命したらもう大変なことになるんじゃないかと思う。 正直、亭主ともめた挙句、こんにゃくを口に詰め込んで殺害しかねないと思う。
次の日2時、亭主と私は子供たちを私の実家に預けて、夫の運転する車でホケカンに向かった。
余談になるが、私は車の免許を持ってない。
独身時代に取得を考えたが、どうもそういうことが苦手なように思えたので、
「町内の人口を減らしそうだからやめとこうかな」
と、家族や友人に相談したところ、
「人口密度だろ」
とみんなに言われたので断念した。 何がそんなにとんでもないイメージをかもし出しているのかさっぱりわからないが、とにかく刑務所へ行くよりはましと思って不便に耐えることにしたのだ。
でも、この時ばかりは無理にでも取っておいた方がよかったか、と心から後悔、というよりキモを冷やした。 亭主は目まいでまだふらふらしており、かと言ってバスに乗ると手間が惜しく、タクシーでは金が惜しく、なんだかみみっちい性格が仇になってハンドルを握るのをやめられなかった。
直進の時は不便がなかったが、さすがに後ろを振り返りながらのバック駐車は、本人も怖い思いをしたようだった。
ホケカンのお医者様は、アラフォー世代ロマンスグレーの男性だった。 日当たりの悪そうな1階中庭に面した事務所のようなところで、私たちは診断についての説明を受けた。
「コレステロール値と言うものは、異常がなくても年齢と共に上昇して来る物なんです。
でも、というか、だからこそ、というべきか、若い頃からこんなに高い数値が出てしまうと問題なんですよ。
ご本人の話によれば、香川さんはお母様が痩せ型なのにコレステロール値が高かったと言うことですから、これは家族型の高脂血症でしょうね。 遺伝的な要因が強いと見られます」
「遺伝‥‥」
「もちろんその遺伝に加えて、それを助長させるような生活習慣もあったと思われますが、もともと家族型の傾向がある場合、スタート位置が高いですので一筋縄では下がりません。 食餌療法をやりながら、薬も併用していくことになります。
それをしなかった場合、ドロドロの血液は血管の中に澱のようなものを溜め、血管が細くなって血栓を作りそれが詰まってしまうのです。
脳卒中、心筋梗塞、脳梗塞の原因になるのがこういう血液なんです。 今話題の過労死なんてのも、つまりはこういうことで起こります」
「過労死、って、ストレスで起こるんじゃないんですか」
「ストレスというのは原因の種類を言うし、過労死と言うのは結果を総括する言葉で、どちらも病名ではありません。 仕事のストレスや残業による睡眠不足や栄養の偏りや肥満、これによって血液がドロドロになると、脳の血管が詰まって脳梗塞、心臓の血管が詰まって心筋梗塞、破れたら脳卒中とかになる、そしてそれによってなくなった時に、仕事のしすぎだねと言う意味で、過労死と表現するのです。
香川さんの場合、仕事だけが原因でない家族型ですが、だからって何もせずにいればいいかってことじゃないですからね。
このまま放置すれば、香川さんの血管は近いうちに必ず詰まります。 間違いなく詰まります。 絶対に詰まります」
三回も言わんでも。
「そんなにひどい状態なんですか」
「そりゃあもう、尿道から下痢便出すよりひどいです」
ゴン、と鈍い音がした。
あまりにも救いようのない表現に、亭主がデスクに頭をぶつけた音だった。
次回は食餌制限の説明等やります。 複雑なのでちょっと作成に時間かかるかもです。