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魔女のキッチン  作者: 友野久遠
3章 魔女のなれの果て
37/45

4、できません! やりたくない! もうやめます! ああ憧れの台詞がついに

 土井老人は、比較的裕福な庄屋農家に生まれた長男で、本家の坊ちゃまよ跡取りよと、奉られて少年時代を過ごしていた。

 ところがその後、徴兵により激戦区に送られ、最終的には南の孤島で終戦を迎えたのだ。 問題の本は、その時の熾烈な戦争体験を中心に、彼の心の思いを巧みにつづった手記であった。


 手元に現物の本がないので、固有名詞等が曖昧な記述になるが、彼らの部隊はある南の島で激戦の挙句、辛うじて壊滅を免れた。 しかしそのあとは迎えの船が来るではなく、物資が届くでもなく、極度の飢餓状態と緊張の中で何人もの病死者餓死者を出し、失意のうちに敗戦の報を受けてさらに自殺者を続出する。

 土井は両足がほとんど動かない状態で帰国した。 

 家族は温かく迎えてくれたが、精神的肉体的に疾患が出ていた土井は、家族のお荷物になっている自分がむなしく何をやる気にもならず、荒んだ気分で無為に時を過ごした。

 自暴自棄になっていた彼を救ったのは、同じ部隊にいた戦友が連れて行ってくれた教会の礼拝堂だった。

 その戦友は熱心なクリスチャンで、土井はその男の勧めで入信し、その後その男の妹と結婚する。

 

 ささくれ立った自分の心を、信仰がいかにして癒し解きほぐしてくれたかを、土井は流れるような美しい文章で書きつづっていた。

 気が付くと何時間も経っていた。 私は久しぶりに時間を忘れ、ひたすら読書に没頭していたのだった。



 「これすっごい! 面白かったよ!」

 病室にやって来た亭主を待ち構えて、感想をまくし立てた。

 「もう全然目が離せなかった。 表現力が半端ないね。 プロなんじゃないの、土井さんって」

 「だろ? 終戦のとこなんか、凄まじいよな」

 亭主も嬉しそうに話し始める。

 「ラジオ聞いてから大泣きして、負けちゃった負けちゃったって騒いでた時が一番活気があったって。 で、そのあと不気味なくらいシーンとした頃に、夕日が沈むんだよね」

 「そうそう。 あそこがこわいのよ。 銃声が遠くで響いて、行って見たらひとりずつ、ヤシの木の下に座って銃を口にくわえて、足の指で引き金引くってシーンがあったでしょう」

 「うんうん、あそこが凄かったよなあ。 実際にそうだったんだろうけど、書き方もうまいんだよ」

 「うまいよねえ。 怖くて物悲しくて泣いちゃった」


 「奥さんの顔を描写してただろ、ああいう表現もうまいし」

 「面白い書き方いっぱいしてるよね。 でもさ、あの奥さんって、今の奥さんと違う人だよね」

 「だろうな。 2歳年下で、ベティさんをヘラで伸ばしたような顔、とかって書いてあったもんな」

 「ベティさんってかなり平坦な顔よ。 それをヘラで伸ばしたらペッちゃんこじゃない。 今の奥さんってもっと美人系だったし、若いよね」

 「後妻かな」

 「かもね。 キリスト教の宗派も変更してるじゃない。 最初はカトリックだったのに」

 「どこが違うんだ?」

 「今の教団は新興宗教でかなりマイナーな宗派なのよ。 この本を書く前にも変節してる、書いた後も気持ちが宗教から離れてるってわけ」

 「この本を書いた時には幸せだったはずなのに、その後何があったのか知らんが、今が幸せそうには見えないよな」

 「見えないね」


 しみじみ話し込んでいると、風呂から上がって隣のベッドに戻って来た40代の女性が、

 「御夫婦、お仲がよろしいですわねえ」

 と言って笑った。

 「うちの主人なんか、おいこれ持って帰るぞ、とか、今日のこれはあれでいいのか、みたいなことしか言って来ないですもん。 会話なんかもうほとんどなくて。 家でテレビ一緒に見たって、『おいあれ見ろよ』『へー』でもう終わっちゃうんですよ、感想なんて話したことないです」

 

 私と亭主は顔を見合わせた。 家での会話は、私たちも似たようなものだったからだ。 

 でもそう言えば私たちは、結婚前はいつも延々と、お互いが読んだ本の話ばかりをしている恋人同士だった。 2人ともが読書好きで、好きなジャンルが一緒とは言い難かったが、中には同じ好みの本もあった。

 それが映画化されたと言っては2人で見に行き、新刊が出たと言っては貸し借りして読んで、その度にあそこがいいここがいいと話し合ったものだ。


 「そう言えば最近、一緒に本屋に行かなくなったよな。

  俺はよくひとりで行くけど、前はよく一緒に本屋めぐりってやったじゃないか。

  お前はなんで一緒に来なくなったんだっけ? 司がじっとしてないからか?」

 亭主が呑気な事を言う。

 「違うわ、私が読む暇ないからじゃない。

  もう5年近く、料理本と週刊誌以外、活字を読んでないわよ」

 「どうして」

 「ほとんどの時間、動き回るかキッチンに立ってるかどっちかじゃない。 小説なんていつ読むのよ。

  包丁使いながらだとちょっとは読めるから、流し台の縁に立てておいて読むんだけど、あそこしか置くとこないもんだから、読み終わるまでには水撥ねでびちょびちょになっちゃうのよ。 だから、濡れても惜しくないゴミ箱行きの週刊誌とか、あなたが『捨てるな』って言わないくらいくだらないノウハウ本しか置いとけないってわけ。 本屋でわざわざ買う気にもならないし、図書館で借りるのもダメなのよ」

 

 亭主は改めて驚いたように、ベッドサイドから私の顔を見た。

 「5年間、全然読んでないのか。 俺が渡したのも?

  ほら、獏さんの新刊とか、買って来て読むたびに回したじゃないか」

 「獏さんの新刊は、どうしても読みたかったけど汚せないから、洗濯物畳むときだけ座れるんでその時読んでたの。 でもそれって1日7~8分だけでしょ。 1か月かかっても読み終わらないから段々わけわかんなくなっちゃって、あろうことか獏さんで挫折したのよ! 一番好きだったシリーズだったのに」

 「そんなに読む暇がないのか」

 「寝るだけで精一杯だったじゃない! 漫画ならなんとか忘れる前に読み終わるんだけど、小説は難しいのよ。 本だけじゃないわ、イラストだって年賀状に描いてる奴1年にたった1枚、それも結局徹夜して無理やり仕上げる分だけしか描いてないし、好きな音楽もテレビもアンパンマンに譲ってるわよ。 趣味の事をやる時間なんて、基本的にないのよ」


 隣りのベッドの女性は、うんうんとうなずいてため息をついた。

 「男の人ってわかってないですよねえ。

  女は家事だの子育てだの、忙しい時はほんと趣味どころじゃないし、忙しくない時は町内会の役員だのPTAだのがあってやっぱり忙しくなって、結局いつも時間が無くなっちゃうんですよね。

  あたしなんか、2歳半ずつ離して4人も産んじゃったから、下が3歳になるまで10年ぐらい、まともにお風呂で髪を洗った記憶がないんですよ。 うちの主人はお宅みたいに優しくないもんだから、いつも午前様で」

 隣の芝生は青いものらしく、彼女は盛んにうちを羨ましがっていた。 この時 私はこの人に賛同してもらえたような気になり、ひいては全国全世界の主婦に味方になってもらったような、お前だけじゃないんだよと言ってもらったような気持になったのだと思う。


 途端に、わーっと胸の中から何かがこみ上げて来た。

 「ねえ、もっと本が読みたい。 絵が描きたい。

  あああ、もうやだもうやだ、退院したくないよう。 1日中休みがないのはもう嫌だよう」

 亭主の腕をしっかと掴んで訴えた。

 「本が読みたいよう、何かもっと自分のことがしたいよう。 

  この子が生まれたら、今より時間が無くなっちゃうじゃない。

  私絶対にもたない、絶対変になっちゃう、絶対ダメになっちゃう!!」


 「おい、今日子落ち着けよ」

 私がついにビービー泣き始めたので、亭主は慌ててベッドの仕切りカーテンを閉めた。

 涙はひとたび出始めると、ボロボロといつまでも節操なく流れて止まらなかった。

 

 「もうヤダ! もうやんない。

  私全部やめる。 奥さんやめる。 お母さんもやめる。 主婦もやめる。

  本読む。 絵も描く。 映画見る。 歌を歌いに行く。

  友達とおしゃべりする。 お休み取ってごろごろする。 ゆっくり体洗う。

  自分の好きなこと一杯する。 家事やめる。 全部やめて、もう自分の好きにやるんだあ!」

 

 「よしよし……よしよし」

 亭主はどうしていいかわからずに、ただひたすらに私の頭を撫でていた。

 私がグズグズ言いながら延々と泣き言を垂れ流している間中、それこそ頭が禿げるかというほど、ごしごし、ごしごしと、いつまでも真剣に撫で続けてくれた。


 結局その日、亭主は仕切りたがりの彼には珍しく、このことについて結論も命令も指示も出さずに帰って行ったのだった。

 帰り際にも、黙ってひとつ、私の頭をゆっくりと撫で、それから病室を出て行った。

 私はその背中を見てようやく、亭主も実は相当疲れているんじゃないかという事に思い至った。 仕事に復帰したばかりの体で、残業も多い中を、毎日病室に通ってくれていたのだから。 


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