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魔女のキッチン  作者: 友野久遠
2章 はじめまして心臓さん
31/45

16、人間、潰えた恋の記憶にまつわる物にはつい反応してしまいますよね

 病院のサイドベッドは寝心地が悪く、夜中になっても睡魔の尻尾を捕えることが出来なかった。

 心音を刻む電気音が段々耳について苛立ちがつのり、どうせ異常がある度にナースステーションでわかるのなら、病室の音は消してくれればいいのにと思ったりした。

 この電気音はつまり亭主の動揺のバロメーターなので、浮気のことを問い詰められないストレスを、この耳障りな音のせいにするのが私にとって一番楽だったわけだ。 食餌療法開始以来、ひたすら我慢ばかりしていると言うのに、こんな音にまで耐えねばならないのかと、はっきり言ってどうでもいいことに一番腹が立っていた。

 

 そのくせ一旦開き直って、「隣でいつの間にか死んでても寝ててやる」とやけになった途端にズドンと眠りに落ち、妊娠中の疲労もあってかまるで目が覚めず、深夜に投薬に来た看護師さんをあきれさせた。

 実際のところ夜間は、起きていたからと言って私がやることはほとんどなかったと思う。 食事が出来るようになってから夜間は点滴がなかったし、尿道にまだ管が刺してあるからトイレに行かなくていい。 亭主もよく寝ていたので、水だの寝返りを打つだので起こされもしなかった。 


 朝、亭主が目覚めてからは、歯磨き、顔の清拭、食事の世話と、それなりに仕事があった。

 「具合はどう? 血の巡りが良くなった気はする?」 

 手術が成功したのだから、さぞかし景気よく血液が循環している感じなのだろうと期待して聞いてみたが、

 「いや、普通」

 もともと平静時には異常があったわけではないので、平静時に聞いても改善の実感がないものらしい。

 


 蘭は目を覚ますと、タップンタップンになった紙おむつをいつも通り自分で始末し、すぐに登園が出来るように園服に着替えてから、亭主の食事の支度を手伝った。 そのあと私と二人でコンビニ弁当を食べていると、姑が司を連れてやって来た。

 「お姑さんすみません。 眠れなかったでしょう?」

 「全然寝れないわけじゃなかったわ。 司ちゃん9時前には寝てくれたから。

  それと幼稚園からのお手紙が入ってたけど、私じゃわかんないから鞄に入れっぱなしにしといたの。 あとで見ておいてね。 あ、これ昨日の汚れ物ね。 ええとそれから」

 思いつく限りの必要事項を羅列するや、姑はあわただしく出勤して行った。


 ここまでは予定外なりに、一応うまく行った。 大変だったのはそのあとの1時間だ。

 日勤の看護師さんが出勤して、検査や治療が始まるのは、早くても8時半。 それまでは病室にいなければならないので子供たちを幼稚園に送って行くことが出来ない。

 その1時間、司を走らせない、叫ばせない、機材に触れさせない、うろうろさせない。 蘭にはたやすいことなのだが、司にこの4条件を守らせるのが至難の業であることは言うまでもない。


 案の定、お茶とありあわせのお菓子を食べる間だけ座っているのが精いっぱいだった司は、すぐに椅子から降りて室内外の探索課外活動をしたがった。

 「こら、つか! そっち行っちゃだめ!」

 「つか! 触るな!」

 叱りつける蘭の黄色い声も、あまり病院向きな音量ではない。


 こういう時、「静かにしなさい」「じっとしなさい」と言っても無駄なことを、母である私はよく知っている。 ええ、嫌になるほど知っていますとも。

 司はまず、言葉の端々に妙な反応をする。 「〇〇“しなさい”」と言われると、何かを“やらせてもらえる”のだと勘違いし、無意識に張り切ってテンションが上がってしまうのだ。 しかし「静かに」も「じっと」も、言って見れば「何もしてはいけない」という、禁止事項に他ならないので、司はいつも、何かをするつもりで勇み足になったまま、やたらと叱られる意味が解らないままになってしまうのだ。

 つまりこういう時、親は「静かにしなさい」と言う代わりに、「何をしていたらいいのか」を言わなくてはならないのである。 静かにじっとしていて出来る宿題を出さなくてはいけない。 

 これがあらかじめ予定された1時間であるなら、私もそれなりに準備をしていただろう。 なぞなぞを出したり、見たことのない本を仕込んで置いたり、絵や字を書くのがあまり好きでない司の好みに合わせた時間つぶしを何か作って来ていたことだろう。 しかし、この時はその準備が何もなく、必死で手遊びなどをして時間を稼いだが、私もちょこちょこ用事で立たねばならないために長く相手をしてやれず、司はすぐに走り始める。


 「つか、そこの自販機でお茶を買って来てくれない?」

 最後の手段は、最短距離のお遣いに出すことだ。 廊下の10m先なら見張っておくことが出来る。 自販機をいじるのは普段やらせてないから、絶対にやりたがるはずだと、思いつくままに頼んでみた。 

 しかしこれは、お姉ちゃんである蘭のプライドに障ったようだ。

 「あたしがやる! なんで、つかにだけお願いするのよ。 つかひとりじゃ無理でしょ」

 お手伝いが大好きな蘭が仕事を横取りしようとする。 


 「じゃあ二人でやりなさい」と言えば簡単に思えるだろうが、そうすると司は必ず逃げてしまうのだ。 お姉ちゃんのお手伝いのお供なんていつもやってるし、どうせ何もやらせてもらえないに決まっているからうんざりという事なのだろう。 もしかしたら、司が必要なことを何もやろうとしないのは、この姉の付録に思われることを子供なりに避けているのかも知れない。


 「わかった、お茶は蘭に買ってもらう。 司はこのゴミ箱の中身を、廊下のごみ入れに捨てて来て」

 先に蘭を追い払ってから、司に宿題を出さなければならなかった。 絶対に走らない事、お口にはチャックでと約束させて、司を送り出す。 問題なのは、ごみ箱の位置が部屋からは確認できない場所にあった事だった。

 「司を外に出して大丈夫か? 他の人に迷惑かけたりしないか」

 ベッドの上で亭主が心配する。 あんたほどじゃねーよ、と心の中で毒づきながら、廊下まで様子を見に行った。


 司の姿は消えていた。 ごみはすぐに捨てられたらしく、空のごみ箱がゴミ捨て場の前に放り出してあった。

 「蘭、つかを見なかった?」

 お茶を手にして戻った蘭に聞いてもわからない。 

 作戦失敗だ。 仕方なく、亭主を蘭に任せて探しに行く。 まったく、たかだか1時間ぽっちでなぜこうも手がかかるんだと腹を立てながらだ。


 司は意外なところで見つかった。 亭主が最初に入った大部屋の前の廊下である。 司は、冷たい床のタイルにべったり座り込んで、立派な装丁の本を読んでいた。 厳密には字が読めないので「眺めていた」ということになるのだが。

 「つか、何やってるの。 ダメじゃないちゃんとゴミ箱持って帰らないと」

 近付いて行って叱ると、呑気者の長男は本の表紙を得意げに見せた。

 「戦士が戦う話なんだ」

 表紙に書かれているのは、翼を生やしたミカエルの姿だった。

 「それは戦士じゃなくて、天使じゃない?」

 手に取って裏表紙を見ると、突然懐かしい字面に遭遇した。 M教の教団名が入っている。 どうやら教会の中で出版された本であるらしい。

 ページを開いてみて、司の台詞の意味が分かった。 白黒の挿絵が何か所かに入っているのだが、全てヘルメットをかぶった日本兵の姿だった。 銃を持って戦う主人公の横で、撃たれた友人が苦しんでいるシーンもあるし、ヤシの木の根もとで頭を抱えて途方に暮れている場面もある。


 「つか、この本どこにあったの」

 「ゴミ箱に捨ててあった。 このお薬袋に詰めてあったんだ。

  おじさんが歩いてたからね、忘れものだあれ、って聞いたら、この部屋の人だよって」

 薬の袋には、部屋番号が書かれている。 それを見て他の患者さんが部屋を教えてくれたのだと言うのだ。

 「ほら、これとこれが同じなんでしょ」

 司が精一杯背伸びをして、部屋の入り口のネームプレートを指さした。 そこに大部屋の入院患者の名前が5つ並んでいる。

 「おんなじ名前だって、おじさんが言った。 だからこの部屋の人が落としたんだよね?」

 字の読めない司が、自分ではよくわからずになぞっているのは、本の表紙の著者名の所だった。


 私はその名前を見て、そのあとネームプレートを見直した。

 「ほんとだ! これを書いた人が、この人だわ!」

 「でしょ?」

 著者名は、“八木 貞一郎”となっていた。


 

 

 「それはわしがさっき捨てたんじゃ。 なんでわざわざ拾うんか。 ええから捨てといてくれ!」

 八木老人は、予想通りの攻撃的な態度で私たちを追い帰そうとした。

 例の辛抱強い奥さんがいないので、彼の毒舌の独壇場である。 司は老人の剣幕に怯えて、私の腰の後ろにくっついてしまった。 私もどこかに隠れたかったがそういうわけに行かない。

 「そ、その、間違えて捨てた、とかじゃないんですか? だってこれ、ご自分の著書でしょう?」

 「自分の本捨てたら、何か悪いんか?」

 「これ、M教の会内出版でしょう? 信者さんでいらっしゃるんでしょ? だったら大事な物じゃないんですか」

 「そんなもん若気の至りで入っとったことがあるだけじゃわ。 今さらそんな本、あっても邪魔になるだけじゃ。 そんなに気になるんなら、あんたが持って帰ればええじゃろ」


 けんもほろろとは、こういう事を言うのだろう。 私もムッとして、挨拶もせず本を持ったまま大部屋を出て来てしまった。 腹が立つので元通り捨ててやろうと思ったが、拾った司が見ている前ではまずい、と思い直し、亭主の病室に戻ってサイドテーブルに置いた。 そしてそれきり、その本のことは忘れてしまったのだった。

 

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