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魔女のキッチン  作者: 友野久遠
1章 食餌療法開始
3/45

3、亭主がうっかりヨロめくと、ポケットからお札を撒き散らす

 橋本氏の話では、わが亭主どの、倒れたと言っても意識はしっかりしており、実際にはタクシーで行くか救急車を呼ぶか迷うような状況だったらしい。 ただ、かなり深刻な吐き気があったのと、立ち上がると何度でもよろけるのを見ていて、もし脳内出血か何かでタクシーの中で悪化したらと恐ろしくて結局119番したのだと言う。


 精密検査が済んで診断結果が出たらまた連絡するが、どのみち今夜は病院へ泊まりになる、明日出社できなければ家に帰ることになるから心積もりをしていて欲しい、と言われて、なんだか呆然としてしまった。

 電話を切ると、司の声は消え入りそうに細くなっていた。

 吐き気がして目まいがする症状なんて、私も脳内出血くらいしか知らない。 その言葉から連想される単語は、半身不随とか寝たきりとか、恐ろしい言葉ばかりだ。 こんなチビ助二人も抱えて、今亭主にそんなことになってもらったら、一体この先どうすりゃいいんだろう。


 「ね、寝よう。 なんだかわからないがえらいことになる前にとにかく5分でも寝よう。

  つか坊、お前もうテキトーに泣いてなさい、母ちゃん寝るからね。 元気で頑張るのよ」

 母親にあるまじきことを長男に申し渡して横になった。

 実際のところ、夜泣きの大変さと言うのは精神攻撃であって、周りが図太くなって寝てしまえば大した脅威ではないという一面がある。 赤ん坊は泣いている間は、間違いなく息をしているし、所在もわかる。 全身で泣き叫んでいる間は、大したいたずらもしない。

 夜泣きが怖いのは、泣き止んで「夜遊び」に転向した時だ。

 泣きもせずに夜中に起きてしまった赤ん坊は、家の中を走り回ったり、遊んだり歌ったりする。 当然、転んだりぶつかったり落ちたり、ヤバい物を口に入れたりする。 つまり、昼間と同じことを一晩中やらかすわけだ。 追いかける母は、寝不足と同時に昼と同じ体力を奪われ、なおかつ夜間の騒音や他の家族への配慮に胸を痛めなければならない。

 「つか坊が泣き止んで遊び出したら目が覚めますように。つか坊が泣き止んで遊び出したら目が覚めますように‥‥」

 自分の枕をポンポン叩いて、誰宛てなんだかわからないがお祈りをしてから、私は目をつぶった。



 翌朝、8時半。 銀行に行くために司を着替えさせようと追い回していたら、玄関のブザーが鳴った。

 落合さんの奥さんだ。

 落合家は、うちよりちょっと年代が上の家族だ。 小学校3年と5年の兄妹がおり、奥さんは亭主に言わせると、「雰囲気が美人」というわけのわからない外見。 まあ、確かに派手ではないが色が白くて小ぎれいな、いわゆる「男好きのする」女性だった。

 

 「朝早くからすみません。 夕べ主人が遅く帰って来てから聞いたのよ。 お世話になったみたいで、ありがとうございました。で、これ‥‥」

 彼女が差し出した物は、ゴミ袋が1枚と、小さなクッキーの袋。

 これだ。 社宅を生き抜く知恵というのがつまりこういうことなのだ。

 借りた物は細かい物でも必ず返す。 しかも何か付ける。 相手がその話を誰かにしてしまわないうちに、ノシ付けてオマケ付けて頭下げて返す!!


 「主人がね、『地獄で仏を見たよ』って感謝してたわ。 今日は日帰り出張だったから、朝が早くて大変だったのよね。 あ、そのクッキーは気にしないでね。 店での余り物だから早めに食べちゃって」

 「店って、お勤めされてるんですか? あら、“シルフィーベーカリー”じゃない」

 クッキーの外袋には、アパートのすぐ裏に最近出来た手作りパンの店のラベルが貼ってあった。 賞味期限はまだまだ先だから、そうは言ってもわざわざ買って来た物だろう。


 「そうなの。 まだ子供たち小さいから、昼間働くのはいろいろ心配でね。 ここって、早朝の3時半から6時半までパンの仕込みをやってるのよ。 これなら家族が寝てる時間だから、気兼ねなく出て行けると思って。 その代わり、もう眠くて眠くて」

 「が、頑張りますねえ」

 それで昨日の朝、まだ奥さんが帰ってないうちにご主人が出発したのか。


 こういう話を聞くたびに、なんでそこで奥さんが家族に気兼ねをせにゃならんのかと情けなくなる。

 共稼ぎって、なんだろう。 うちの亭主も含め、世のダンナ様方は奥さんが外で働きたいと言うと、

 「家事をちゃんとやれるなら、やってもいいよ」なんぞとおっしゃるようだ。

 それでもって、「俺って理解あるな」と悦に入ったりされちゃうようだ。

 それははっきり言ってまちがってるぞ。 家計を助けるために働くのに、「家事をやれたご褒美」みたいにしたいのは、見栄だか見解の相違だかなんだか知らんがとにかく大きな間違いだ。

 考えても見て欲しい。 奥さんが疲れているのをお手伝いしようとして、

 「食器洗ってあげるよ」

 とあなたが言った時、あなたの奥さんはこう言いますか。


 「明日の朝会社に遅刻しないのなら、洗ってもいいわよ」


 

 「それより落合さん、こっちこそすみません。 司がゆうべうるさかったでしょう」

 そうそう、うちだって、やることやらなくちゃイケナイのだ。 顔見て別れるまでに、必ず口にしとくのだ。 負債はなるべく残さないのが、社宅マダムの鉄則。

 「もう泣き出すと抱いても歩いてもダメで、外に出ると瞬間黙るんだけど戻ると泣いちゃって、しまいにはどうしていいのかわかんなくなってボーっとしてるんですよね」

 「あはは、あたしは3時半出勤だから起きて準備しながら気がついたけど、その程度よ。 うるさいなんてことはないわよ。 ダンナも子供たちも気付かずに寝てたもの」

 ということは、やっぱり声は漏れてるわけだ。

 「すみません」

 「何でよ。 こっちがお礼しに来たんだし。 ほんとありがとうね」


 

 落合さんが帰った途端、私は飛び上がり、ダッシュで外出の支度を再開した。

 「9時ジャストに出せるように入金してくれないか。 検査料が足りないんだ。 CTスキャンとかやっちゃったし、一晩宿泊になってるし。 いや大丈夫、血管切れてるとかそういうものは出なかった。 目まいはまだちょっとするけど、なんとかなるよ」

 明け方近くなってから電話してきた亭主は、元気なのか元気そうにしているだけなのか、笑いを含んだ声でそう言った。

 「待ってよ。 何も出ないって、その方が大変なんじゃないの? どうして倒れたかわかんないってことでしょ」

 「いや、倒れたって言っても、ふらふらするもんだから回転してひっくり返っただけで、意識がどうかしたとかじゃないんだぜ」

 「その目まいの原因はなんなのよ」

 「まあ多分、寝不足とかなんかで‥‥」

 

 寝不足って、8時間いびきかいてることを言いますか。 そんなんで検査料と夜間治療費と初診料と一泊分宿泊代(しかも3時半なのにまだ寝てない宿泊だ)しめて2万3千5百円かかるなら、カプセルホテルで睡眠薬入りの風邪薬飲んで無理矢理寝てて欲しかった!


 「それだけセレブな検査のラリーをやり倒しても、ほんっとにほんっとに、寸分の異常も出なかったのね?」

 言葉に毒をたっぷり込めて言うと、私のもと王子さまはぐっと詰まった。

 「いやそのまあ‥‥。 帰ってから話すよ」

 「あるんかい!!」

 「その前に多分、市内に戻ったら保健管理センター(ホケカン)に寄る事になると思う。 そこで、夜間に出来なかった検査の残りをやることになるから、そっちの料金も一緒に振り込んでおいてくれる?」

 私はあきれた。

 「まーだ検査したりないっての」

 「食事してたら受けられない検査もあったからさ。 頼むよ」

 「どれくらい入れとけばいいの」

 「わからない。 今回の分から宿泊代引いたくらい入ってれば、絶対大丈夫だと思う。

  あ。 でも倒れた時に、店の中の物が割れたりしたから、3千円置いてきたな。 それと転倒した拍子に腰をひねって痛いから、あとで接骨院に行くぶん2千円足しといて」

 「‥‥5万円、まとめて入れとく」

 文句を言うよりも現実的な怒りがこみ上げて来たので、口をつぐんで電話を切った。


 「くそー。 ひとヨロケ5万も使いやがんの!!!!」


 心配そっちのけで腹が立って来た。

 5万と言ったら大金だ。 そりゃ、当の亭主様が働いて、ありがたく家に入れてくれたお金ではあるけど、そのありがたいお金様を、酒場でヨロッとして5万!!

 決してケチとは思わないが、菓子パンの外袋を見て、

 「あ。 これ駅前のスーパーの方が10円安いよ。 遠くじゃないんだからそっちで買えよ」

 何てチェック入れる男が、ひとヨロ5万! 風呂場の電気が点いてたとか、まだ使えるシャツを捨てたとかで20分くらい説教たれる男が、ひとヨロ5万! 古本屋で買う本を、どんなに読みたくても100円に下がるまで買わない男が、ほんとにもう、ひとヨロ5万!!!!


 「行くよ、蘭。 今月のメニューは来る日も来る日も、豆腐とモヤシに決まりだぜィ」

 司をベビーカーに詰め込みながら、私は言い捨てた。

 でも、この台詞がまさか相当近いカタチで実現することになるとは、またしても想像だにしなかったのだった。

  

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