14、その時それは、手紙ではなく、岩の重さで落ちて来た
その晩、8時。 亭主の病室のベッド脇に、サイドベッドのほかに小さな寝椅子を入れて貰い、蘭は紙おむつとおねしょシートで完全武装してそこで寝ることになった。
「お話してやるんだろ。 俺にもして」
普段は寝る前に、子供たちに本を一冊読むか、お話をひとつしてやることになっていた。 それを亭主が一緒に聞きたいと言う。 完全に蘭の付録気分だ。 こういう時におおっぴらに甘えとこうと思うのかも知れない。
本がないのでお話をすることにしたが、いつも私が子供に話してやるのは、極めていい加減な思い付きのストーリーである。 『小説家になろう』に投稿したら、きっと誰も読んでくれないに違いないような馬鹿話だ。
子供相手だからいいのであって、大人に話すのはどうなんだ、こんなの。
「たかゆきくんとひろゆきくんは、ライターで火遊びをしていました。
火遊びはいけないよと教えて貰っていたので、怒られないようにパパとママの留守にやったんです。 いいことですか? 蘭ちゃん」
「いけないことー」
「そうです。 悪い子になったので、悪魔が出て来ました。 悪魔は炎の中から出て来て言いました。
『火遊びするのは悪い子だ。 悪い子は俺が食ってやる。
知ってるか? 悪い子って凄くおいしいんだぞ。 ほっぺが落ちちゃうくらいうまいんだぞ』
たかゆきくんとひろゆきくんはびっくりして、一生懸命謝りました。
『ごめんなさい、もうしませんから許してください』
『お願いだから食べないでください。 どうすれば食べずに帰ってくれますか』
すると悪魔は言いました。
『ほっぺが落ちちゃうくらいおいしい物をあきらめるんだから、お腹がよじれるくらい面白い物を見せろ!』
そこでたかゆきくんとひろゆきくんは、なんとかして悪魔を笑わせようとしました。
はい、蘭ちゃんなら何をやりますか」
「一発芸! 豚の兄弟! ぶこぶこ」
「『おもしろくない! 食っちまうぞ』と悪魔は言いました」
「えええー! んじゃあモノマネやります、『アイーン』」
「『なんじゃそりゃ?』だめです、悪魔はテレビを見たことがありません」
「うわーそっかー、じゃあね、じゃあね、はだかで踊るとか」
「『おやじの宴会芸か?』これも受けなかった」
「じゃ、じゃーねー、えーとねー」
なんのことはない、途中から考えているのはほとんど子供。 私の頭が次の展開を思いつくまで、こうして延々と時間稼ぎをしながら、子供が眠くなるのを待つのである。
聞きながら先に寝たのは、何も考えなくていい亭主の方だった。
二人が寝付いた後、給湯室でポットにお茶を入れたり洗濯機を回したり、雑用の為に廊下をうろついていると、詰所から看護師さんが顔を出して、ちょっとちょっとと呼ぶではないか。
「香川さん、ちょうど良かった。 今ちょっとその、お電話なんですけど」
「私に?」
「いえ、ご主人になんです。もう消灯したのでおつなぎ出来ないと言ったんですが、伝言では長くなるとか」
時計を見ると9時過ぎだ。
こんな非常識なことをするのはてっきり麻生に違いないと思ったので、詰所の電話で取らせてもらうことにした。
すると受話器から、会社の受付嬢かと思うような滑らかな声が流れて来たので面食らった。 麻生ではない。
「夜分にお電話いたしまして大変申し訳ございません。 私、香川主査のチームで仕事をさせて頂いております小見山と申します。 いつもお世話になっております」
なんと、電話の主はマダムの射手。
一瞬私は、亭主が会社をクビになりかけているとか、そういった非常事態を想像した。 小見山のしっかりした流暢なしゃべり方を聞いていると、こんなにちゃんとした人間が大慌てで電話をくれるくらいだから、これは命に関わっても知らせておかなければならないことがあるに違いないと思えたからである。
ところが小宮山の話は歯切れが悪かった。
まず亭主の体調を尋ね、私の看護の労をねぎらい、高脂血症やダイエットについての雑談に移った。
「奥さまは大変なんだ偉いんだ、おれは病気してから頭が上がらなくなったって、いつもおっしゃってますよ。
私も昔は細身だったのに、病気して薬の作用で太ってしまって、体重減らそうとしてるんですけど、食事を管理しようと思ったらすごく大変ですよね」
「はあ、そうですね」
相手の真意が見えてこないので、私のセリフは生返事になる。
小見山はそのまま話を締めに持って行き、
「それではこんな時間に申し訳ありませんでした」と言ってから、ちょろりと本音の舌先だけのぞかせた。
「もう少しお元気になられてから、お見舞いに伺わせていただきます。 麻生さんなんかはこっちで止めてももうお邪魔してるみたいですけども。 ……ですよね」
「はあ、まあ」
「やっぱり。 もしかして今日もお邪魔しましたか」
「ええまあ」
「そちらに持ち込まないように私は止めたんですよ。 そんなこと言ってませんでしたか」
このあたりでようやく、話の内容がつかめて来た。 小見山は、麻生の話がしたくて電話をして来たのだ。 同僚を心配して、というなら美しい話だが、以前見た限りでは、この女性二人の仲がよさそうとは、どう好意的に見ても考えられなかった。
しょうもない展開になりそうなので電話を切りたかったが、あとでまた主人を相手に蒸し返されたらそれこそ面倒なので、こちらから水を向けて放散させることに決める。
「麻生さんは、スーツがどうのと言っておられましたよ。 私にはよくわからなかったんですが、どういうトラブルなんですか」
「ああ、スーツ」
小見山の声に、控えめだが揶揄するような笑いが混じる。
「麻生さんのスーツの趣味って変わっていて、以前もすごい派手な水色のを着てたから、お仕事にはどうよって私が注意したら泣いちゃったことがあって。 それで今回、パンツが透けてるのを私、気が付いたんだけど言えなかったんですね。 男性の社員さんが『女同士で注意してやれよ』って言ってこられたんですけど、私ばっかり悪者になるみたいでいやで。 そしたらお昼に他の人がメールで注意したらしくて、結局泣いてましたね」
こっちが決めつけるのは正しくないのかもしれないが、かなりどうでもいい話だ。 こんなくだらないトラブルまで、いちいち上司である亭主が耳を傾けてやっているのだろうか。
母親の迷走雑談を3分聞いただけで受話器を投げ捨てる男が、まあよく辛抱していると思う。
いや、辛抱しすぎだ。 第一、そのことを家で愚痴ったことがない。
なんだか嫌な予感がした。 以前、浮気を疑ったときは、黒い封筒に入った「手紙」が胸の中に落ちてきた感じだったが、このたびは「鉛」か「岩」の大きさだ。 つわりで不安定な胃の腑が、さらに押しつぶされそうな不快感できしみ始めた。
そう、以前は亭主も、よく女同士のトラブルの相談を私にしていたのだ。
「職場に女が二人いると難しいな。 手が遅いのと早いのとを組ませたら、一人が結果的に仕事を丸取りして、『あの人、何にもしてくれません』って怒るだろ。 で、もう片方は『私に何もさせてくれない』って怒るか、『きっと私は無能だと思われてるから話がしにくい』とか言ってひがむんだよ。 どうやったら仲良くするんだ」
私にしてみたら、一つの場所に家族でも親友でもない女が二人いて、完全に仲良くさせようと幻想を抱く男の感覚がおかしいのである。 そこそこ威張らせたりひがませたりしておけば、ギスギスしながら辛うじてやって行くからほっとけばいいのだ。
それにしても、この程度の問題で相談していた亭主なのに、増してや麻生は、間違いなくトラブルメーカーだろうに、なんで今まで一言も私に愚痴を言わなかったのだろう。
「小見山さん、麻生さんはどうしてあんなに主人をあてにしてるんですか?」
ふと質問が口を突いて出た。
「正直、ちょっと行き過ぎのように思うこともありますよ。 そういう話があるたびに、主人が麻生さんをかばってるんですか? 個人的に仲が良かったりもするんですか」
小見山が急に黙り込む。
「はっきりおっしゃって下さい。 そういう話を私が知っているかどうか、確かめようと思って麻生さんの話をなさったように感じました。 違うんですか」
小見山は何か言いかけたようだったが、結局口にしたのは否定の言葉だった。
「そういう話じゃないんです。 やだ、奥様、もしかして恋愛結婚ですか」
取ってつけたように言って、小さく笑った。
電話を切って病室に戻ると、亭主も蘭もぐっすり眠っていた。 ピッピッピッピッと心音を刻む機械音が、改めて聞くと馬鹿にうるさく響く病室だった。
「ほんとに恋愛結婚なのかな」
突然そんなことを考えた。 子供がいて、亭主がいて、こんな時にこんな場所で考えるにはあまりに滑稽な場面だった。 あの大変だった食餌療法一年生の頃ならともかく、今は看病に力を注いで、ほかのことは気にならなくなる時ではないのか。 亭主に心酔できないまでも、献身的に頑張る自分に惚れ惚れしてやっていけば問題ないんじゃないのか。
「そもそもなんだってこの男を選んだんだったかな」
「なんだってホコシン香川を選んだの?」
ずっと以前、そんなことを友人に聞かれたときも答えられなかった。 この友人はチャコと言って短大の同級生、卒業後も当分一緒に飲みに出たりしていた仲だ。 人にあだ名をつけるのが、とりわけ他人の彼氏にとんでもない凝ったあだ名を進呈するのが大好きな変人だった。
「今日子、今、恋愛オーラ全然出してないじゃない。 それでなんでホコシンとなの? せめて『リンゴ屋』ならまだわかるけどさ」
ホコシンというのは『歩行者用信号機』の略だ。 アルコールが全くダメな亭主が、一杯飲んだら真っ赤になり、2杯目で青くなってトイレに駆け込む様子を目にしたチャコが「赤⇒青⇒点滅」と皮肉ったのがあだ名の由来であるらしい。
そして、「リンゴ屋」は亭主の親友の日浦のことだ。 この男は小・中学校が私や亭主と一緒で、亭主とは小学校時代から、私とは高校時代から遊び仲間をやってくれている。 私が亭主と付き合い始めたのは、日浦を誘ったときにたまたま亭主が一緒に来たのがきっかけなのだ。 つまり、私にとっては亭主より日浦の方が付き合いが長い。
女の子をエスコートするのとリップサービスが趣味と公言していた日浦は、付き合ってみると意外に安全パイで、「磨くだけで齧らない男」ということで「リンゴ屋」とあだ名を付けられた。
私がこの日浦と亭主を天秤にかけて、結局亭主を選んだのだ、と、チャコは思っていたらしい。 しかし実際はこの当時の私の恋心は、全然あさっての方を向いており、しかもすでににっちもさっちも行かなくなっていたのだった。