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魔女のキッチン  作者: 友野久遠
1章 食餌療法開始
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2、深夜の電話と子供の夜泣きとどちらが主婦のストレスを増やすか

 ゴミ出しは6時半までに済まさねばならない。

 その時間に出さないと、子供の手を引いて歩かなければならなくなる。 1歳と2歳半の年子の姉弟は早起きで、当たり前のことだが四六時中家にいて飯を食らう。 寝ているうちに出来ることは極力済ませておかないと、結局自分が泣くことになる。


 「おはようございます」

 ゴミ置き場から戻る途中で、落合さんのご主人に出会った。

 落合さんは我が家のすぐ下の403号室の住人で、濃い目の細面が印象的な旦那さんだ。 そして羨ましい事に、毎朝必ずゴミを下げて出勤する姿をご近所に見せても、男でございと踏ん張らないらしい。

 むしろ、この朝もっと踏ん張って欲しかったのは、パンパンに中身が詰まった落合家のゴミ袋だった。

 「おはようございます」

 私に笑顔で挨拶を返した途端、落合さんのご主人の持っていた生ゴミの袋が、もう辛抱たまらんとばかりに弾けた。 夏の日の鳳仙花の種みたいに中身が地面に撒き散らされる。

 「おわわッ」

 「あらららッ大変!」

 落合さんは、袋とゴミを見比べて、それがもう元の状態に戻すこと叶わぬと思ったのか、真っ青な顔で自宅の窓を見上げ、腕時計を見た。


 「時間がないんですか?」

 「その、え、駅まであと5分で行かないと」

 「いいですよ。 片付けておきますから、お出かけになってください」

 「え? え? いいんですか?」

 すがりつくような目で見られると、あとでゴミ袋一枚返してねとは言いにくく、

 「大丈夫ですから行ってらっしゃい」

 ついつい良いご近所さんをやってしまった。 まあ狭い社宅に住む同士、この種の親切がアダになることは少なかろう。

 

 このアパートは某大手企業の社宅である。 社宅と言うと、人付き合いが難しく、たとえば上司の奥さんに奥さん同士まで威張られている、とかいったシガラミ満点のストレス社会だと思い込んでいる人がいるが、私には社宅が取り分けてひどいものとは思えない。

 いや、ストレスはある。 あるがそんなものは、奥さん同士の密集したアパート付き合いなら別に社宅じゃなくてもあるし、女子高のクラスの中にだって、PTAにだってママさんコーラスにだって、女というセイブツが密集する場所なら、どこにだって相当濃厚にあるものなのだ。

 そこは共学や男子校しか知らない人には、絶対に理解不能な怪しい世界。 何が怪しいかって、やってる本人たちそれぞれがものすごくしっかりしすぎていて、あまりに度が過ぎるために、自分たちが何やってるのか大して把握できてないところが一番怪しい。

 だからそういうところの常識と言うものを身につけてさえいれば、そこそこにうまくやって行けるものなのだ。


  たとえば人の噂話を聞くときは、「そうですね」と相槌を打ってはいけない、「そうなんですか」と自分が賛成してないことを明確にしろとか。

 たとえば井戸端会議にはほどほどに参加するようにして、その時に自分の失敗の言い訳とか将来文句を言われそうなことを先取りした相談とかを、さりげなく回りに流しておくとか。

 

 そんな小細工が通用しない地雷女が引っ越して来たらお手上げだが、その確率は社宅でないアパートでも大差ないだろう。

 社宅が人間関係で特別厳しい理由があるとすれば、にっちもさっちもいかなくなった場合でも転出できないからだろう。 どうしようもなくなって、希望を出して転出したら、行った先の社宅にすでに噂が広がっていて‥‥てな感じの恐ろしい噂もいくつか耳にしたことがある。


 「なんか、目が回る気がするんだよな。 ふらふらする」

 亭主は出掛けまで体調不良を訴えていた。

 「休んで病院へ行ったら?」

 「馬鹿言え、出張を反故にしたら全体の信用に関わる。

  今夜は島根泊まりだから、明日夜帰ったら、あさって休み取って病院に行くよ」

 「保険証持ってってね」

 「おう。 でもチビ共が怪我でもしたらまずくないか」

 「大丈夫よ、あとからでも持って行けるわ」

 「わかった。おお、もう出なきゃいかんぞ」

 「行ってらっしゃい」


 そうして亭主は1泊2日の出張に出かけて行った。

 念のため持たせた保険証が大活躍するような事態が20余時間後に起きるとは、このとき私は思ってもみなかった。



 その連絡が入った時、我が家の長男は夜泣きの真っ最中だった。

 長男の(つかさ)は第2子である。 2番目の子は育てやすいなんていう人もいるが、彼はお姉ちゃんの(らん)より数倍も手がかかる。

 そもそも出産の時すでに自力で産道を通れず、急遽帝王切開になったのを皮切りに、慢性の下痢や高熱による痙攣、原因不明の発疹と、実に多彩な心配事を生み出す天才のような赤ちゃんだ。 大病をするわけではないので、かえって解決しない不調を気にしてイライラしている期間が長く、親にしてみるとストレスの多い子育てである。


 この長男が、1歳を過ぎたころから時々夜中に泣き叫ぶようになった。 夜驚症というのか、寝ていたものがいきなり飛び上がるように起きて、火がついたようにヒステリックに泣く。

 これが始まると、抱こうがあやそうが一時間は止まらない。


 「よーし、わかった。 もう好きなだけ泣け」

 私は司を布団の上に転がすと、長期戦に備えて台所からコーヒーを入れた自分のカップと読みかけの文庫本を持って来た。 ついでにトイレも済ませて戻ると、泣き叫ぶ息子の側にあぐらをかく。

 「お前も人として生まれたからには、泣きたい夜もあるんだろう。 父ちゃんがいないから明日の朝は母ちゃんもゆっくりしてていいし、まあ気が済むまで泣いてみろ。 声枯れで死んだやつはおらん」

 ゆとりのある台詞に聞こえるが、要するに、ついにヤケを起こしたのである。

 隣の布団では、蘭がぐうぐういびきをかいて眠っている。 弟がこれほど騒いでいることも、熟睡型の彼女には全く問題にならないらしい。

 だから、明日亭主が突然帰って来たりしない限り、ここで問題になるのは、ひとつのことだけである。 つまり、このうるさすぎる泣き声のフォローを社宅の人たちにどうするか、だ。


 「みかんをひと箱、買って来るのはどうだろうねえ、つか坊」

 泣き叫ぶ司に話しかける。

 「こっそり買って来て、『実家から送って来ました』とおすそ分けに持って回るの。 その時にさ、『夕べはうるさくなかったですか? すみませんね、こうやったりああやったりしてなんとかしようとしたんですけどぉ。 ああいう時って何かいい方法ないんですかねえ』って言うのよ。 もちろん社宅中に配るわけに行かないから、やかましい人だけよ。 302の大沢さんとか、105の宅間さんとか、もちろん401の紺野ばばあには絶対よね」

 何を言っても大声で泣き続ける司に、みかんを口に突っ込んでやりたいやかましい人はおまえや!と言いたくなった、その時だ。 電話のベルが、遠慮がちにウルウルと鳴りだした。 遠慮がちに聞こえたのは、司の声に半分以上そのボリュームをそぎ取られたせいであって、夜中の1時だからといって、そっと鳴ってくれた訳ではもちろんない。

 受話器を取る前に、泣き声で相手がビックリしないように電話機ごと移動しなくてはならなかった。


 「夜分に申し訳ありません」

 ああ、相手が恐縮している。 年寄りではない男性の声だ。 自分のせいで赤ちゃんを起こしちゃったと思っているんだろうなと思ったら、気の毒になった。

 「私、鳥取支社の橋本と申しまして、ご主人とは2年前の研修でご一緒させていただいた者です。 今夜は再会を祝して一緒に飲みに出たんですが、その‥‥ご主人、飲み屋で倒れられまして」

 「えッ!!」

 「あわてて救急車で病院に運びまして、今、精密検査をしています。 症状は目まいのひどいやつみたいなんですが」


 一瞬、あわててしまったらしく、何を考えたらいいのかわからなくなった。 その朝持たせた保険証のことが頭に浮かんだ。 持たせて良かったということではなく、あんな物を持って行くから病院が寄り付いて来たじゃないか、といった、なんだか恨みがましくイジマシイ発想だった。 要するに動転して、休むに似たりの雑念しか頭に浮かばなかったということらしかった。 

 

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