表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔女のキッチン  作者: 友野久遠
2章 はじめまして心臓さん
19/45

4、亭主は嬉しくない検査、私は嬉しい検査を受けるが、懐は一緒だ!

 カテーテル検査の説明(オリエンテーション)の様子は、医師の許可を取ってカセットテープに録音したものが残っている。

 素人である亭主と私は、どうせ専門的なことを聞いても通り一遍にしか理解できはしないと踏んで、せめてメモし忘れました、みたいな抜け落ちが防げるようにと記録しておいたのだ。 あとあと、親や他の関係者から突っ込んだ質問をされたとしても、「あらどうだったかしら」と頭を掻く前に、直接テープを聞いてもらった方が確実に納得してもらえるだろう、とも思ったわけだ。


 ホケカンから紹介されたのは、大学病院の伊丹という若手の心臓外科医だった。

 私の記憶では、年末のあわただしい時期にあたふたと病院に行ったように思っていたのだが、記録を読んでみると1月7日とある。 なんだかんだで年を越してから発車したわけだ。

 

 テープを再生して聞くと、ものすごく頭のいい医師と、おっとりしたお馬鹿な夫婦の会話としか思えないちぐはぐな音声にあきれ返る。

 「今回は、左手首あたりの血管に針を刺して、そこから極細の管を入れます。 この管の名前がカテーテルです」

 「……はー」

 「それを血流に乗って心臓近くまでゆっくり伸ばして行って、冠状動脈の付近で止めて、管の中に造影剤を流し入れる。 この液体はX線で撮影できます」

 「……ほー」

 「普通、X線と言うとレントゲン写真を思い浮かべるんですが、この検査では写真じゃなくてビデオで撮影する。 そうすると、管から出た造影剤がちゃんと流れるか、詰まっちゃってどこかで止まるか、その辺のことがライブで動画で見られるわけです」

 「おおー」

 

 カセットから流れて来る亭主と自分の声を聞いていると、このアホ夫婦、絶対8回くらい振り込め詐欺に逢ってるだろ! と言いたくなるようなボンクラな返事の仕方である。

 本当に、聞いた瞬間は見たこともない検査を思い浮かべるのが精いっぱいで、疑問や不安を並べる余地がなかった。 

 例えば、静脈に針なんか射して、ドーッと血が出たりはしないのか。

 管が血管突き破っちゃったりしないのか。

 造影剤って発がん性物質じゃないのか。

 手術ではなく検査なのに、そこまで危ないことをしなければいけないくらい、亭主の心臓は疑わしいのか。

 普段ならすらすらと出そうなそういった疑問が、その時は何をしなければならないかを考えるのに必死で出て来ない。 誰でもそうであるらしく、説明の後半にはそういう問題点や、過去に質問があった事などを固めて、医師の方から説明してくれた。 箇条書きの説明書まであった。


 

 心臓カテーテル検査の日取りは、翌週15日。 前日の14日から入院して、予備検査と準備をする。

 入院は2週間くらいを予定しておいてほしいと言う。 つまり検査後、異常があれば即座に手術の予定を入れなくてはならないので、その日取りを見越してほしいという事だ。

 そこまで説明されて、ようやく私の心に事の重大さが落ちて来た。

 つまり、カテーテル検査と言うのは、ただ「異常があるかないか」を診る健診とは違うのだ。「異常があるが、どの程度なのか、どこをどうしたらいいのか」を見るものであり、ブツが心臓である以上、この検査を行う時点で、すでに大病をしていると考えなければならないのだ。 そうでないと、こんなに危険で費用のかかることをする意味がない!


 (ああ、またお金がいるんだ)

 悲しいことにそのことだけは、驚異的なスピードで理解できた。



 幸いなことに、費用については何とかできる見込みがあった。

 以前、亭主が「給料だと思って受け取れ」と言ってくれた預金通帳である。

 通帳をくれた後、亭主は奮起してダイエットに精を出し、結構なスピードで職場復帰してくれたので、預金の大半は手つかずで残されていた。 

 相変らずの制限食の食費と、蘭と司のダブル幼稚園の費用で大きく赤字を出しながらも、できるだけ通帳には手を付けずに頑張って来たのだ。 さすがに冷蔵庫が壊れて突然買い替えになった時には、どうしようもなくてお世話になってしまったけれども。


 検査と入院の費用くらいはそこから出るし、本格的な手術になったとしたら、高額医療費の控除とやらで保険が下りると聞いているから大丈夫だろう。



 とすると、次の問題はアレである。

 「おい、お袋にはまだ言うなよ」

 大学病院を出た途端、亭主の台詞はそのことだった。

 「言うなったって、言わなきゃならんでしょうが」

 「だから、検査の段階だからさ。 もし手術ってことになったら初めて言えばいいじゃないか。

  早々と言うと、あれはどうなるこれは大丈夫かって心配して夜も眠れないくらい悩むからさ。

  言っとくが、心配するのはお袋だが、眠れないのは電話攻撃を受ける俺の役になるんだからな」

 「逃げ腰ですなあ、ご長男」

 「逃げたくもなる。 堪らんぜあれは」


 この亭主の言いぐさを聞いた人は多分、母親の香川モリ子という人物を、さぞかし勝気で口八丁のモーレツママと思い込むだろうが、実際は逆である。 彼女は、誰に聞いても「あんないい人はいない」「いつも自分のことは後回し」「几帳面で真面目で上品」と絶賛の声しか帰って来ない、大変な天女様なのだ。 そう、亭主が恐れているのは、自分が天女をいじめる鬼・悪魔の仲間に分類されかねない事態を起こす「かもしれない」事なのである。


 姑・モリ子、子供たちから「サニーばあちゃん」と呼ばれるその人は、心配性で几帳面で子供思いだ。

 だから少しでも気にかかることがあると、電話を掛けて来る。

 その、心配事だらけの内容と、彼女のまとまらない会話文が、うちの亭主にはどうしても我慢が出来ないらしいのだ。


 「きのうね、JJカードって言うのがハガキで来てたけど。 カードが来てたんじゃなくてハガキが来てたのがカードの内容の問い合わせだったんだけど、まだ書き換えをしてないみたいで。 ああいう物の書き換えは早めにしないといろいろ面倒だから。 こないだもね、保険の三井さんっていたでしょう。 あのお嬢さんだった人が結婚してすっかり落ち着いちゃって、それで家に来たのね。 その時私、まだパジャマを着てたもんだから慌てちゃって。 そりゃたまたまお休みだったからゆっくりしたいじゃない。 それでね、保険、そう保険の話をしたのよ。 その三井さんが言うのにはね、この頃入院が一日目から付いてる保険が主流になってて、そっちに書き換える活動をしてますって、お前の保険ってどうなってたっけ? たしか2日目からじゃなかったかと思うのよ、見て置いてちょうだいね。 書き換えするのに時間かかるじゃない、私の時も、何かで書き換えしてる途中に風邪をひいて喘息が出ちゃって、入院になったらどうなるかって肝を冷やしたことがあったじゃない。 やだ、去年のことなのにもう忘れたの? 11月に京都に行った時、旅行先で熱を出して清水さんにお世話になったじゃないの。 お前も出張だなんだで出かけることが多いんだから、出先で風邪なんかひかないようにしてね。 今年のインフルエンザの予防接種はもう済んでるの? たちの悪いのが流行りそうだから気をつけろってテレビで言ってたわよ。 こないだもほら、角の橋本さんとこのお爺ちゃんが風邪をこじらせて亡くなったの、お葬式に行ったら、すごくいい施設でね。 〇〇祭典の お葬式はいいわよ。 お前のところ、互助会は何に入ってるの? 今日子さんに聞いておいてちょうだい。え? 何の用事でかけたかって。 ええと何だったかしら。 そう、だからJJカードの問い合わせ。 え?もう脱会してるの?」



 はっきり言って、うちの亭主は短気である。 一般の人の平均が10mであるとしたら、亭主は1,2mくらいの長さしかない。 それくらい気が短い。

 じっと待つのがとにかく苦痛、守りに入って動かないのも苦痛。 誰かと待ち合わせをするにも、遅れても怒らない相手の時は必ずみんなが集まってから現れるし、家族で出かけるときは「おい出るぞ」と全員を玄関に呼び寄せて置いてから自分の着替えを始める。 たまに待たされると2分で怒って帰ってしまう。

 ドライブ中も信号が赤になると、待つのが嫌でやたらと迂回して狭い路地を抜けようとする。 地図のない場所に初めて行く時は、必ずポイントよりも手前で曲がってしまう。

 そんなくだらないことでしょっちゅうイライラしているから、血液がどんどん濃くなって滞るんじゃないか、あれは実は沸騰して干上がっているんじゃないか、と思う事があるほどだ。


 こんな超短気な亭主が、「本題に移るまでに30分も他の小言をうろつく」母親のテンポに耐えられよう筈はない。 女である私にとっては、雑談として聞き流せば罪のない話なので大して苦にならないのだが、亭主にとってはこの母との電話が苦行にも等しい艱難辛苦であるらしい。

 「あんたはもう何が言いたいんだ、もう切る!」

 以前そう言って電話を切ってしまい、次の日に「一平が冷たい」と泣かれた妹や叔父叔母に猛烈抗議の電話攻撃を受けて、閉口していたこともあった。



 「検査入院するってことは言っとかなきゃだめじゃない?

  突然『いまもう入院してるけど手術するから』ってやったらそれこそ大変よ」

 「お前、言っといてくれ」

 「……はあ」

 そんなことして逃げたって、私と2時間くらいしゃべったあとで、

 「一平と代わって」

 と言うに決まっているのに、どうしてもぎりぎりまで逃げていたい亭主なのだった。



 さて、費用と人間の方は何とかすることにして、もう一つ、私には抱え込んでいる不安があった。

 次の日に、今度はひとりで別の病院に行き、検査を受けて見た。

 亭主は会社、蘭が学校に、司は幼稚園に行っている間だ。


 「陽性、出ましたね。 2か月目に入ってます」

 産婦人科の医師が、明るい声でおめでとうを言ってくれた。

 おめでたいのかも知れないが、喜びにくい絶妙のタイミング。 お金も機動力も必要な時に、大丈夫だろうか。    

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ