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魔女のキッチン  作者: 友野久遠
1章 食餌療法開始
15/45

15、亭主に言われて一番うれしかった言葉と、貰って一番うれしかったもの

 この晩の落合家の通夜の様子は、思い出すのもつらい。

 葬という字の付く祭典である以上、悲しいのは当然なのだが、ご主人亡き後残された母子の憔悴した様子は、見る者の胸を痛ませた。


 狭い室内は、ご遺体と祭壇だけでほとんど足の踏み場もない。 玄関で弔問客を迎えた奥さんは、姉らしい人に始終支えられてやっと立っているような状態で、その顔は泣き疲れたせいか、かえっていつもより無表情に見えた。

 姉の瑞樹ちゃんと弟の雅人君は、母親の横で下を向いたまま唇を結んでマネキンのように固くなっており、室内に入って座った後も、棺や祭壇の方を決して見ようとしなかった。

 読経が始まっても、奥さんはやはり無表情のままだったが、時折何か思い出すらしく、ひどく唐突にハンカチに顔を伏せ、オワッと場違いに大きな嗚咽の声を漏らした。 その声を聞くたびに、弔問客たちはびくっとして顔を上げ、理由もなく申し訳ない気持ちになって慌ててうつむく。

 

 知人の葬儀に出たのはそれが初めてではなかったが、こんなに緊張を強いられた式は初めてだった。 

 何の覚悟もなく突然に家族を失うことが、どれほど強烈に人を打ちのめすか、まざまざと見せつけられた思いがした。



 亭主は喪服の装着に困ったあげく、主治医に相談してギプスを外して貰いに行った。

 そうしてまだ腫れの残る足を、喪服のズボンに無理やり突っ込み、ぱっつんぱっつんになって通夜に列席したのだった。 絶対に正座するなと言われたらしく、目立たぬように玄関の外から両手を合わせて読経を聞いていた。

 もっとも、室内に入りきれない人は他にも居て、みんな焼香だけ済ませた後、同じように階段の方まで後退して合掌していたので、亭主が正座しない事はほとんど目立ってはいなかった。


 私も、連れて来た司がじっとしていないので、やむなく読経の間、一度家に戻ったりしていた。 そんなわけで我が家で一番優秀な弔問者だったのは、2歳の娘、蘭だったことになる。

 このおっとり型の長女は、私が司を連れて家に戻る時、和室で大人たちの中に埋没して座ったまま取り残されてしまったのだが、「動いてはダメ」と言った私の言葉を忠実に守ってじっと座っていた。 生まれて初めての異様な風景に気を飲まれて、取りあえず周りに合わせようとしたのかも知れない。


 式が終了した後、亭主と一緒に喪主に挨拶に行くと、落合さんの奥さんは最初の頃よりもだいぶ落ち着いてきたようで、お世話になりましたと頭を下げた。

 「どうも、申し訳ない。 近くに居ながら、何も助けてあげられませんで……」

 亭主が言うと、奥さんは激しく首を振った。

 「助けなきゃいけなかったのは私です。 近くに居なきゃいけなかったのも私……。

  私ダメな奥さんで、こないだの健診で気をつけろって言われてたのに、何もしてないんです。

  主人はいっつも帰りが遅くて、家で夕飯ろくに食べないんで……」

 「仕事が忙しかったんですね。 新プロジェクトのメンバーだったの知ってますよ」

 「でも私、香川さんとこみたいにいい奥さんしてないから。

  どうせ夕飯要らないなら早く寝て、早朝パートに行こうって。

  で、結局朝ごはんもお弁当も作れなくなっちゃって。 自分と子供のことばっかり……」


 落合さんはこらえきれなくなって、とうとう声を上げて泣きじゃくった。

 「やらなきゃよかった。 やらなきゃよかったあんなパート!!

  そしたら発作の時、きっと一緒の部屋で寝てたし、きっともっと早く、救急車もっ……」

 「奥さん、もう……」

 泣きながら震えが止まらなくなった奥さんを、お姉さんがまた支えに来た。

 「もうやめなさい、あんたのせいじゃないってば」

 小声でなだめながら、私たちに会釈ひとつして、お姉さんは彼女を台所へ連れて行って水を飲ませていた。


 私は何も言うことが出来なかった。

 落合さんの悲しみが、連れ合いを失ったことだけではなかったという事が、私にとってはとても重い事実だった。 彼女は喪失感と同時に、襲って来る後悔に苦しめられていたのだ。

 亭主の側にいなかった罪。 健康管理をしなかった罪。


 「香川さんは優しいから」

 他の人にも言われたが、私は優しい妻だから食餌療法をやったわけじゃない。 そうしないと出社できないと言われなかったら、きっとしなかった。

 その上、それさえも昨日付けで仕事放棄したのだ。



 

 「身につまされるな。 他人事じゃない」

 亭主が我が家の玄関に入った途端、押し殺した声で言った。 

 それじゃ今まで他人事だったのかいとは、その場では言わなかった。 


 その時私と亭主は、間違いなく心に同じ思いを感じていた。 不安というマイナスの思いではあったが、同じ不安に心を浸しているのは久しぶりのことだと思った。

 出会ったころは同じ小学生だった。

 その後、中学・高校と進んでも、互いに学生という同じ立場だったから、会って話をしてもさほどの距離感はなかった。

 就職した時期は違ったが、親が口うるさいとか上司がめんどくさいとか、多少の差はあっても同じテーブルの項目を上げることが出来るので不自由は感じなかった。

 ところが結婚して「夫」と「妻」というそれぞれの立場に分裂した途端、全く噛みあわないことが増えて行った。 亭主は「一家の主」として君臨しようとする余り、ことあるごとに自分が軽んじられているのではと疑い、私は私で「いい妻」として一歩下がろうと努力しながらも、どこか割り切れずに足掻いていたのだ。

 家を守っているのは自分なのに、それを掲げて口上を述べることが何故許されないのか。

 その不満がいつも胸の中でくすぶって、ともすれば憎しみに転じる。 私はそんな自分の醜さから逃げたかった。

 だって誰でも、王子様と結ばれた瞬間は王女様だったはずなのだから。


 今、私たちの見ている未来のビジョンは、おそらく二人同じものだ。

 亭主の写真が黒縁の額の中で笑い、私がその前で泣き崩れると言う、縁起でもないビジョン。

 そんなことで気が合ったって嬉しくもなんともないのだが、同じ空気を感じることで、つまらない文句を言う気は失せていたのだった。



 「おい。 ちょっといいか」

 子供を寝かしつけて立ち上がった私を、隣りの部屋から亭主が呼んだ。

 私を、食卓を兼ねた炬燵台に座らせ、亭主は対面に腰を下ろして、一冊の通帳を卓上に据えた。

 「なに、これ」

 「なにこれじゃあるか。 金が要るんだろう。 これ使え」


 開けて見てびっくり、300万円以上入っている。

 「どうしたの、このお金」

 「結婚前から貯めてた金だ。 結婚式と旅行と新居の費用である程度使ったが、ジミ婚だったから150万残った。 残りの150万は結婚後に貯めた」

 「どうやってそんなに貯められたのよ?」

 「小遣いを4万円ずつもらってただろう。 ボーナスごとにご苦労様と言って10万ずつくれてもいた。

  でも俺は酒を飲まないし、昼飯はお前が毎日弁当を作ってくれたし、髪も器用に切ってくれたから床屋代は要らなかったし、通勤は自転車だったのに通勤費は全額俺にくれてたから、少々の出費はそこから出せたんだ。

  毎月3万とボーナス時に10万が2回、これで一年に50万貯まった」


 驚いて返事が出来なかった。 決してケチケチするタイプではないが、無駄な出費はこだわって避ける男だとは分かっていた。 しかし、こんなところにその成果が出ていたとは。

 「お前が頑張って身の回りのことをやってくれたから、俺は何にも使わずに済んだ。 だからこれはお前が使っていい金だ。 給料だと思って使え。 それが無くなるまでには復帰して稼いでやる」


 給料、という言葉を聞いた途端、通帳の文字が見えなくなった。

 私はあわてて涙がこぼれないように必死で瞬きを繰り返した。 その数字を見失う訳にはいかなかった。 それは私の努力が、亭主によって数字として変換されたものだったのだから。

 

 「大変だとは思うけど、食事制限、続けてくれるか。 なるべく早く体重落とすからさ」

 亭主の言葉に、にわかに気分が重くなる。

 あの食事をまた作るのか。 あの面白くもおいしくもない、重くて手間ばかりかかってだれも喜ばない、飼料と同じ拷問食を。

 いやだいやだと心の中で、子供みたいな私の一部が転げまわって泣き叫んでいる。

 せっかく一大決心して、これがもとで離婚するかもとまで思って魔女になって鬼嫁になって、そうやってもう作らないと宣言したのに、ここで覆されてしまうのか。

 

 でも、私はその思いをぐっと抑え込んだ。

 私の望みは、この労働を対等の分業と認めてもらう事だったはずだ。 ここで拒否したら、自分で自分の労働を感情の産物と認めることになってしまう。 

 家事労働は、愛情を押し付けるためにするのではない。 家で自分のことを充分にする暇がない家族に代わって、身の回りのことを代行するのだ。 だから、自分はこうしたい、それを代わりにやってくれと言われたら、その通りにするのが筋だろう。 ならば、こんな風に口に出して言われたこと、しかも給金まで提示されたら断ったりしては女がすたるというものだ。

 第一、ここで断ったら、それこそ亭主が血管を詰まらせた時に全面的に私の落ち度になってしまう。

 私は落合さんのように、亭主の葬式で「私のせいだ」と泣くのは嫌だった。 あの時素直に制限食を復活させてればよかったのに、と泣きわめくのはまっぴら御免だ。


 「そうだね、頑張りましょうか。 まだ子供も小さいんだから、うっかり死んだりできないもんね」

 「お前も死ねんぞ。 お前死んだら俺の食事うどんばっかりだ、俺絶対すぐ死ぬわ」

 二人で苦みのある笑いを漏らした。

 実はこの時もらった300万が、そののちにとんでもない場面で私たちを救うことになるのだ。




 その日から亭主は、ぴたりと間食を止めた。

 足の腫れが引くのを待って運動を再開した頃には、すでに3キロ体重が落ちていた。 私も必死でいろいろな工夫をして制限食を作ったので、それだけを食べていれば痩せないわけはないのだ。

 かくして亭主が職場に復帰するのに、その後わずか2か月足らずで事足りた。


 さて。

 後日判明したことだが、亭主がダイエットを成功させた裏には、落合さんの心筋梗塞以外にもひとつの思いがあったらしい。

 通夜と葬儀ではち切れそうなズボンを履いて行った亭主を見て、集まった会社の同僚たちがこう言ったのだそうだ。

 「香川よ、なかなか復帰して来んと思ったら、ますます太ったじゃないか。

  こりゃあ、今年度中の話になりそうにないなあ」

 ズボンがピチピチなのは足の腫れのせいなのに、そう見えないほど体全体にマッチしているのか!!

 それが何よりショックで、その悔しさが、彼らの鼻を明かしてやりたいと言う秘密の原動力になったということなのだそうだ。

 総じて、男は男に勝ちたがる。

 家族のためになんてふんぞり返るよりも、いっそこの方が亭主らしいと笑ってしまった。 

 

 予定外になりましたが、一区切りついてしまいましたのでここで章分けをすることにしました。 

 第一章の終了です。2章はここより5年後の話になります。

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