14、突然襲ってくる隣家の不幸は、夫婦関係を変える力を持っているか
「なんておいしいんだろう」
肉の少ない80円のコロッケを食べて感動した。
ただカットしただけの干からびた野菜が入っているパック物のサラダを、味も付けずに口に放り込んで、野菜って美味しかったんだなあとしみじみ思う。
そう、毎日あれほど大量の食材を調理しながら、私は「飢えて」いたのだった。
褒められる機会や達成感が少ない。
労働時間が長い。
ストレス発散の場が少ない。
主婦に特有の不便不幸は山ほどあるが、大きなマイナスの一つが、毎日の食事に対する楽しみが見いだせない事だと思う。
キャンプや調理実習でたまに作るだけなら、自分が作った料理もおいしく感じるのだろうが、毎日毎食だとほとんどおいしさを感じなくなる。 どんな味かなと期待して口に入れる過程のない料理に、メニューだの味付けだのと言ったこと以前に、脳のどこかが麻痺あるいは辟易してしまうのだろうか。
それでも、例えば自分の好きな食材やメニューを取り入れたり、面白い組み合わせや味付けを試したりして作るなら、料理も楽しんで作ることが出来る。 また、家族で向かい合って一つの鉢から競うように取り分けたり、食卓に並んだ大皿から何をつまもうかと迷ったりしているうちに、食欲が沸いてくることもある。
食餌療法をしていると、食材も組み合わせも苦し紛れ、好みの物を作ろうとしたらカロリーオーバーする。 給食のようにひとり分に分けられたお皿からは、迷って取る過程の楽しみが奪い取られている。 これでおいしく食べろと言う方が無理なのだ。
ここ3か月のストレスでいっぱいいっぱいになっていた私の胃袋にとっては、我が家の食事はただの「飼料」だった。 まずいわけでも腐っているわけでもないのに、口に入れた途端吐き気がしてトイレに駆け込んだこともある。
肝心の亭主がほとんど痩せていないのに、私の体重は6キロ近く落ちていた。
そんな私にとって、他人が揚げてくれたコロッケはまさに至福の味わいだったのだ。
子供たちも、スーパーの惣菜を大喜びで食べた。
蘭は天ぷらを見て大興奮、衣を外して、中にお化けが入ってないかどうか確かめながら口に入れていた。
ところが亭主は、揚げ物に手を出すのをためらって、青虫のようにサラダばかりを頬張っていた。
毎日あれほどのポテトチップを平らげ、チョコレートを丸食いしている男が、コロッケにも天ぷらにも箸を伸ばさない。
私の怒りのパワーに恐れ入っているのか。 これ以上がっついたら離婚の危機だと判っているのか。
いやいやそればかりではない。
よく考えたらある意味、今夜の食卓は「毒薬」であると言えなくもないのだ。
たとえば、亭主が重症のピーナッツアレルギーだったとする。
ひとかけでも食べたら命にかかわると知っていて、女房が故意にピーナッツを混入させた食事を作ったら、結果によっては殺人罪が適用されるだろう。
では、油を取り続けると必ず血管が詰まると言われたわが家の亭主に、毎日コロッケを食わせるのは殺人か?
答えは多分ノーだ。 目に見えない形で入れるならともかく、出されたコロッケを食べるか食べないかは亭主の自由だからだ。
つまり、私が亭主を殺すために毎日殺人用のメニューを組んでいたとしても、歴然と高脂肪とわかれば食べた亭主の責任だという事なのだ!!
亭主はその考えに思い至って初めて、わが身を守ることを考え始めたのである。
澄ましてコロッケを食卓に並べた私が魔女であることを、ようやっと認識したらしかった。
私にとって天国で亭主にとってそうではなかった食事の時間が終わると、表面上はいつもと同じ夜が訪れた。
私は蘭と司を風呂に入れ、亭主の入浴を手伝い、ギブスの包帯を取り換えていつも通りに就寝した。
ただし、私たち夫婦の間に笑顔はなかった。
会話は最低限の物だけで、さりとて怒っている様子を見せたり、さっきはどこに行ってたとか、なんで実家に電話なんかするのかとか、本当なら真っ先に口にしなければならない話題に触れることもせず、探るような視線で相手の後ろ姿を追い回す以外のことをふたりして避けていたのだ。
触ると面倒が再発する。 単にそれだけの理由だった。
救急車のサイレンが響き渡ったのは、明け方近い時間だった。
音はびっくりするほど近くで鳴り響き、私と亭主はばね仕掛けの人形のように飛び上がって起きた。
数人のあわただしい足音が、かすかな金属音と共に階段を上がって来て、すぐ下の階で止まった。
ドアの開閉する音と、人の話し声。
「落合さんちに入った!」
私たちは急いで玄関を開け、階下の様子を伺った。
403号室の鉄製の玄関ドアは既に閉まっており、中で人の気配がするような気がするだけで、外からはほとんど何もわからなかった。
「誰が乗るのかわかるかしら」
「お前、様子聞きに行って来いよ」
「今? 迷惑だわよ、私パジャマだし」
「俺よかマシだろ」
亭主を見るとズボンが履けないのでパンツ一丁だ。
その時になってから、亭主とうっかり普段通りに会話をしてしまったことに気付いたのだが、もう今さらどうしようもなかった。
落合家は、そのあと20分近く沈黙していた。
天井と床を共有している同志であっても、そこでどんな事態が起こっているのかは伝わってこない。そろそろ聞き耳を立てるのにも飽きて来て、私は朝食を作り、亭主はテレビのスイッチを入れた、その時だった。
落合家の玄関が開き、ストレッチャーを転がす音が響いた。 数人の足音がそれに絡む。
大急ぎで玄関を開けて見ると、階段を降りて行くストレッチャーには誰も乗っていなかった。
空のストレッチャーと救急隊員だけを乗せて、救急車はサイレンを鳴らすこともなく戻って行ってしまったのだ。 わずかに明るくなりかけた朝の空気の中で、社宅の人たちが何人もベランダに顔を出してそれを見ているのが判った。
呆然と見送る私たちの耳に、地を這うように低く大きな唸りの音が届いた。 落合家の室内からだ。
うををををををん、と腹に響くその音が、人の声であることに気付くのにかなりの時間がかかった。 その声が泣き声で、しかも女性の物だと判ったのはさらに後のことだ。 それほど人間離れした、何もかも忘れ果てて悲しむ人の出す声だった。
私は今でも、テレビのニュースで殺人や事故で亡くなった人の家の玄関が映るたび、この時の奥さんの慟哭の声を思い出す。
その朝亡くなったのは、落合さんのご主人だった。
死因は心筋梗塞で、発症した時刻には、奥さんは「シルフィーベーカリー」でパートの仕事中だった。 発見したのは3年生の長男、雅人くん。
弟に揺り起こされた長女の5年生、瑞樹ちゃんが、パジャマのままで奥さんの仕事場まで知らせに走り、それから救急車が呼ばれたのだが、ご主人は既に亡くなった後だったという。
私の脳裏に、あの朝、青い顔をして破れたごみ袋を持ったまま立ち尽くしていた、落合さんのご主人の姿が再生された。 顔色が悪いと思ったのは、慌てていたからではなかったのかも知れない。
あっという間の出来事で、誰もが唖然としていたが、当然、一番ショックを受けていたのは奥さんだった。
彼女は一種のパニックを起こして錯乱し、数時間何もできなくなってしまったので、子供の関係で特別親しくしていた社宅の奥さんたちが数人で落合家に乗り込んで、いろいろな手続きを手伝ったらしい。
その日の午前10時、社宅内の緊急連絡簿でお知らせが回って来た。
落合さんのご主人が亡くなって、今夜お通夜、明日の午前に葬儀を行うこと。
互助会などに入っていなかったため、葬儀は急遽、町内の集会所を押さえたが、通夜をやる場所が取れず自宅の403でやるから、騒音等に注意して欲しいこと。
狭い社宅の家で、ご遺体を安置して通夜の準備をすると、押入れや箪笥が使えなくなり家の中が機能しなくなるし、それでなくても奥さんが尋常な状態ではなく、県外に住んでいる親兄弟親戚も、通夜ぎりぎりにならなければ到着しないので、ご飯や子供たちの寝泊りを助けてやって欲しい、ということ。
社宅マダム達の団結力は素晴らしかった。
長老役の紺野ばばあが音頭を取り、同じ棟の主婦全員に、炊飯器いっぱいのご飯を炊いて集まらせた。
401号室の紺野家の台所でみんながありったけ握り飯を握り、スーパーで急遽用意したプラスチックの弁当容器に詰めて行った。
隣りの402はおかずを詰める作業場になった。 遠くから来る親族の為に、各家庭で煮物や揚げ物を一皿ずつ作って持ち寄り、その場で酢の物なども作りながら401から運ばれて来るおにぎり入りパックに詰める。 作業するキッチンが狭いので、それぞれが自宅で準備しては入れ替わり持ち込む循環方式だ。
3時間ほどで、お通夜に出すための30食ほどの弁当とつまみ、それと落合家の昼食や明日の朝ごはんまでが整えられた。
その間、私は家の食事を作ることも食べることもできず、昼食の時間に家に戻ってみると、亭主と子供たちは文句も言わずに台所のどこかから発掘したらしいうどんを茹でて食べていた。 汁の作り方が判らなかったらしく、ポン酢に何かを混ぜたとか言って怪しい液体をかけていたが、司まで問題なく平らげていたので、そこまでとんでもない味ではなかったのだろう。
「俺、夕食もこれやるのは無理なんだけど」
ものすごく遠慮しながら亭主が言った。 まあ、この足で立派に留守番をして子守りもしてくれたわけだから、こちらとしてもそれ以上要求するつもりはない。
勝手のわからないキッチンで、どう仕上がるか予測がつかない料理を作るのは怖かったでしょう。
私はいつもそうやって調理をしているのよ。 だって普通の家では、味見して足りなかったら足せばいいけど、うちは食材も調味料も上限が決まってるんですもの。 食べづらいほど薄かったら食べられない料理になるだけなのよ。 失敗したらどうしようって、胃が痛くってしょうがないわよ。
ここのところ私がして来た苦労に比べたらまだまだもとが取り足りないが、亭主が多少なりとも料理で苦労をしたらしいので、私の溜飲も少しは下がったのだった。
「夕食までには何とか間に合わせるけど、もっと別のことを心配した方がいいわよ。
あなたは今夜7時には喪服を着なきゃいけないのに、どこの巨人に借りたらその足が入るのかしら、とかね」
だから、さっさと痩せてりゃ問題なかったのにねえ。
意地悪く笑って、亭主が頭を抱えるのを密かに楽しむ。
かくして昨日からたった1日の間に、すっかり性格が悪くなったことを自覚した私だった。