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魔女のキッチン  作者: 友野久遠
1章 食餌療法開始
13/45

13、別れようと決めた時、天にも昇る心地になるのは何故だろう

 「なにはともあれお金がありません。 今日はもう遅いから、夕食はお惣菜でも買って来るけど、そのお金で生活費はゼロになるわ。 あとは住宅か、子供の学費か、車検か、どれかのための積立を切り崩すことになる。 その先は私が仕事に出ることになるだろうし、時間も無くなるから。

  もしちゃんとしたものを食べようと思うのなら、家にいるあなたが作って」


 女房にそう言われた時、男サマの返事はどういう物だったかというと、

 「こういう時のための貯金もしておかなかったのか」

 実に彼らしい言いぐさだった。


 私のせいか? 第一、こういう時とはどういう時だ? 亭主がダイエットしたくないもんだから会社から跳ねられてる時か? そんな想定で貯金している女房がどこにいるか。

 結婚して何十年も経つわけじゃないのだ。 当時何か急病の時を想定して蓄えていた金額と言ったら、せいぜい30万くらいだったろう。

 その30万を、ここ数ケ月の華やか且つ執拗な検査と通院と薬代攻撃ですでに半分近く失い、残りの半分を、険しくないが容赦もない食費の波状攻撃に持って行かれてしまっている。


 「そういうことを、何でもっと早く言わないんだよ」

 「言ったわよ、食費がかかりすぎて危ないって。 私としたら早く会社に出て欲しい一心だったんだけどね。 そしたらあなた、何をした?

  『一日300円でできるダイエットメニュー』って本を買って来て私にくれたのよ!」


  これは正直屈辱だった。 つまり亭主は、私の工夫が足りなくて経費を使いすぎていると判断したのだ。 本人は手助けをしているつもりでいたらしいが、そんな余計なことを応援するより本人が頑張ればいいだけのことなので、こちらとしてはさっぱり有難くなかった。


 おまけにそのダイエットの本がまるで使い物にならなかった。 この本が役に立ったことと言えば、わが家の食費がかかるべくしてかかっているのだと確信できたことだけだ。

 ページをめくれば確かに、カロリーも費用も控えめな料理が並んでいる。 ただし、野菜の量は我が家で課せられている量の半分以下だ。 仮に自分で量を足して作るとしたら、調味料も倍加するのでカロリーは跳ね上がる。 自分で食べる量を抑えて我慢する人のダイエットならこれでいいかもしれないが、こんな小鳥のエサの様な量の食事を出したら、亭主はお菓子の家にでも住んでるのかというほど間食をすることだろう。


 何よりこういう物は、1回のゲリラメニューには良くても、1か月のトータルで考えると相当に難しい。 毎日必ず、もやしと大根とワカメとキノコと豆腐を手を変え品を変え出されても、作る方も食べる方も飽きてしまう。 おまけに昼ご飯なのに弁当に入れられないとか、食材が珍しすぎるとかいった理由で使えないメニューも多数あるのは、他の料理本と大差ないのだ。


 「とにかく働く話はちょっと待て。 当座の金は俺が出すから」

 ついに亭主はマイペースを返上して媚を売り始めた。

 「そう、わかったわ。 とにかくお惣菜を買いに行ってきます」

 「もう暗いから、車を出すよ」

 「ひとりで行ける。 子供を見てくれてたほうが助かるわよ」

 亭主は黙ってうなずいた。 こいつだって長い付き合いで、私がこうなったら絶対に譲らないことをよくわかっているのだった。



 あれは私たちが付き合い始めて2年間くらいの時だ。

 いくら小学校からの同級生と言っても、そんな子供のころから恋人同士だったわけじゃなく、むしろ他の同級生より会話の数は少ないくらいの幼馴染だった。 付き合い始めたのは私が短大を卒業して、就職してから1年も過ぎてからのことだった。


 当時の亭主は今以上にこらえ性がなく、口論になるとつい手を出すことも多かった。

 もちろん猛烈に手加減がしてあって、決してひどく痛かったりけがをしたりするわけじゃないのだが、フルヴォリュームで怒鳴りながらパコンとやられると、とにかく怖くてすくんでしまう。 高じると刃物でも出すんじゃないかと思うほどの迫力がある。 

 結局何一つ納得していないのに、私の中の、反論する気力だけが萎えることで、事態は収拾するのだった。


 私達に「喧嘩」という状態は成立しなかった。 不平、脅し、鎮静の3段階があるだけだ。

 しかしこの「脅し」の暴力を、本人は暴力とまでは考えていないようだった。



 ある晩、ふたりで飲みに行った帰り、些細なことから路上で言い争いになった。

 人目の多い繁華街なのに、亭主は私の頬を軽くはたき、また運悪く私の顔のそばに看板があったため、よろけた私がそこに頭をぶつける音が、お寺の鐘のように大きく大きく響いた。 

 通行人からは驚愕と非難をこめた視線の矢が亭主に集中。 その中から一人の中年女性が私を支えてくれ、耳元に素早く囁いた。

 「殴る男はダメよ。 早く別れなさい」


 その時私の頭の中で、なにかが切り替わるような音がした。

 あーそーだったのかあ、という簡単な感想が私を安堵させた。

 喧嘩というもの、とりわけ負け戦というものは人を卑屈にする。 それまで腹を立てながらも、どこかで「言い方が悪かったのかな」「我儘だったかな」とふらついていた心の中が、綺麗さっぱりツルツルになって冷たくまっすぐに伸びたのだ。


 なあんだそうか、この男はダメだったんだ。

 私の人生をかき回すだけの価値はない男だっただけなんだ、だから合わなくて当然なんだ。

 今まで無駄な時間を過ごしてしまったんだ。人生は有限なのに、もったいないことをしたなあ。


 「よし、もうやめよう」

 わたしは晴れ晴れと亭主に言った。

 「ついて行けそうにないからもうやめるわ。

  勝手で悪いけど、そういうことでもう会うのやめよう。 恋人とかもやめようね。 

  ということではい終了、解散。 じゃーね」


 2年間恋愛した相手と別れる時の台詞とは思えないことを口にしながら、怒りも意地も悲しみもなかった。 にこにこしてさえいたかもしれない。

 それまで王子様に傅く侍女か奴隷かだったのを、無理やり恋人と思い込もうとしていたのだ、今日からは私は自由だ、そんな思いでわくわくするのだ。 

 あとで正気に戻ったら泣くかもしれないけど、その場では本気で嬉しい瞬間がある。 この時の解放感は男にはわからないだろう。 

 後日亭主はその時の私の様子を、「頭打って人格交代したのかと思った」と言っていた。

 

 ボーダーラインを超えると、私は突然投げ捨てる。


 そのあと、どんな経緯で私たちが復縁したのかという話は、長くなるので割愛するが、それ以来亭主はどんなに腹が立っても、直接私を殴ることはしなくなった。

 制限食をやめる、と宣言した時の私の表情を見て、あの時の悪夢がよみがえったことを悟った亭主は、それ以上何も反論せず、子供たちと家に残って私を送り出した。



 会社帰りの社会人でぎゅう詰めのバスや、家路を急ぐ学生たちとすれ違いながら、足取りはとても軽かった。 もうあの七面倒くさい料理を作らなくても済むのだ、もう私は勇者でもない、キッチンの神様でもない、王様の秘薬を作る魔女でもない。 あと10分で文無しになるのがちょっと悲しいだけの普通の主婦に戻れたのだ。


 お惣菜も久しぶりだ。 蘭にこの前、「お化けの天ぷら」という絵本を読んでやったら、

 「てんぷらっておいしいの」と無邪気に質問した。 

 もう味を忘れてるんだ、買って帰ってあげよう。

 食餌療法をやってる時には「何を買おうかな」などと考えることはなかった。 

 買えたもので何を作るかの方が重大だったからだ。 それだけで、買い物する気力が全然違う。



 「きょんきょん!!」

 突然、道路の対岸から大声で呼ばれた。

 こんなオバサンをそんなアッパラパなあだ名で呼ぶ人間なんて世界に一人しかいない。 見ると、接骨医の舟木は血相を変えてこっちへ駆け寄ってくるところだった。 いつも飄々としているこの男に似合わぬ慌てぶりに、私は一瞬、車に轢かれかけているのかと自分の周囲を確認した。


 「どこ行ってたんだよ!! 一平がメッチャ心配してたんだぞ」

 「心配?」

 自分が心配かけたのだろうに、と首を傾げた。

 「あいつ、自分が怒鳴りつけたからきょんきょん家出したのかと思ったんだよ。

  家の周り探して、お互いの実家も連絡したけどいなくて、きょんきょんの友達に電話して探したけどいなくて、それでうちへ連絡して来た」

 「舟木んちへ行くわけないじゃん」

 舟木ももとクラスメートではあるけれど、女友達と違って家に上がり込むような付き合いは、学生当時からなかった。 増してやお互いが結婚した今、奥様を差し置いて家に上がり込むような展開はあり得ない。


 「見当違いな男だわねえ。 何考えてんだろ」

 「一平も言ってたよ。 あいつ何考えてんのかわからんって。 言ってくれないし、ってさ」

 「言ってもわからんくせになー」

 「あてつけに自殺とか急に思い立ったらどうしよう、って怯えてたぞ」

 「自殺ですか」

 思いもよらなかった。 なにしろこっちは「こんにゃく殺人」をもくろんでいたくらいだから、亭主も取りあえず私がそっち方面に豹変しない事くらいはわかっているものと思っていたのだが甘かったらしい。 


 「女の子で一平の知り合いって言うと、もっちゃんと楢屋さんと、海ちゃんくらいだろ。 そいつらに電話して、女の子の知り合いに連絡してもらうんだとか言ってたけど、それでだめなら捜索願いでも出すって」

 「ま、待て待て、ちょっと待て。

  あのトド一体何人に電話して、このくだらない夫婦げんかの顛末をばらしたの?

  今聞いただけで相当な人数だと思ったけど」

 舟木はそこで初めて、いつものようににっと笑った。

 「たぶん町内に残ってる奴はもれなく知ってるだろうな。 一躍有名人だ。

  顔がつながったんだから、今後の同窓会の幹事は、香川夫婦でやってもらおうかな」 


 やられた。 私が社宅内に亭主の悪口を振りまいて悦に入っている間に、敵は町内規模で喧嘩の詳細を振りまきやがったのだ。

 「ま、似た者夫婦って言わせてもらうよ。

  似たものだからくっついたのか、くっついた後で似たんだかは追求しないけど。

  あと30年もすりゃそんなことどっちでも同じになるんだろうからさ」

 舟木はにやにや笑いを崩さず言った。 

 珍しく、下ネタで締めずに終わらせるつもりのようだった。

  

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