息をするだけで生きられたらいいのに
鬱描写が多い、基本的に暗い話なのでご注意ください。
私にとって、髪を切ることは快楽を伴う自傷行為だ。
小学生の頃、髪を短くしていたら、もさもさだと言われた。それが嫌だった。櫛を透しても直らない。それなら伸ばすしかないだろうと思った。小学二年のときだった。
髪を伸ばした私は髪を結うようになった。両親は共働き、私は寝坊と遅刻の常習犯で、髪は自分で結んでいた。同じ高さにならないツインテール。ポニーテールの方が楽だったのだろうが、人並みに可愛くなりたい、お洒落をしたい、自分の髪くらい自由に弄りたい、今思えばちょっとませた時代だった。
ツインテールも続ければ、だいぶ見られるものになってきたし、同級生の母親たちからは自分でやっているのがすごいと褒められた。小学三年のことである。
小学四年生になり、ツインテールも慣れてきた。ただ、問題が発生する。
私は髪が厚い。ショートのときにもさもさと言われたのもそれが原因だった。厚いが故の悩みはあった。ヘアゴムが保たないのだ。キャラクターもののやわなゴムなどすぐ千切れてしまう。善意で祖母や叔母がくれたプレゼントの髪飾りも髪が厚いためにその役割を果たせず、肥やしになっていた。それがものすごく申し訳なかった。
親にもせっかく私の好きなキャラクターものを買ってもらったり、気にいったデザインのものを選んでくれたりしたのに、すぐに千切れてしまうせいで、すぐ駄目になってしまう。無性に悲しかった。
そんな私がようやく、そこそこ耐久性のあるヘアゴムを手に入れたときのことだった。千切れないとはいえ、私の髪を結ぶたびに伸びるゴムは、人の首に通るくらいのものだった。ネックレスくらいの長さである。
千切れないものの、髪の重さでゴムがずり落ちてきて、結び直すことが度々あった。そのときである。
クラスの男子が私のヘアゴムを奪った。
私は返してと言った。それがないと私の髪はまとまりがなく、邪魔だから。みんなに後ろ指を指されるから。髪を結うのが好きだから。
けれど男子は何度も何度も、隙を突いては私のヘアゴムを奪っていく。ヘアゴムをあやとりのようにして遊んだり、隠したり、しまいにはごみ箱に放ったりした。
ツインテールにしていたのをポニーテールにして、それでも数少ない私の髪を結べるヘアゴムを返してほしかった。結っていないと汚いとか言うのはあいつらなのに。
私はヘアゴムを取られ、取り返し、のいたちごっこを続けた。男子の悪ふざけだろうし、なんだかんだ返してはもらっていた。実力行使のときもあったけれど。実力行使といっても、隙を見て奪い返すといった感じだ。
このことを先生に相談することはなかった。持ち物を取られるなんて、今の時代ならいじめに他ならない。相手は男子で、髪が長くもないし、物はヘアゴムだ。「つけてみたかった」なんて言い訳は苦しすぎる。今思うと、いじめにしか該当しない。
それでも相談しなかったのは、先に述べた通り、なんだかんだ取り返せていたし、予備のゴムも持ち歩いていたからだ。予備は一つしかなかったけれど。
そんな私が、とうとう先生に相談したのは、その予備のヘアゴムまで盗まれたときだった。髪をまとめている最中に取られた。私は混乱した。髪を振り乱して取り返すのが先か? けれどこのばさばさの髪を放置して歩くのはなんだか心地が悪い。でも、予備のヘアゴムはない。というか、その予備のヘアゴムまで取られてしまった。
私は途方に暮れた。涙も出ない。できる限り手櫛で髪を整えて、授業に臨めば、担任は目を丸くした。
「お前、髪はどうしたんだ?」
「男子にヘアゴムを取られました」
それ以上の言葉は出てこなかった。事実以外、言葉が思い浮かばなかった。
「毎日毎日取られては予備のゴムで結っていたんですけど、予備のゴムも取られてしまって髪を結えません」
すると担任は男子を説教し、私はヘアゴムを返してもらった。男子は厳重注意され、私のヘアゴムが奪われることはなくなった。
妹が生まれることになった。私は色々あって弟を亡くしていたから、兄弟が増えることは、嬉しいけれど怖くて、正直複雑な気持ちだった。保健体育でそういうことを習い始めた頃で、両親は私が目撃していることもかまわず子作りに励んでいて、正直うげえ、というくらいラブラブで、吐き気がした。けれど、まだ生まれてきてすらいない妹は何も悪くない。一応、祝福しなければ、と思っていた。
小学校入学前に亡くした弟のことはまだ記憶に生々しく、立ち直れていなかった。その弟が赤ん坊のうちに亡くなったので、赤ん坊が生まれてくることが怖かった。赤ん坊の泣き声にびくびく怯えてしまう。それは今も変わらないほどに、弟の死は私の根底に深く根づいている。
ヘアゴムの事件の時点でだいぶ疲弊していたのだろう。それでも小学生で、勉強ができて、まだ好きなことを好きにやっていていい頃だったから、そういう苦痛は些細なものだった。泣くほどのことではないから。
妹が生まれたのは小学五年のとき。弟のことがあったから、「長く生きられるように」と願いを込めた私の名前案が通ったのは正直驚いた。両親や親戚などを差し置いて、私の案が採用されるなど、微塵も思っていなかった。亡くした弟のことを思い、引きずっている私への配慮も、多少なりはあったのだろうと思う。
ただ「名付け親」となったことは私の重荷にもなった。名付けたからには、妹を愛さなければならないと思ったから。……赤ん坊が怖いのに。
一回り近く年の離れた妹ができて、両親が共働きで、となると、私が面倒を見る場面も多かった。おしめを変えることもあった。むずがったらあやす場面もあった。それはたぶん、苦しくなかった。義務だろうと思えば、やりやすかった。
妹は生まれる前から発達障害であることがわかっており、呂律が上手く回らず、喋っても言葉を理解することに家族は苦労していた。
私はその面ではそこそこの活躍をした。妹が何を言っているか聞き取れたし、妹に言葉を教えるのは国語が好きな私には楽しいことだった。時々茶目っ気で変な言葉も教えた。
妹は徐々に私の癒しになった。実は年の近い弟がいるのだが、あまり深くは話さずにいた。仲が悪いというわけではないが、弟と私は同じ担任がついたことが二度あり、そもそも抜き打ちテストでほとんど百点を取る私と弟が比べられないわけがない。けれど、弟には弟の特技があったし、弟は私に過度に関わることはなかったから、私も過干渉はすまいと思っていた。
何が言いたいかというと、弟が嫌いなわけではないが、目に見えて大切にしていたのは妹だという話である。
私は髪を伸ばし続けていた。憧れの黒髪長髪女性キャラクターがいたからだ。大和撫子というものの美しさが再発見されたような時代である。
ただ、髪は一つに結っていた。手入れはあまり進んでする気にはなれなかった。憧れはしたけど、なりたいわけじゃなかった。私が髪を伸ばしていたのは惰性だ。単に切る理由がなかった。髪は女の命とか言うけれど、命というほど大切なものだとは思わなかったし、そもそも自分の命がそんなに大事に思えなくなりつつあった。
妹を生んでから、あれだけ子どもの目も憚らずいちゃいちゃしていたどこぞの夫婦の仲が険悪になり始めたのが原因だ。妹もまだ幼いし、いきなり「教育方針の違い」やら何やらで別れてほしくなかった。だから私は、父の愚痴、母の愚痴をそれぞれ聞いて、「そうだね、そういうところは私もそう思う」や「必ずしもそうなのかな」など、意見を挟みつつ、概ね肯定的に捉え、相槌を打っていた。
私に愚痴を吐き出すことで、二人の喧嘩が減るならよかった。そう思っていた。
小学五年のとき、父に最低な目に遭わされたことも、心に秘めて。中学になってからそれが常習化してきたのも秘めて。父の愚痴、母の愚痴を聞いて取り持って。妹の面倒を見て。勉強して。学校で先輩に絡まれて。風呂嫌い故に臭いと言われるのも仕方ないと思って。
いつだったか覚えていないけれど、おそらく中学のとき、私は爆発した。両親に伝書鳩のように扱われているように感じたのがきっかけだ。私が仲介してくれるから、相手に言わなくても伝わるだろうみたいな空気が、苦しくて。反抗期ないねって言われて、まあ確かにグレるほどのことではないな、と押し込めてきたものが、ある日突然、爆発した。
私は日頃の不満を口汚く述べ上げた。唖然とする両親。全然自覚のなかったようなアホ面を見て、私の怒りは十分足らずで鎮火した。
ああ、もう駄目だ、と思った。両親に失望したとかではなく、私は何かを諦めた。そういう駄目、だ。
私はあれを反抗期だと思っている。父や母は父と喧嘩して数日口を利かなかったりした日々のことを今は反抗期だと笑うが、あれは反抗期ではない。父が謝っても取りつく島もなく私を突き放して長引かせていただけで、私は反抗心故に沈黙を続けたわけではないからだ。
中学高校辺りは母との口喧嘩が多々あったが、あれは反抗期というより、ただの売り言葉に買い言葉だったと認識している。お互い頭が冷えたらすぐ謝ったし。
反抗期とは、父母嫌い、故意に言うこと聞かない、反抗的な態度を取る、といったものだと思っているので、それに該当するのは十分怒鳴り散らかしたあのときのみだ。私の反抗期は一瞬で終わった、と当時から言っている。
中学生の私は、勉強が好きで、相変わらず好成績を取っていた。が、進路希望の話が持ち上がってきたとき、勉強する意味を見失った。
私には夢がなかった。小説を書いて、絵を描いて、アニメを見て、そんな当たり前のことができれば、好きなことができればよかったが、将来というものを思い描けなかった。極端な話、今死んでもあまり悔いはないので未来なんてどうでもよかった。
それに気づいた私は、ぱたりと勉強をやめた。理由は単純。楽しくなくなったからだ。それでもずっと成績は学年トップだったから、テストの点数が悪くなり、成績を落とすと、何か言われるのが目に見えて、それを煩わしく思ったから、頑張った。
けれど、中学三年、受験が迫ったところで、心が折れた。
推薦でいい学校に入らないかと言われた。いい学校って何?
身だしなみを注意された。何のために? 他の人が不快とか、そんなことは知らない。私は、一人だ。
目的もないのに、高校に入る? 高卒くらいはしておかないと就職できない? 何のこっちゃ。
さすがに虚無になりすぎて親に相談したら、オールマイティにその先を決められる普通科を勧められ、とりあえず受験をする気にはなった。けれど、勉強へのモチベーションには繋がらなかった。
だからろくに勉強もせずに挑んだ最後の中学のテストは学年首位から転落、十位になった。そのとき一位になった子に「なんで?」みたいなことを言われて責められた気がする。私は逆に聞きたかった。一位おめでとうのあなたになんでと言われても。むしろなんで私が一位じゃなくちゃ駄目なの? 勉強しなかった分相応に下がっただけだけど。結果に顕著に反映されているのに、なんで私は責められるの?
わけがわからなくて、ベランダで泣いた。みんなは異様に驚いていた。そういえば、教室で涙を見せたことはなかったかもしれない。私は腫れ物のように扱われることとなった。
高校は結局、最初に勧められた学校を一般受験することにした。偏差値が市内では一番高く、勉強に自暴自棄だった私は落ちてしまえとすら思った。普通科は他にもあったが、一番近所の学校は嫌いな同級生が行くらしいし、あとは産業系か治安が悪いらしい学校。まあ、落ちたら治安の悪い学校にでも行くか、くらいの気持ちだった。
高校の目標は勉強を頑張らない、だった。だから正直進学校には行きたくなかった。高校なんて、行きたくなかった。
ところが、その進学校に受かってしまい、あろうことか、私は「受かっちゃった……」とだいぶ戦々恐々としていた。
高校入学準備は憂鬱だった。入学説明会の日にぽかで遅刻、おっかなそうな教師に名前を覚えられてしまう。もう嫌だった。
身だしなみについては注意されるし、目をつけられた先生は学年主任で三年間のお付き合い確定だし、楽しいことはあったけれど、つらいことととんとんくらいだった。
祖母が入院、手術という話が出て、てんやわんやしたのも高校のときだ。図書室と部活が心の拠り所だった。
私は早めに就職希望にすることにした。進学は私には意味がなかった。やりたいことがない。欲しい知識もない。学年主任には色々諭されたけれど、もう色々と嫌だった。
夏の公務員講習は楽しかったけど、公務員になりたいかと言われるとそこまででもなかった。なりたくもないもののために頑張るのはしんどかった。それは大学進学も同じことだったので、どちらを選んでも苦しかったことだろう。
結局、市の公務員になることが決まって、ようやっと教師陣がほっとしたようだが、最後まで心配はされた。
振り返るとかなり前から私はネガティブで、自分のことがどうでもよかった。そんな私は公務員を二年でやめた。発達障害と診断され、それに伴う若干の鬱が体調を崩させたのだ。
公務員だった頃、私は携帯の充電コードで首を絞めた。手首も切った。死にたかった。
仕事をやめた次の日に、睡眠薬を大量服用して、職場から送られた花束を口に含んで、とにかく死のうとして、死に損なった。このことは精神科医には言っていないし、親にも言っていない。
そもそも死にたいというのは中学の頃から思っていて、父に殺してもらおうとしたほどだ。
死に損なったせいで、今も生きている。とても疎ましかった。
そんな私が始めたのが、カッターで髪を切るという行為だった。これなら血も出ないし、ある程度自分を傷つけた気分になれる。生きる理由はないけれど、生きていてほしいと言われたなら、とりあえず生きてみるか、と。それでもむしゃくしゃしたときは自分の髪を引っ張って、ざくざくとカッターを入れた。
髪は切っても血は流れない。イメチェンといえば誤魔化せる。誰も傷つかない自傷行為だ。
髪を長くしていたことが、そうしてようやく意味を持った。惰性ではなく、実用的な意味。本当に私が欲しかったのは、そういうものだ。
人はいつか死ぬものだし、自殺がどうの、病気がどうのって、もう必ず起こることが遅いか速いかくらいの違いしかないと思っている。私は社会に失望しているし、人間に絶望しているし、何より自分を嫌悪している。弟が死んだあのときから、ずっと、ずっと。
いっそあの寒い日に死ぬのは私の方がよかったんじゃないだろうか。だらだらと生きて、人の迷惑になる大人になって、何をしても迷惑にしか思われないような世の中で、息を上手くできない私という人間が、何故生きているんだろうか。
嫌なことを書き出して、満足して。私は何がしたいのだろうか。
ずっと意味を考えている。
考えることすら無駄かもしれないのに。
私は私が生きる意味を探している。