消えない残像
夫を介抱したのはほんの偶然だった。
森の奥で倒れていた青年。
怪我をしているようだったので、家に連れて帰って手当をした。
今思えばなんと不用心なことをしたのだろうかと肝が冷える。
彼がならず者であったなら、危険な目に遭うのは自分だったのに。
目が覚めた青年は記憶を失っていた。
行く当ても当然ないというので、怪我が治るまで世話をすることにした。
両親が死んだ後に一人で暮らしいる家だったので、空き部屋はあった。
そうして世話をする内に二人の間に愛情が芽生え、夫婦のように生活することになった。
「薬を買ってきたから、手を出して」
夫は私に知られないようにしているが、手のあかぎれがいつも気になっていた。
今週はいつもよりも給金を弾んでもらえたため、あかぎれに効く軟膏を買ってきた。
粘度の高い独特の臭いのする軟膏を、夫の手に丁寧に塗る。
どうか早く治りますようにと祈りをこめて、夫の長くて節ばった指の先まで万遍なく塗っていく。
「薬は高かっただろう。ありがとう」
夫は申し訳なさそうな顔をしたが、私はどうしても夫の手を早く治してあげたかったのだ。
かつての夫はこんなに硬い指先をしていなかった。軟らかくひびのひとつも入っていない、滑らかな肌をしていた。
もしかしたら夫は高貴な人なのかもしれない。
夫を失いたくなくて、いつまでもそのことを言い出せずにいる。
手に触れた夫の表情が、どことなく沈んでいるように見えた。
「どこか調子でも悪いの?」
「……いや、悪くないよ」
いつもよりも顔色が悪く見えたが、夫がそういうなら気のせいなのだろう。
「無理はしないでね」
「ありがとう」
支え合って生きるのは幸せだった。
ある日夫の記憶が甦った。
夫は王子であったという。
「一緒に来て欲しい」
「ただの平民の私が王宮に行くなんて無理よ」
「でも、ここに君を置いてはいけない」
夫は私の言葉は聞き入れず、頑なにこの家に残ることを拒否した。何度となく大丈夫だからと説得され、折れてしまった。
どうして折れてしまったのか。無理なことは最初から分かっていたのに。
理由は明白だ。
私が夫と離れたくなかったのだ。
彼は私を連れて王宮へ戻り、ことの顛末を報告した。
初めての王宮は目映いばかりに輝いていた。彼に傅く高貴な貴族や家臣達。
そして、彼には妃がいた。
高位貴族の令嬢で、その父親は重臣中の重臣だった。
私に与えられたのは王宮から少し離れた宮殿の居室。
彼は月に数回やって来る。
話をして肩や手に触れることはあっても、夫婦としての愛情を与えられることはなかった。
それが彼の答えだと分かった。
見たこともない食事が並ぶテーブルで一人きりで食事をする。カトラリーの使い方も、相応しい立ち居振る舞いも知らない。
「食事のマナーもご存じないのですか?」
給仕をしていたメイドがそう話しかけてきた。恥ずかしさに俯くと彼女はくすくすと笑いながら離れていった。
「お妃様は、それはそれは美しい所作でお召し上がりになりますのよ」
高貴な方の住まう王宮で、劣る身分の私の存在は非常に目障りなものであったらしい。
それから私は人前で食事をすることが怖くなり、与えられた部屋から出ることができなくなった。
使用人達の誰もが私と彼の妻を比べて私を貶める。陰では卑しい女だと言われているのだろう。
荘厳で豪華な宮殿は調度品さえも高価そうで、果たしてどのくらいの価値があるのか想像もできなかった。
日常的に使用するはずの家具ですら、触れることが恐ろしかった。
離宮で働く使用人でさえ高そうな服を着ており、ここは私がいる場所ではないということを思い知らされた。
二人で暮らしていたあばら屋は、すきま風が吹き込んで冬は凍えるように寒かった。薪すらも惜しんで寒い日は二人で寄り添って暖をとった。
与えられた豪華な部屋は、暖炉の火が絶えることはなかった。しかし、なぜか体の芯まで冷えるような感覚に陥るのだった。
「ああ、あの方が?」
「どうしてあの人なのかしら?」
「一体どこが?」
どこへ行っても誰もが自分を嗤っている。
王宮での貴族たちの冷たい視線と、使用人の嫌がらせに耐えかねて、彼に元の家に戻して欲しいと懇願した。
「家に帰して欲しいの」
「駄目だ。君はここにいるんだ」
「お願い……」
最初は渋っていた彼だったが、私の手首を掴んだ時、ぎょっとした顔をして袖をまくり上げた。すっかりと痩せ細ってしまった腕を見ると無言になった。
二人で慎ましい生活をしていた時でさえ、こんなに痩せていたことはない。
「どうしてこんなに痩せてるんだ!?」
「どうか私を家に帰して下さい」
二人きりの時は今まで通りに接して欲しいと彼は願っていたが、言葉遣いを変えて懇願する私に彼は辛そうな表情を浮かべた。しかし、それに構っている余裕はなかった。どうにかしてここを逃げ出したくて必死だった。
折れたのは彼の方だった。
私が元の家に戻るために提示された条件は、護衛をつけることだった。護衛は家のすぐ側に建てた家で、私のことを守る名目で寝起きしていた。
守られているのか、監視されているのか。
そのお陰で家に戻ることができたのに、落ち着かない気分が晴れることはなかった。
それからは数ヶ月に一度、彼が森の家にやって来た。最初はもっと頻度が高かったが、次第に足が遠のくようになっていった。
手放してくれたらいいのに。手酷く突き放されれば諦められるのに。
妻のつもりだったのに、今の自分はただの身の程知らずな平民の愛人。男女の情を交わすことすらないのだから、もう愛人ですらないのかもしれない。
彼は同情で、かつて世話をかけた女の生活を助けようと思ってるだけかもしれない。
ある日街の噂で王子妃が懐妊したと聞いた。国中が喜ばしい話題に湧いていた。
次に彼に会った時、おめでとうございますと言えばいいのだろうか。
記憶の戻った王子と、それを待ち続けた妃との待望の第一子。
彼はもう私の夫ではない。
私の愛した夫はもういないのだ。
耐えられず、彼が来ない内にこの家を出ることにした。
彼がつけた護衛には街に買い物に行くと言って、最低限の荷物を持って家を出た。
まさか女相手に撒かれるとは思っていなかったのだろう。油断しているところを見計らって、護衛から逃げおおせた。
やっと得た解放感。
そして喪失感。
彼は少しは悲しんでくれるだろうか。そう考えて、未練がましいのは自分の方なのだと零れ出る涙が止まらなかった。
彼には美しい妃がいる。そこへ割り込んだのは美しくもない、見窄らしく貧しい市井の女。
記憶がないばかりにそんな女に頼ることしかできず、今頃彼は後悔しているのかもしれない。
贅沢はできなかった。それでも日々を二人で慎ましく暮らすのは幸せだった。
だから手紙を置いてきた。
『あなたが少しでも私を哀れんでくれるなら、そっとしておいて下さい』
たどたどしい字で一生懸命書いた。
とても愛していたこと。
二人でいた時は幸せだったこと。
あなたの幸せを願っていること。
もっと伝えたいことはあったが、それだけを書くのが精一杯だった。
記憶の戻った彼は王宮へ戻ることに躊躇はなかった。一瞬でも二人の家に留まって生きることを考えもしなかった。
ほんの少しの間だったが、幸せな夫婦だった。
私がいなくなったことを僅かでも寂しいと思ってくれたなら、私の気持ちは少しだけ報われる。
今も脳裏に浮かぶのは、あの穏やかで幸せな日々。
それはいつまでも消えることなく、心に留まり続けている。
◇
記憶が戻ったのはほんの偶然だった。
いつものように森に入って、切り株で転んだ拍子に自分が何者か思い出した。
この国の王子である自分は、すぐにでも王宮へ帰らなければならないと分かっていた。
王宮に帰れば妃がいる。
幼い頃から決まっていた高位貴族の娘。気高く高潔で、たまに貴族らしく傲慢で、妃としては申し分のない女だ。
記憶のない男を拾って夫婦として暮らす妻は、至って素朴な優しい女だ。
夫の小さな変化も見逃さず、体の不調には自分よりも先に気づいてくれる。
「薬を買ってきたから、手を出して」
そう言って妻はあかぎれのある手に軟膏を塗り始めた。沁みないようにと気を遣って、丁寧に塗りこんでいる。
彼女の体温が冷たい手を温めていく。そのぬくもりを失いたくなくてまだ言い出せずにいる。
「どこか調子でも悪いの?」
妻が心配そうにのぞきこんでくる。
自分を心配してくれているのが伝わってくる優しい目だ。
贅沢な暮らしはできないが、労り合うことの幸せを教えてくれた。
窓辺に白い鳥がやってきた。
去年よりも木の実が多く成った。
雨が上がって空に虹がかかった。
妻は何気ないことでも嬉しそうに喜んだ。
森での生活は知らないことだらけだった。自分で火を起こしたこともなければ、水を汲みに行ったこともない。
手をあかぎれさせながらの生活への違和感は、記憶をなくしたせいだと思っていた。
妻は街に働きに行くが、自分自身が何者かも分からないため、できるだけ街には出ない生活を続けた。
森で採れる木の実や薬草、珍しい小動物を捕まえては、それを妻が売りに行った。妻の両親の遺した小屋で炭を焼くこともした。
元々手先が器用だったのだろう。炭にしなかった木片を使って木彫りをしたところ評判が良く、売り物になった。
追われているのではないか。
罪を犯してはいるのではないか。
もしそうだったら、妻に累が及ぶのではないかと不安が付きまとった。
そしてある日記憶を取り戻した。
記憶が戻ってから数日間、悩み続けた。
今の暮らしを、妻を失いたくないからだ。
自分の立場考えればすぐにでも王宮へ戻るべきなのだろう。自分には王族としての、王子としての責任と義務がある。
王宮には両親と弟がいる。そして、政略結婚で結ばれた妃もいる。
足の引っ張り合い、腹の探り合いばかりの王宮で、今の自分の扱いはどうなっているのだろうかとの不安もあった。
そんな場所に妻を連れていけば、彼女に攻撃の矛先が向かわないだろうか。
でも、妻を置いて行きたくない。
戻ることは早々に決めたが、彼女をどうするかと迷い続けた。平民の娘に城での生活は辛苦ではないだろうか。
それでも手放し難く連れて帰った。
王宮は蜂の巣をつついたような騒ぎだった。それはそうだろう。行方不明になっていた王子が戻ったのだ。
彼女ができるだけ妃や他の貴族とは関わらないように、王宮から最も離れた離宮に居室を与えた。
王宮で働く者は貴族の子弟も多く、妃の周りに侍る者は貴族の夫人や令嬢達だ。
彼女の気詰まりになるようなことはしたくないと、貴族の子弟を配するのはやめさせた。
高価な服を送っても、彼女が選ぶのは質素で地味な服ばかりだった。彼女らしくてそれすらも好ましく思っていたが、そのことも中傷の原因となったようだ。
まさか王子が大切にしている相手を、使用人が軽んじているとは思いもよらなかった。
大人しい性格の彼女が告げ口をしないと分かったのだろう。加えて、ことを知った妃からも特に止められることがなかったため、増長したのだと後から知った。
妃は止めることも、口出しすることもなく、ただ静観していたらしい。
あんなに朗らかでいつも笑っていた彼女がどんどん痩せていき、笑わなくなった。気がつけば涙を流し、ついに元の家に戻りたいと懇願された。
他人行儀に泣いて頼む彼女を見て、このままでは彼女が壊れてしまうかもしれないと恐ろしくなった。
元の家に戻った彼女にそれでも何度も会いに行った。
彼女との間に子ができると禍根が残るため、夫婦としての関係はなかった。それでも彼女に会えて、触れ合えるだけで良かった。
やがて王族としての仕事に忙殺され、半月に一度、ひと月に一度、数ヶ月に一度と会いに行く頻度が下がっていった。
いつでも彼女に会いたくて仕方なかったが、記憶を失っていた代償は大きかった。
そしてその日がやってきた。
彼女は町へ行くと行って、途中で護衛を撒いて姿を消してしまった。
残された手紙には、自分を哀れに思うなら捜さないで欲しいと書かれていた。
どうして。
やっと妃が妊娠して、子供ができれは彼女のことは目を瞑ろうと父王から許されたというのに。
哀れだなんて思っていない。
彼女が側にいるだけで幸せだと思えたのに。
幸せな記憶だけを残して、彼女は去っていった。
◇
幼い頃から、彼の隣に立つために必死だった。
貴族達に侮られることのないよう駆け引きし、社交においても品位を下げることなく地位を保った。
政略結婚ではあったが幼い頃からの間柄だ。二人の関係は、政治的な利益や他の貴族への牽制だけではないと信じていた。
彼が行方不明になっていた間も国王陛下や第二王子殿下と共に彼の立場を損なわないよう、中傷にも他の貴族の横槍にも耐え続けた。
彼が見つかったと聞いて駆けつければ、彼が守るように伴っていたのは、見窄らしいこれと言った特徴のない娘だった。
いくつかは年下なのだろう。
まだあどけなさすら残るその娘を、彼は掌中の珠のように遇し、多忙なはずなのに僅かな時間を見つけては彼女の元へと通った。
そのことで妃である自分が何と言われるかなど考えてもいないのだろう。
「妃殿下が気にするような娘ではありません」
「あのように取るに足らない娘を、どうして殿下は特別視なさるのか」
離宮で囲われた娘の話を侍女達が仕入れてくる。誰もが首を傾げるくらい、これといって特別なところなどない娘だという。
娘は大人しい気性らしく、離宮の劣る使用人にすら侮られているらしい。
侍女達は面白おかしげに彼女の不調法を伝え、気に病む必要はない、比べものにならないと褒めそやすが、そんな彼女にすら女として劣っていると言われているようで耳を塞ぎたくなった。
せめて彼女が貴族の娘であったなら。
政略的に側室として迎えると言われたなら、王子妃として受け入れることができただろう。
王子に与えられた宮殿で夫婦の時間を過ごしても、頃合を見計らって彼女の元へと足を運ぶ。
彼が夫婦の居室にいるのは、まるで義務を果たしているだけのように思える。
彼が彼女の元を訪れていると聞いて、愚かにも離れに足を運んでしまった。
二人の姿を見てすぐに後悔した。なぜ足を運んでしまったのか。
そこには見たこともないような穏やかな顔で微笑む彼がいた。ただの小さな花を見て笑い、水辺に集まった鳥を見て楽しそうに囁き合っていた。
思い描いていた仲睦まじい夫婦がそこにいた。
もう何も思うまい。
妃であることだけを誇りに生きてきた。それを自ら汚すようなことはしまいと誓った。
しばらくすると彼女は彼の元から去って行った。離宮の生活に馴染めなかったのだと侍女が言っていた。
市井に戻っても、彼は彼女に会いに行った。
聞けばただの平民の娘に、護衛までつけているのだという。
体調が優れず侍医に診せたところ、妊娠の兆候があると言われた。
嬉しかった。
妃の役目だからというわけではなく、やっと彼の妻になれた気がしたからだ。
腹が少し膨らんできた頃、陛下との間で男子が生まれれば彼女を囲うことを認めるという話が出ていることを知った。
目の前が暗くなった。
腹の子の父親となってもまだ、あの娘のことを追い続けるのか。生まれてくる子にかこつけて、彼女のことをなし崩しに認めさせようとするのか。
どうあっても、気持ちは報われないのだと悟った。
彼が与えたのは妃という役目。傍らに寄り添う妻の立場ではない。
それは彼が彼女に与えたものだ。
彼女が姿を消したという話を侍女が聞いていたのはそれからすぐのことだった。つけていた護衛を撒いて、姿を眩ませたのだという。
彼が与えためぼしい金品は、すべて家に残されていたらしい。
いっそのこと不相応な額の金品でも要求していれば良かったのに。
醜く浅ましい姿を彼に見せれば良かったのに。
彼女は彼の中に、美しい思い出だけを残して消えてしまった。
――彼女の痕跡は消えていく。
それぞれの胸に不幸な残像を残して。