4 パンデミック
熱を出した。故意ではなく、過失で。
秋も終わりかけ、冬になろうとしていた頃だった。季節の変わり目ということで、病原菌さんが私の体内に挨拶しにきた。どうも、こんにちは。華奢すぎて淑女すぎて貴族の鑑である私は、病原菌さんを追い返すことはできず、丁重にもてなしてしまったがゆえの発熱である。
侍女には熱があるから休めと言われた。普段だったらこれ幸いと速攻で欠席のお便りを出したと思う。けれど、病原菌さんを使わぬ手はない。
迎えに来たヘリオスが馬車へエスコートしてくれるとき、私は自分の立てた計画があまりにも素晴らしすぎてにやけていた。
「フィーナ、顔赤くね?」
「メイク気合入れすぎた」
「今日は機嫌良いんだな」
「それはもう、絶好調」
今宵、私はパンデミックを巻き起こす。
ヘリオスにまとわりつく害虫を一斉駆除だ。いけ、風邪ウイルス!
本日はヘリオスのお友だちが開く舞踏会に参列。ヘリオスが来ることが知れ渡っているため、ヘリオス目当ての害虫がうじゃうじゃ参戦しているに違いない。
馬車の中で作戦を確認する。ヘリオスが害虫を集める、私が害虫にウイルスを移す、害虫が病気になる、害虫が夜会等々を休まざるを得なくなってヘリオスに近付かなくなる、ヘリオスがぼっちになって私に泣きつく。これで私はヘリオスを手中に収めることができる。完璧である。
むふふと笑ったら、ヘリオスに怪訝な顔をされた。
「今日、なんかあんの」
「あるよ。ドキドキワクワク」
「何?」
「教えなーい」
ヘリオスにちろっと舌を見せたら、ほっぺたをつままれた。いてて。
「言えよ」
「やだ」
「なんで?」
「言ったら怒りそう」
「怒んねえから言え」
「やだったらやーだ」
『怒らないから言いなさい』という人は、実際に言ったら百パーセント怒る。経験上間違いない。嘘つきの常套句だ。ヘリオスのお友だち全員病気にさせるなどと言えば道徳心の無さを疑われるし、絶対に言いたくない。
ほっぺたをむにむにつまむ手は止まらなくて、私はむすっとした。ヘリオスもむすっとした。
「フィーナはそんなにも俺が怒ると思ってることしたいわけ?」
「したいというか、する」
「決定事項?」
「決定事項」
馬車に乗り込んだ時点で、私が舞踏会で風邪ウイルスを撒き散らすことは確定した。ヘリオスが知ったらカンカンだろうけど、犯人が私だとバレなければ問題なし。目指せ、完全犯罪。
ヘリオスは銅像のように脚を組んで静かに考え始めた。ふっふっふっ。ヘリオスがどんなに考えても私の天才完璧計画は当てられまいぞ。
「俺が怒るか。……フィーナの気に入ってるやつでも来んの?」
「そうじゃないけど、来るっちゃ来るよ」
「……それって男? 前にソファーで話してたやつ?」
「あの人も来るんだ。知らなかった」
「違うのか。じゃあ、バルコニーで話してたやつ?」
「誰それ」
「俺が聞きたい。気になってんの、誰?」
私に聞かれても困る。私はあの害虫どもの名前を知らない。
「名前は知らない。顔は覚えてる」
「フィーナが顔を覚えている……? それはすごいな……」
ヘリオスが衝撃を受けて噛みしめるかように呟いた。私を物覚えの悪い人みたいに言うのはやめるのだ。私だって害をなす存在は逐一チェックしているのだ。
あっかんべーしようとしたらデコピンされかけ、咄嗟に避けた。今日の私は一味違う。なんたって、病原菌さん付きだから。
「ヘリオスの攻撃なんかくらいませーん」
「テンション高いな……。大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。元気だよー」
「なんかヤバそうだし、とりあえず今日は俺と一緒にいてくんね?」
「わかった。どんと来い」
自分の胸をグーパンしたら、ヘリオスがドン引きした表情を浮かべた。なんだなんだ。
「今日の私はやる気満々ってアピールだよ」
「……そんなに、気になるやつ楽しみ?」
「めちゃくちゃ楽しみ!」
「あっそ」
ヘリオスがそっぽを向き、肘掛けにもたれて頬杖をついた。視線は夕焼けが去って夜になりつつある天空。
えー、どうしたんですか、ヘリオスさん。テンション低いですねー。ちょんちょんつついたけど、ヘリオスはかまってくれなかった。あーあ、つまんないの。パンデミックな大パニックが待っているというのに。
お屋敷に到着し、挨拶も程々に済ませたところで、予想通り害虫どもがワラワラやってきた。私がドリンクを取りに、一瞬ヘリオスと離れた隙のことだった。
「ヘリオス様、御腕の痛みはもう引きなさった?」
「先日おっしゃっていた演劇、わたくしも観に行きましたわ」
「秋季限定マロンカップケーキは開店早々完売らしいですのよ。お食べになったことがあるなんて、さすがヘリオス様!」
ヘリオス信者の害虫どもめ。散れ散れ、しっしっ。私は病原菌さんをプレゼントするため、ヘリオスの後ろからではなく、あえて害虫どもの間を抜けてヘリオスの隣に行くことにした。
よーし、行くぞ、行くぞ。
「……あ、あの、失礼……」
「ヘリオス様、うちのシェフの腕も素晴らしいですのよ。ぜひ、晩餐会に招待させていただきますわ!」
「と、通りまーす……」
「先日は夢のようなひとときでした。踊ってくださって感謝感激が止まりません」
失礼もできなければ、通れもしない。害虫の圧に負ける。私はなんて非力なんだ。せめて乳圧があれば、ばいんばいんと押し倒していくのに。
まぁ、よい。害虫はわんさか集まったのだ。作戦はこんこんけほけほモードに移行。害虫の周りで咳をして病原菌さんを花粉がごとく撒き散らそう。
「こほん、こほん」
「ヘリオス様、来週の音楽鑑賞会へご招待されなさったの? まぁ、すごい!」
「こほこほ」
「それって、殿下が主催なさる例の? すごいですわ、ヘリオス様!」
愚か者どもめ。ヘリオスに夢中になっている傍ら、病原菌さんを移されているとも知らずに。ざまぁみろ。私のヘリオスに手出しした罰だ。
私はさり気なく咳をし続けた。バレませんように、バレませんように。
「こんこん、けほけほ」
「……あの、大丈夫ですの?」
「こけっ、ゴホッゴホッ」
話しかけられて咳のリズムが乱れた。むせて死にかけ。だ、誰だ。もしや、作戦に勘付いたのか。
息を整えて顔を上げたら、害虫の一人が私の顔を覗き込んでいた。この顔は、いつかの青い蝿。間近で見て初めて、キリッとした美人さんだと判明した。
「お顔がとても赤くなっていますわ。ヘリオス様を見てそうなるのはわかりますけれども、少し過剰かと。休んではいかが?」
「……い、いえ」
「まぁ、そんなことおっしゃらずに。風通しの良いところへ移動しましょう。少々熱を冷やしたら良いと思いますわ」
「……や、あの」
背中を優しく押されて支えられながら、私はホールからバルコニーへ出た。冬の訪れを感じる冷たい夜風が、発熱した体にちょうど気持ちよく当たる。
美人さんは私の背中をさすってくれ、私は頭が混乱してきた。な、なんだこの人。病原菌さんを拡散していた私を心配してくれているのか。良い人すぎる。
「あ、ありがとうございます」
「お気になさらずに」
お礼を言ってもドヤ顔しない。良い人すぎる! 全然害虫じゃないし、むしろ女神だ。私なら恩着せがましくドヤるのに。この人、こんな人だったんだ。悪いことしようとしちゃってたな、私。
寒空の下、ブルブルしながら反省していたら、バルコニーに人がやってきた。ヘリオスだ。
「セレネ、フィーナを連れてどうしたの」
「あら、お知り合いですの? こちらの方、体調を悪くしていましたの」
「フィーナは俺の婚約者なんだ」
「ま! この方が例の」
「フィーナ、こちらはセレネ」
「はじめまして、フィーナ様。お会いできて嬉しいですわ!」
セレネさんが自己紹介してくれたので、私もおどおどしつつ返した。
そういえば、ヘリオスから女性を紹介されたのは初めて。挨拶周りではいつも男性とばかり会っていた気がする。家名ではなく、必ず『俺の婚約者』と言って私を紹介してくれていた。謎のこだわりポイントだ。
ヘリオスが私の背中に腕を回して、セレネさんに微笑んだ。
「セレネ、フィーナをありがとう」
「とんでもございませんわ」
「あとは俺が看るよ。楽しい時間に水を差してごめんね」
「構いませんことよ。ではフィーナ様、お大事に。ヘリオス様、ごきげんよう」
セレネさんがホールに戻っていく。私はしばらく夜風を堪能しよう。
と思っていたら、ヘリオスがジャケットを被せてくれた。そしてホールにエスコートしてくれ、留まらずにそのまま外に。馬車に乗せられる。
「え、もう帰るの?」
「やだ? 気に入ったやつにまだ会えてねえの?」
「会えた」
「……誰?」
「女神」
「なんだ、女かよ」
ふはっと笑ってヘリオスも乗り込み、馬車が動き出してしまった。まさか本当に帰るのか。舞踏会だというのに、モテモテヘリオスが踊らずに帰るだと。
迷惑をかけてしまった。セレネさんにも、ヘリオスにも、名も知らぬ害虫どもにも。楽しい舞踏会の思い出になるはずだったのに、史上最悪のウイルス祭りにしてしまった。
両手の指先を合わせて離して、また合わせてといじる。視線はしょんぼり斜め下。
「……あの、ご、ごめん」
「ん?」
「わ、私のせいでパンデミックが起こるの。ごめん」
「なんだそれ。熱で頭おかしくなった? いいから寝とけ」
ぐいっと肩を引き寄せられ、ぽんぽんとテンポ良く叩かれる。なんだなんだ、赤子の寝かしつけじゃあるまいし。あぁ、でもあったかいな。うとうとしてくる。
「ヘリオス、機嫌良い?」
「さあな」
はぐらかしたくせに、ついにニヤニヤと鼻歌まで歌い出した。行きの馬車ではご機嫌斜めだったのに、途端に機嫌を良くするなんて。
頭がおかしくなったのはヘリオスでしょ。そう言ってやろうとしたけれど、まどろんで口が開かなかった。