初めてのスコッチウィスキーは「グレンフィディック」という話
私はスコッチウィスキーを好んで良く飲む。
自宅でも飲むが、バーでもよく飲む。
あのスモーキーな甘い香りと舌ざわりがたまらない。
私が初めてスコッチウィスキーに出会ったのは二十四、五歳の頃だった。
それはひょんなきっかけだった。
当時システムエンジニアをしていた私。
十九時から同僚と飲みに行く約束があった。
残業の多かった私だが、その日は十八時に仕事が終わった。奇跡の日。
帰れるときは、迅速な撤退をモットーにしていた私。
長居は無用。長居は不幸の始まり。
「ちょっといいかな~」
なんて声をかけられる災悪にさらされる前に逃げるが一番。
なにかグズグズ喋っていた他の同僚を捨ておき、一人で会社を脱出した。
そして、飲み屋街の近くの本屋で時間を浪費していた私に同僚から一報が入った。
「一時間ほど遅れそうだ」と。
「アホどもが!無駄話にうつつを抜かしているからだ」
と毒づきながらも、先に居酒屋で「一人飲み」する気にもならなかった私は、
近くのバーで時間を潰すことにした。
そのバーは、カウンターの向こうにピアノが一台、
十人ほど座れるカウンターにボックス席が一つあるだけの小さなバーだった。
カウンターの奥には、三人のスーツ姿の中年男性が座っていた。
私は入り口に近いカウンターに腰掛けた。やはり、端が落ち着く。
マスターは、背が高く、品よく手入れされた口髭が特徴のベテランバーテンダー
という風情の男だった。歳は五十歳くらいか。
気が向いたときにピアノを弾くようだ。元はジャズピアニストだったらしい。
バーではふつうカクテルを飲んでいたので、
シンガポールスリングかトムコリンズを頼むつもりだった。
酒棚にはウィスキーの瓶がずらりと並んでいた。
私は思わず目を奪われた。
当時、バーには友人数人と行くことが多く、テーブル席ばかりで、
カウンターに座ることは少なかった。
だから酒棚をゆっくり眺めることもなかった。
なんかカッコいいなと私が眺めていると、
「ウィスキーは飲まれますか?」
とマスターが声をかけてきた。
確かにウィスキーは飲んだことあるが、ハイボールで楽しむ程度だった。
飲んだうちに入らないだろう。
ウィスキーで酔ったことがある。その程度だった。
「いいえ、カクテルばかりなんで、これ全部ウィスキーですか?」
「スコッチウィスキーが中心です。何か試されてみますか?」
とマスターが言う。
正直興味はあった。そして今、酒棚に並ぶ酒瓶を目の前にしてそれは最高潮に達している。
だが待てよ、飲んでみたことはないが、メニューは見たことがある。
ワンショット800円、1200円、2800円など、
量が少なくて、高額な印象があった。
しかしその時は、まあ一時間くらいだし、試してみようと思った。
「お薦めありますか?」と問う。
「初めてスコッチウィスキーを飲まれるんでしたら、グレンフィディックがいいですよ」
とマスターが返した。
グレンフィディック。
名前がカッコいい。
私はそれを注文した。
私は酒棚に並んでいるカッコいい酒瓶を想定していた。
が、マスターの右手には陶器ボトルが持たれていた。
『陶器って』
私は心の中で呟いた。
少し血の気が引いた。
それも一目みて王女とわかる肖像画が描かれている。
『絶対、高いやん!』。マリー王女だそうだ。
『この一杯で帰ろう』
私は注がれる琥珀色の液体を眺めながらそう思った。
まず、グラスを掴み、香りを嗅ぐ。すごくいい香りだ。
甘く芳しいフルーティな香り。
あまり酒の香りを気にしたことがなかったが、アロマを楽しんでいるような感じだ。
一口舐めてみる。
香りと同じく、甘くフルーティでかつ樽木の仄かな味わいが舌に広がる。
これはおいしい。なんだこれは。
当たり前だが、いままで飲んだウィスキーとは全く違う。
酔うための酒じゃない。そんな印象だった。
いままでと全く違う酒の飲み方を経験した瞬間だった。
しかしこのまま陶然と酔いしれる前に、私の脳裏には『お金』という文字が過ぎっていた。
途中、マスターが他のお客さんのリクエストで二、三曲、ピアノを弾いた。
一杯飲み終わり、バーを出た。一時間も居なかっただろう。金額は二千円くらいだった。
良心的なお店だったと思う。
たった一杯のグレンフィディック。
このひょんなことで入ったバーが、初めてのスコッチウィスキー体験となり、
これがその後の私の酒の飲み方を変えてしまう。
財布には残酷な酒の飲み方になるのだが、
ワインに嵌るよりはまだ財布にやさしい、という思いで、
今もスコッチウィスキーを楽しんでいる。
最後までお読みいただきありがとうございます。