千円カットの頼み方とひょんな巡り合わせの話
ちょうど後ろ髪のボサボサ感が気になり始めていたところだった。
それで今日は天気もいいし、
髪でも切ろうかと、いつものヘアカット専門店に行くことにした。
俗に言う千円カットというやつだ。
千円カットははやっているらしく、一年前でも近くに三社の店舗があった。
三社とも試しに行ってみて、一番明るく感じた店に通うことした。
金額からいって、素晴らしい接客を望んでいるわけではないが、
若干の明るさと気を使ってくれる程度の接客はほしい。
不愉快な気持ちにはなりたくない、それだけだ。
そのヘアカット専門店に通うようになってもう一年くらいたつ。
以前は、床屋だの美容室だのに通っていたが、
休日に行くと一時間以上待たされることが多くなり、
平日はなかなか時間が合わない。
仕事のからみもあり、空いた時間にパッと行って散髪してもらいたい、
そんな状況になったことがきっかけになった。
世知辛いといえば世知辛い。
そもそも髭剃りも、シャンプーも、育毛剤も、ヘアセットも、
簡単なマッサージもいらない。
ヘアスタイルにもこだわりはない。
美容室などに行くのは結婚式や、何故か呼ばれたパーティーに出席するときくらい。
しかしこれほどヘアスタイルにこだわりのない私でもなかなか踏み出せなかった。
気になってはいた。
二十年近く前からこの手の店はあったはずだ。
でも足が向かなかった。
それもヘアスタイルに興味がなかったからかもしれなかったし、
私が人見知りだったからかもしれなかった。
『要望が伝わるのか?』
気を抜くと、居酒屋でも注文が通らない私である。
どこまでちゃんと切ってもらえるのだろうか?
整える程度だったら、少し我慢して「いつもの通りで」と言えば、
いつものように散髪してもらえる、いつもの店でいい。
意を決して店に入った。それが一年前だった。
店に入ると、
「いらっしゃいませ、チケットをお願いします」
という明るい声が迎えてくれた。
まず自動販売機でチケットを購入する。
こういうのは効率的で好きだ。
待合室にはすでに一人が座っていて、
カットコーナーは三席あるが、稼働しているのは二席。
床屋さん、スタイリストと呼ぶべきなのだろう、が二名。
その二名がカットコーナーに座る顧客の髪を手際よくカットしていた。
店の感じは悪くない。
どれくらい待つのかなと思いながら店の中を観察した。
そのとき、店内に轟音が鳴り響いた。あれが噂の吸引機か。
カットした髪の毛の切りクズを吸い取る奴だ。
あの細かな、どこかに吸盤でもついているのかと思えるほどの粘着力をもつあの髪クズを。
自分で髪の毛を切ったことのある人ならわかるはずだ。
想像よりも膨大な量の髪クズが出現し、ペタリと肌に張り付く。
払ったくらいでとれるものではない。
どれくらい吸引できるものなのだろうか。あの新種の装置は。
システム化され手際よく作業が進められている。
教育が行き届いている感じだ。
ふと、遠い昔、学生のときに読んだビジネス書を思い出した。
大前研一氏「企業参謀」だったと思う。
学生の時にはよく読んでいた。
その冒頭で、「散髪屋に行くと、髭剃りやシャンプーなど自分でもできることに
時間とお金を使っていて無駄だと思う。髪だけ切ってくれればいい。
必要のないその他のコストが高すぎる!その他のサービスは止めて値下げしてほしい!」
完全にうろ覚えだけど、『的』なことが書いてあったように記憶している。
間違っていたらごめんなさいね。
あれだけ読んだ本ですが、探したけど見つからなかった。
本棚のどこかに埋もれてしまったのかもしれない。
もしかしたら整理したつもりになってしまい込んだ段ボール箱の中かもしれない。
見つかりませんでした。
あれが今、ここに現実となっているのか。
十五分ほどで私の番になった。早い。あとは私の要望がきちんと通るかだ。
いや、私がきちんと通せるかだろう。
不安と期待が入り混じる。
若い男性のスタイリストだった。
私はチケットをスタイリストに渡し、黒縁の眼鏡を預け、カットコーナーの椅子に座った。
私は、スタイリストの「担当します〇〇です」の挨拶も終わらぬうちに、
後頭部を両手で触れながら、
「頭のこの角のところから、後ろを短く切ってください。
襟足は三ミリで刈り上げてください。上と前は切らなくていいです」
と食い気味に要望を告げた。若干の緊張があったのだろう。
上と前は見えるから自分で切ればいい。
するとスタイリストさんはハキハキと応えた。
「わかりました。上は切らないので斜めな感じになりますけど?」
「はい、いいですお任せします」
「完全に耳が出るくらいでいいですか?」
「はい、いいです」
「後ろは、ハサミで切れるギリギリまで短く切っていいですか?」
「はい、お願いします」
『ハサミで切れるギリギリまで』。
すごく良い言い回しだ。
そう、そうして欲しい。もしかしたら、すごい良いかもしれない。期待が膨らんだ。
カットは十分ほどで終わった。
鏡を使って、後ろ、襟足の仕上がりを確認する。
良い感じだった。了承すると。
あの例の吸引機で髪の毛を吸い取る、気になる程の音ではなかった。
ヘアカットが終わった。
店に入ってだいたい待ち時間も入れて、三十分ほどだろうか。
早いし、カットにも満足できた。これならOKだ。
ヘアカット後、髪の中を除菌シートでゴシゴシこすると少し髪クズが残っていた。
でも気になるほどではない、
結構吸引するものなんだなあ、あの新種の装置。
私はこのヘアカット店に月一回~二回通うことにした。
どう散髪して欲しいか。
言うことはいつも同じだった。
スタイリストはその日によって変わるため散髪の程度はマチマチだが、
そもそもヘアスタイルにこだわりのない私。全くの許容範囲だった。
半年くらい通ったある日、カットコーナーの稼働がいつもは二席だったのが、
その日は三席だった。
私がいつも通う時間帯がたまたまそうだったのだろうけど。
繁盛しているようだ。
二十分ほど待ち、私の番になった。
どう散髪して欲しいか。
私が言うことはいつも同じだった。
そして、カットも十分程度で終わった。
その間、ふと仕事のことを考えていた。たかだか十数分なのに。
カットが終わり、いつものように鏡で後頭部を確認して、店を出る。
流れはいつもと同じだった。
帰り際、ふと、後頭部を手で触れた。
違和感が、違和感が掌から脳に伝わってくる。
切られてない。
無いはずのボサボサ感が両手いっぱいに広がった。
これって、襟足を整えただけだよね。
茫然となる。
油断してしまった私が悪い。
鏡で確認したときに気づくべきだった。
ある本に、どの本だか忘れたが、
『人間の脳には盲点というものがあり、
脳は、その人間にとって重要な情報しか認識しない、
日常生活の中で視覚には大量なデータが送られてくるため、
そのすべてを処理していては莫大な活動エネルギーが必要になる。
脳はその活動のエネルギーを節約するため、このようなシステムが組み込まれている』
と書いてあった。
集中力を欠いた私は、大事な『鏡での後ろ髪の確認』をないがしろにしてしまったのだ。
時間とともに、無くなっているはずの後ろ髪からくる違和感が襲来し、
気持ちが悪くなってくる。
夜、帰宅してすぐに、浴室に新聞紙を敷き、後頭部を鏡に映しながら自分で切った。
鏡には逆に映るため、後ろ髪を切るのはかなりの脳トレ状態だった。
排水溝にはネットをかぶせてあるが、気になるので髪クズをガムテープで吸着した。
思ったより髪クズって多い。
自分で髪を切りながら、なとなく情けない気持ちになった。
大事なところで油断する。私の悪い癖だ。
いや。そうだろうか?
あの鏡を見た時、少し違和感を感じていた気がする。
確かにそうだ。
『ここを短く切って下さい』と、『切り直してくれ!』という要望が
言えなかっただけなのではないか?
そうかもしれない。そうに違いなかった。人見知りだから。
しかし、我ながら上手く切れたな、後ろ髪。なかなかいい出来だった。
浴室の鏡で確認しながら、至極満足した。
まあ、いい。今後は気を付けよう。
それからまた半年ほど通った。
その間、何の問題もなかった。
いつものように要望通りの仕上がりだった。
そして今日は、友人の結婚式などがあり、
柄にもなく美容室に行ったりしたので二カ月ぶりだった。
待合室にはすでに二人が待っている。
カットコーナーはいつもどおり二席が稼働。
いつもより、少し待つかな。そうな感じがした。
すると、五分ほどして助っ人が現れた。
私服を着た背の高い青年が「お疲れ様です」といいながら入店してきて、
奥の部屋に消えた。
スタイリストが増援されたのだ。
これで待ち時間が大いに短縮される。ラッキーだと思った。
そして待ち時間は大いに短縮され、なんと増援された青年スタイリストが
私の担当になった。
もしこの増援がなければ、待ち時間はあと二十分近く長かったのかもしれない。
運のいい日もあるものだ。
私の要望はいつも同じだ。
青年スタイリストは手際よく、まずバリカンで襟足を刈り上げていく。
良い感じだ。
そしてバリカンを置き、後頭部にハサミを入れ始めた。
しかし、すぐに違和感めいたものが後頭部に広がった。
なんとなくハサミの入りが浅い。というか、入っていない?
後頭部の神経がピリピリと張り詰めた。
『後ろは短く切って下さい』と、もう一度言ったほうがいいのか。
いいや、相手もプロだし。
後から切るつもりなのかもしれない。
それにしてもハサミの入りが浅すぎやしないか?
いや。作業中に口を挟むのは良くない。
私の中で人見知りにしか起こらないであろう葛藤が生じていた。
青年スタイリストが、ハサミを置いた。ヤバいかな。
青年スタイリストが、両手を拭きだした。ホントに、ヤバいかも。
青年スタイリストが、私の眼鏡をいれたケースと、鏡に手をやった。絶対ヤバいやんか。
私は素早く後ろ髪に手をやった。かなりのボサボサな感覚が両掌から伝わる。
「確認をお願いできますか?」
という青年スタイリストの言葉に被せるように、
「ここの、後ろ髪が気になるので短く切ってもらえますか?」
と思い切って伝えた。
すると青年スタイリストは、
「切っていいんですか?」
と質問で返してきた。全く伝わっていなかったのだ。
「お願いします」
というと、再び、後ろ髪にハサミを入れてくれた。
後頭部の神経は張り詰めたままだ。
確かに先程ハサミが入らなかった場所に、ハサミが入ってきている。
だが、だが、浅い気がする。なんか、浅い気がする。
ハサミが置かれた。きっと駄目だ。
両手を拭きだした。ホントに駄目だな。
私の眼鏡をいれたケースと、鏡に手をやった。絶対駄目やんか。
しかし、千円カットで二度のやり直しはきついかもしれない。
絶望感が胸中に広がる。
「確認をお願いできますか?」という青年スタイリスト。
鏡を確認した。駄目だと思ったが、私の答えは決まっていた。
「良いです」
店を出て、後頭部に触れてみた。やはりボサボサ感があった。
そしてその時、あの日の記憶が蘇った。
きっと半年前のスタイリストさんだよ。
襟足を整えてくれただけ感の仕上がりだった人だ。
相性があるのだろうか。どういえば良かったのだろう。
月一回ペースなら、人の髪の毛は一ヵ月に約一センチほど伸びるそうだから、
もちろん個人差はあるだろうが、
『一センチ切ってください』と言えばよかったのかもしれない。
自分から『後ろは、ハサミで切れるギリギリまで短く切って下さい』
と言えば良かったのではないだろうか。
年に二回の、私の人見知りを抉るようなこの巡り合わせ。
ふと思う。
「いつもの通りでお願いします」で伝わる付加価値もあるのかもしれないなと。
しかし、今回は前回より、自分で切る髪の量は少ないはずだ。
一歩、一歩だ。
私のような人間は少数派だろうな。
空を見上げると、薄い雲が流れるだけの快晴の天気だった。
少し手のかかる人間なのかもしれないな、私は。